第47話 エピローグ

 地上の喧噪から遠く離れた地の底では、しんしんと凍れるように冷たく、静謐な空気が流れていた。

「お帰りなさいませ、泰山府君」

 冥府の御殿に戻った神を、一足先に戻っていた紅騎が出迎える。

 大きな瓦屋根を持ち、巨大な朱柱に支えられた御殿の頭上には極光が揺らめいているとは言え、冥府は常闇の世界だ。白い長衣をなびかせて、泰山府君が門をくぐると、その白がより眩しく、底なしの闇がより昏く、互いを際立たせるのだった。

 壺中の天のごとく、鵲の白のごとく。主のいない冥府は、目の描かれていない龍の絵のように大切ななにかが欠けている。

 だからこそ冥府で使役される官吏たちは、いつも泰山府君の帰りを心待ちにしているのだった。

「あの代書屋は泰山府君に迷惑をかけすぎじゃないでしょうか……いえ、出された鍋は美味でしたよ? しかし、それとこれとは違う話でしょう。府君の手の怪我もよくなってませんし、体を酷使するような術は控えていただいたほうがよろしいかと存じます」

 紅騎は並んで歩きながら泰山府君の肩に毛皮のマントをかけ、なにくれと体をいたわっている。しかし、尽くされているはずの泰山府君は面白くなさそうな顔をして、足早に廊下を歩いていくばかりだった。

「……泰山府君? あの代書屋のところで、なにかあったのでございますか? もし府君を不快にさせるような真似をあの娘がしたのでしたら、私が冥府まで連れてきて頭を下げさせてやります」

「別によい。不快にはなったが、わざわざ冥府に呼ぶようなことではない」

 部下の暑苦しい忠誠を追い払うように、泰山府君は手を振る。

「ただほんの少し……足下で蠢く蟻のなかで、変わった動きをする一匹がいたから、退屈しのぎに眺めていただけのことだ」

 泰山府君は自分の椅子に座ると、ゆったりと足を組み、背もたれに体を預けた。

「あの娘はまだ、おのれの天命を知らぬ。ともすれば揺らぎ、ともすれば命を手放してもいいというほうへ傾く天秤のような天命を……」

 その揺らぎを、ほんのわずかの間、神の力で押さえ、運命を変えさせる遊戯に興じていただけのことだ。

 自分の手をはねのけられたからと言って不機嫌になる謂われはない――泰山府君は自分自身にそう言い聞かせた。

「藍夏月……その天稟をもっともっと磨くがいい……この私を飽きさせないように。その天稟が地を揺るがすように、な……」

 常闇のなか、青白い極光の幕がきらめく冥府の底で、神はどんな思いでその言葉を呟いたのだろう。

 ――もの憂げな神の呟きは、地上に生きる夏月のもとまでは届かなかった。


[終]


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鵲の白きを見れば黄泉がえり~死者の手紙届けます 紙屋ねこ(かみやねこ) @kamiyaneko

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