第5話 冬晴れの匂い


「お母さぁん? こんにちは?」


 泣きわめく赤ちゃんと立ち尽くす女。

 遠巻きにチラチラ見られていたけど、とうとう声がかかった。


 一歩向こうから覗きこむ。明るい笑顔のその女の人は、警察官だった。



 なんだろう、これ。職質っていうあれ?

 とうとう不審者だと思われたのか。あ、もしかしたら誘拐を疑われた?



「具合が悪くなりましたか? 辛かったらお手伝いしましょうか」


 若い女性警官は落ちた膝掛けを拾い、後ろにいた男性警官に渡した。その人はバフンと埃を払い、畳んでこちらに返してくれる。

 でも動けなくなった私は受け取れなかった。



 警官なんて。どうしよう。

 姿を見ただけで不安になる。何か悪いことをしたんだっけ。


 でもそうだった。私は悪い人だった。

 子どもを捨てて野垂れ死にたいって思ったよね。悪い母親なんだった。

 だからこうして呼びとめられる。



「何かお困りでしたら、お話を聞きますよ」


 うそ。捕まるの?

 もう何がなんだかわからない。怖くて固まって動けない。何も言葉が出てこない。


「お子さん、泣いちゃったんですね。お母さんが抱っこできます? 私達じゃ、もっと泣いちゃうかな」


 警官がニコニコと娘を眺め、私に近づいた。よく知らない制服。怖い。

 後ずさりそうになったけど、もう動けなくて出来ない。


「ほっぺプクプクだし、元気な声だし、しっかりお育てですね」


 微動だにしない私の背中に手を回し、警官はうんうんとうなずいた。


 制服から、うちと同じ洗剤の匂いがした。




 娘の小さな服。タオル。シーツ。

 取り込んで畳む時の匂い。

 私が精一杯暮らしてる匂い。




 私の唇が動いた。


「――この子を、助けてください」


 この警官も、中身はただの女の人だ。

 懸命に暮らしているだけの、人なんだ。制服を洗濯して干している、暮らす人。


 警官はうんうんとまたうなずいた。


「何ができるか考えましょう。お母さんのこともね」


 やっと動けた私はベビーカーの脇から娘に触れた。べしょべしょの顔をガーゼで拭く。

 娘はしゃくりあげながら私に手を伸ばした。


「まーまー」


 え。


 ほったらかされた娘の顔は怒ってる。

 でも私をしっかり見てる。

 そして、私を呼んだ。


 久しぶりに私は泣いた。






 私は野垂れ死ねないらしい。


 そうでしょうね。町なかでそんなこと、許してもらえない。アパートの部屋でも娘が泣き続ければ通報される。

 娘がいる限り私は死ねない。


 自分で死ぬ度胸もない。甘ったれの意気地無しだ。私はたぶん、まだまだ死ねない。



 野垂れ死にさせてもらえないのなら。

 野垂れ死ぬまで死ねないのだから。




 娘がいる限り私は死ねない。






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野垂れ死ぬまで死ねない 山田とり @yamadatori

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