第46話 黄泉がえりの娘は女官から官吏に成り上がる!?
夏月が死にかけた数日後、清明節の祭祀は滞りなく行われた。
行事として一般に公表されている表の祭祀はともかく、裏の祭祀――天原国の祖霊を慰める祭祀に関しては、噂好きの後宮でさえ誰も知らない最高機密だ。
しかし、夏月が天原国の秘書を見つけ、解読に尽力したからだろう。
裏の祭祀をもともと行うはずだった第三王子――媚州王は後宮を出され、第四王子が祭祀を行ったことを洪長官が教えてくれた。夏月はその意味を問わなかったが、洪長官が後宮の女官のために尽力してくれたことに対して一礼して感謝したのだった。
妹の瑞側妃の消息もわかった。彼女はあの夜、やはり殺されなかったようだ。一度は後宮に戻っており、その後、媚州王に下賜されたらしい。
第三王子である媚州王の罪は公にされなかったが、遠流同然の地にやられるのだと言う。
運命の来し方行く末を知る神が、『どちらがあの女にとっていいことかはわからぬ』などと言っていたくらいだ。
自分の姉と決別する原因となった男と、軟禁同然で暮らすのは、悋気の強そうな彼女にとっては耐えがたい屈辱なのかもしれなかった。
写本府には以前と同じ――いや、似て非なる静かな時間が戻っていた。
カタンカタンと文鎮を置き換える音、ぱらりぱらりと紙をめくる音だけが、ゆるやかな空気のなかに響いている。
夏月が書いた『格物致知』という格言は壁に大きく掲げられ、官吏たちは手を止めた瞬間にときおり眺めているようだった。
以前に流れていた気怠げな空気とは違う。ゆるやかでいて、さわやかな風が天窓から吹きこみ、写本府のなかに流れていた。
夏月は官吏の間を回って、作業が滞るないように水を補充し、竹簡を片づけたあと、書きあがった紙を集めて、紐で綴じる作業に苦心していた。
かたわらでは、本としてできあがったばかりの綴りに題名を書き入れている洪長官がいる。
あいかわらず、なにを考えているのかわからない青年だが、上司が持つ独特の空気にもだいぶ慣れてきた。
それでも、ふとした瞬間に、この人はなにを考えているのだろうと頭を抱えたくなることがある。
このとき切りだされた話もそうだった。
「そういえば、夏女官との員外女官契約は……清明節をまたいだ一ヶ月間ということになっていたな」
独り言を言うように、ぽつりと、呟かれたので、夏月としても「そうですね」と短く答えるくらいしか、返しようがなかった。
夏月としては、契約が終わったら女官を辞めようかと考えていたからだ。
短い女官勤めだったが、そろそろ灰塵庵で滅多に来ない客を待つだけの暮らしが恋しくなっていた。
琥珀国の王族の祖霊廟に入るばかりか、天原国の祖霊廟も発見し、二度も死にかけたのだ。正直、心も体もまだ疲れ切っている。
――その前にも二回ほど死にかけていたし、今年はやっぱり泰山府君の言うとおり、凶相が出ていたのかもしれない。
泰廟の框に頭をぶつけて冥府落ちした分を二回、指折り数えて足してみて、夏月はため息を吐いた。
初めて、冥府に落ちたとき、なぜ死んだのかもわからなかったのに、このまま死ぬのも仕方ないと、死を受け入れる覚悟を一度はしたはずだった。
――なのに。
ふとした瞬間に、企みを秘めて微笑む冥府の王の姿が頭を過ぎる。
泰山府君のせいで、さらに二回も死にかけたのだ。いや、正確に言えば、一回は死んで、よみがえらされたのかもしれない。
そのときのことを夏月はおぼろげに覚えていた。
天命の蝋燭にともった炎は強い風に一度はゆらぎ、消えたと思った瞬間に、勢いをとりもどした。
死んだと思った瞬間の、生を手放した感覚は、いまだ夏月のなかに生々しく残っている。だからこそ、余計に気づいてしまったのだ。
――わたしはまだ……死にたくないのかもしれない。
何事も為さずに、幽鬼になったかのように引きこもって生きるなら、死ぬのもそう変わりはないと思っていたはずなのに。
自分の生命が本当に危機に晒された瞬間、やはり死にたくないとはっきりと足掻く自分がいたのだ。
泰山府君が本当はなにを考えていたのか、夏月にはいまでもわからない。
――でも、もしかすると、あの神は本当は……。
神の企てに夏月を巻きこんだように見せながら、夏月自身が心の奥底まで強く生に執着していることに気づかせようとしたのかもしれない。
そんなふうにも思ってしまう。
「でも、まさか……でしょうね」
神というのは傲慢で、有象無象の人間など、人間にとって蟻と同じ。
夏月はそう言い聞かせて、目の前の作業に没頭することにした。
夜はまた鬼灯の一差しとともに『万事、代書うけたまわります』という看板を出そうか。
泰廟がある山裾の代書屋には、ときおり訳ありの客が訪れる。
人間や幽鬼の客に紛れて、そのうち神の客が訪れるかもしれない。夏月はそんなふうに思い、日々、早く店を開けたい気持ちに駆られている。だから、正式に期限が来たときには「女官の契約を更新しない」とはっきりと伝えるつもりでいた。
ところが、なにを思ったのだろう。洪長官は夏月からすると完全に想定外の、斜め上の話をはじめたのだ。
「夏女官は官吏になろうと思ったことはないのか?」
「……はい?」
あまりにも予想外の言葉に衝撃を受けた夏月は、いま女官を辞めたいと言おうと思ったことも忘れて、いっそすがすがしいまでの笑顔になった。
紐で綴じ終えた書物を、あえて丁寧に並べ直し、一拍置いてから返事をする。
「へえ……洪長官、知らなかったんですか? 実は琥珀国では女性は官吏になれないのですよ……そういうことを知らなくても、写本府の長官にまでなれるものなのですね……へえぇ……」
夏月にしては珍しく、嫌みたらしい口調が滲んでしまった。
この上官のこういうところが苦手だ。ときおり、鋭いまでに夏月の精神的な傷を抉ることを言う。
いっそ期限を待たずに女官を辞めよう。あるいは休みをとって出仕をやめてしまおう。この上官のもとにいたら、この嫌みたらしい口調が地になってしまいそうだ。
――格物致知、格物致知です……夏月。人を脅すような言葉遣いではなく、書物の知識によって人の心を動かしたいのですから……そう、師匠のように……。
自分の憧れの師匠やその書、そして、たくさんの兄弟子たちの顔を思いだしては、荒ぶりそうになる心を抑える。
夏月は鬱憤を晴らすように、鋭い錐を次の書物の束に突き立てた。
「わたしは員外女官の契約を更新しませんよ」
夏月はざまあみろ、とばかりにきっぱりと告げた。これでもうこの上司とは関わることはない。すっきりした気持ちでこの話は終わりにしたつもりだったのに、洪長官のほうは意に介するでもなかった。
「それなら、官吏として契約するのはどうだ? 前例がないからと言って可能性がないわけではあるまい。清明節の祭祀のさい、天原国の秘書を解読してもらっただろう? 実は、あの書を国王陛下に見せたところ、夏女官の字をいたく気に入っておられてな……官吏として雇ってもいいとの宣旨をいただいているのだ」
今度はさらに斜め上の話をはじめたのだ。
「……はい? いったいなんのお話をされているのか、わたしにはさっぱりわからないのですが……初耳ですけど!? いえ、待ってください……まさか、あの秘書を解読したのが女のわたしだと伝えないまま、その宣旨をいただいたわけでは……ありませんよね?」
問いかける夏月の声は最後のほうが震えていた。なぜだか背筋が寒くなった気がする。あるいは、怒りで震えているのだろうか。夏月にももう、乱高下する自分の感情をどのような名前で呼べばいいのか、わからなくなっていた。
洪緑水はそんな夏月の様子も気にする素振りはなく、うーん、と考えこむ仕種を見せたあと、
「そこは……これから許可をもらうところだ」
そう気軽な調子で言ったのだった。
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