第45話 やさしい幽鬼の殺し方④
幽鬼に引きずられて、ずるずると外に連れて行かれると、闇をつんざくような悲鳴がだんだんと遠のいていく。その音がもう聞こえなくなったとたん、夏月のなかで緊張の糸が、ふつりと切れた。ずるり、と泰山府君の服にしがみつくようにしてくずおれる。
「なんだ、代書屋。そんなくたびれた様子で……幽鬼の手紙を出してやりたいと言ったそなたの願いは叶ったであろう。もっとよろこぶがいい」
神の意見はいつでも正しい。ある側面においては、という注釈付きだが。
「確かにあの幽鬼は……会いたい人に会えたのでしょうし、これで請け負った手紙を出してやることができます。ありがとうございました」
「うむ……大儀ないことだ」
「瑞側妃は幽鬼に殺されてしまったのでしょうか?」
声が聞こえなくなった理由を察して、夏月はぶるりと震える。
「さぁ、どうであろう……おまえがあの幽鬼に襲われたときは殺されなかったな? あの幽鬼は生者を殺すほどの力はないのかもしれん。あるいは、生きていたときのやさしい性格が残っていれば、殺しまではしないのかもしれん……どちらがあの女にとっていいことかはわからぬが」
「死んだほうがましだと?」
「そういうこともあろう」
泰山府君はそっけないが、嘘を言っているふうではない。それなら、夏月はあの幽鬼は殺さないだろうと思った。やさしい幽鬼というのも奇妙な物言いだが、実際そうなのかもしれない。そして後宮とは、やさしいだけでは生きていけない場所なのだろう。彼女はやさしいがゆえに殺されてしまったのだ。
「わたしは……瑞側妃が少しだけうらやましいです」
「あの女に殺されかけたのにか?」
こくり、と夏月は首肯した。恨みであろうと憎しみであろうと、あの幽鬼は瑞側妃に会いにきてくれたのだ。それが夏月にはうらやましくて嫉ましくて、心の奥底がじりじりと灼けつくように痛んだ。
「幽鬼は……みんながみんな、心残りがあって、現世を彷徨うわけではないのですね」
夏月はぽつりと小さく呟いた。そのかすれた声は、もう悲しみに慣れきって慟哭を忘れた者独特の、感情の抜け落ちた響きになっていた。
「前にも言ったが、おまえは死者に肩入れしすぎる。だから、死相が出るのだ。生きている者は死者を忘れ、死者の分まで精一杯生きていく……それが生者としての勤めであろう」
『死者に肩入れしすぎるな』とは、以前にもされていた警告だった。確かにそうかもしれないし、死にそうな目に遭ったのは夏月の自業自得なのかもしれない。
――でも……と心の奥底で拗ねた子どもが抗うような声がする。
泰山府君が本当はなにを考えているのか、夏月にはわからない。
神様や仙人といった存在を、夏月は信じているようで、本当は欠片も信じていなかった。なのに、泰山府君は幽鬼ではない。触れればあたたかいし、怪我もするのだろう、左手にはいまだ巾を巻いたままだった。話をしていると、幽鬼とは違い、生きている人間と話しているような錯覚に陥る。それでいて、冥府の王の言葉を人間の尺度で考えてはいけないと、頭の片隅で冷静に警告している自分がいた。
「でも、泰山府君……夜に看板を出すようにおっしゃいましたよね? そして看板を出していたから客がやってきてわたしは殺されかけた……もしかして、わたしに死相が出るのは泰山府君の助言に従ったからではないでしょうか?」
足下で蠢く蟻ごときを踏みつぶそうが、道を塞いで思い通りの方向へ向かわせようが、それで神の心が痛むわけではない。
冥府の王が親切で助けてくれたなどと考えるのはあさはかだ。しかも、同じ日に二度だ。溺れ死にそうになったのと、小刀で刺されそうになったのと。
いくら助かったとは言え、一日に二回も殺されかけるなんて、死相が出ているにも、ほどがあるだろう。
――もしかして泰山府君の目的のために、わたしは命の危険にさらされたのではないのだろうか。
矮小な蟻の身で神の企みを暴くなどおこがましい。夏月としては、怒鳴りつけられるのを覚悟で言ったつもりだった。なのに、仕組んだ張本人は隠すつもりなど毛頭なかったらしい。泰山府君は整った唇を弧の形にして微笑んでいた。余裕綽々の笑みが凄絶なまでに美しく、夏月としてはそれ以上の言葉が出てこなかった。貴人は自分の罪をそしられるときでさえ、狼狽えることはなく傲慢な笑みを浮かべるのだ。
「だとしたら、なんとするのだ? 私はおまえにああしろこうしろと命じたわけではない。あくまで選択肢を示してやっただけで、選んだのは、代書屋……おまえ自身であろう」
ぐ、と言葉に詰まるのは、泰山府君の言うとおりだからだ。
泰山府君の言うとおりに後宮に出仕し、死にそうになったあとだから、夏月はうすうす気づいていた。看板を出したら、また危険な目に遭うかもしれないと思いながらも、店を開けたのだ。
「わかっているだろうな、代書屋。私がおまえを助けてやるのはあと一回だけだ」
泰山府君の響きのいい声は厳然としていて、裁判官特有の、人情に流されない壁のようなものがあった。そこから先には誰も踏みこめな『なにか』は、夏月ごとき矮小な蟻の身には計り知れない神々の作った
それでいて、夏月の感情は泰山府君の言葉に乱されていた。
――わたしが泰山府君の言葉を疑っているのは伝わっているはずなのに……。
まだそんな親切めいた助言を口にするなんて。
夏月は唇を固く引き結んで、髪に触れた。ちりん、と簪が涼やかな音を立てる。
「わたしはもう……泰山府君を呼びません。最後の一回は助けていただかなくても結構です」
夏月は髪から簪を引き抜いて、泰山府君に向かって差し出した。
どうやら、夏月の行動は冥府の王にしては予想外だったのだろう。目を瞠って驚いている。
「いらぬ!」
喚きたてる幽鬼を一声で黙らせる勢いで、手にしていた羽毛扇で手を叩かれた。羽であっても、少しだけ痛い。
「神からの贈り物を自分から返すなど……なんて不敬な娘だ」
整った相貌に不機嫌さが現れていた。こういうところが人間くさい神だ。傲慢で、人間を超越しているくせに、感情だけは我が儘な貴人の子どものようだ。
神は夏月の手から簪を掴むと、乱雑にまた夏月の頭のお団子に乱雑に挿した。銀の簪がちりん、と抗うような音を立てる。
「藍夏月――喚きたてる定命の人間よ。しばらくの退屈しのぎぐらいにはなった。簪はその礼にとっておくがいい」
ふん、と憤りを紛らわすように視線を逸らす泰山府君を見て、今度は夏月が驚く番だった。
いままでずっと代書屋と呼んでいたくせに、冥府の神から名前を呼ばれる日が来るとは思わなかったのだ。
「泰山府君、二度までも助けていただき、ありがとうございました」
白い衣を纏う神に敬意を表して、拱手拝礼する。
「死ぬのは困りますが、生きていてもお手伝いできることなら、また冥府でも代書係を勤めさせていただきますよ」
まだ左手に巾を巻いているのをちらりと見たあとで、にっこりと笑って見せた。
「……ふん。冥界の死者など、いくらでも待たせておけばいい。おまえの手を借りるまでもないわ」
泰山府君はそう言うと、くるりと身を翻して、するりと部屋を出ていってしまった。店の外ではなく、裏手のほうの扉だ。
裏手の山裾は泰廟がある小山と地続きになっているし、結界さえなければ、自由自在に陽界と冥界を行き来できるのだろう。そこは出口ではありませんよ、などと追いかけはしなかった。
店仕舞いをすませた夏月が外廊下に出たとき、暗闇に沈む山裾に、白い長衣を纏った貴人の姿は当然のようになかった。
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