山の子 第三章(1-21)

「山中に樹海か」

 大人が五、六人はすっぽり収まりそうな樹幹のカツラを見上げながら、雲景が呟いた。

 政綱、雲景、重任の三人は、獣の来た道を辿って進み、広大な樹海の入口に立っている。

 六台山の土台を成す四つの峰に生えた木々にも立派なものはあったが、この樹海は見える限りの木が全て高く、太い。政綱は育った鳳至ふげし山の樹海と、太郎坊の<庭>にある森を思い出した。

 この緩やかな傾斜を持つ樹海を越えると、昨日は調査しなかった二つの峰に至る。上から見たならば、おそらくは樹海に浮かぶ島のようになっていることだろう。

 林から樹海への境を示す様にそこにだけ生えているカエデの下を通り、三人は樹海に踏み込んだ。


「獣達はここから出て来たのか」

 樹海のあちこちから集まった獣達が、一つの大きな波となったらしい。踏み倒された若い木や、湿った土を踏み荒らす夥しい足跡を見ればよく分かる。

「ここからはどうする?まさか全部を辿るわけにもいかないだろう」

 その問いに政綱が答えた。

「そうだな」

「じゃあ、どうするんだ?」

「たった一頭の猫又の棲み処を探すわけではない。今のおれ達にとっては、大まかな流れを追うことが肝心だ。広く見渡しながら進めばいい」

「そうすれば、獣を恐れさせたモノに辿り着けるのか?」

「そう信じよう」

「うぅむ、とにかくやってみる他ないか……」


 見上げる程大きな木々が、緑の天井を作り出している。樹海の空気はしっとりと湿り、薄暗く、そして獣臭い。

 三人は間隔を空けて横に並び、辺りを見渡しながら進んだ。

 麓や山中から起こる騒音が、段々と背後に遠ざかって行く。

 樹海には人の手が入った跡が見当たらなかった。村人達は、麓に広がった林からの恩恵で満足していたらしい。近くに大きな宿も町もないことで、材木を伐り出して売るということも考えないのだろう。

 高く伸びたミズナラの樹皮は地衣類が覆い、枝からは苔と蔓が垂れ下がっている。ずっと頭の上では、なんとか日光を浴びているらしい藤の花が垂れ下がっていた。足元には昨日政綱が一々足を止めていたような岩石がそこかしこに鎮座し、中には苔むしたその岩を呑み込んで根を張る大きなクスノキも見られた。

 政綱と重任は古代の景観を残した樹海の様子にも圧倒されることなく、淡々と歩を進めている。しかし雲景には全てが大きく、感動的に映った。

 大木や岩の一つ一つに何かしらの意味を見出したくなる。実際、そう思える程に大きく、深く、そして広い樹海だ。


 自分達が会おうとしている神は、天地の開闢以来この山を支配してきたのだろうか。雲景は猿どころか人間でも腰掛けられそうな程に大きく、肉厚なサルノコシカケを見ながらそう思った。こんな大きな森を育てた神に、人間の声など届くのだろうか。古代の先人達が、神々と戦って人界を手に入れたのは、それ以外に方法がなかったからなのかもしれない。

 ――そんな存在に私達の言葉が届くのか?

 萌した不安が少しずつ育つのを、雲景には止めようとして止め難い。

 この先に待ち受ける結末を、政綱と重任はどう考えているのだろうか。人と神の間に立つ人狗と、山の民である彼等には、相応の覚悟というものがあるのに違いない。その覚悟とは、死の覚悟だろうか。それとも生き抜く覚悟だろうか。仲間達の心中を推し量ろうとする内に、雲景は自身の覚悟を見つめ直していた。

 ――揺らがないと決めたはずなのに、何と弱いものだろうか。

 心が塞ぐのを押し止めようと、腐葉土を抉る獣の足跡を探す。雲景が見つけた中には、人の掌よりも猶大きな足跡があった。政綱が見たという猫又だろうか。それともあのダイオウヌエとかいう空飛ぶ鵼だろうか。

 頑張ってそんなことを考えていた雲景の頬に、微風が触れた。思い出してみれば、昨日この山に入ってからというもの、風を感じるのは稀れだった。そのお蔭で昨夜は焚火だけでも風邪をひかずに済んだのだが、山で風が吹かないとは、思えば不思議なことだ。


「政綱――」

 雲景は左側を歩く政綱に声をかけた。その雲景を、政綱は手で制した。「伏せろ」というように手を動かしている。政綱の更に向こうに居る重任も、同じように手を動かしていた。雲景は地面にへばりつくようにして伏せた。

 政綱は雲景をちらっと振り返り、口に手を当てて静かにするよう命じると、クヌギの陰から重任の背中を見た。倒木の陰に身を伏せた重任は、腐った木の隙間から何かを見ているらしい。

 政綱も目を凝らして遠くの樹間を見つめた。鳶の目はすぐに動く物を捉えた。何かは分からないが、茶色い群れが樹海を駆け抜けているようだ。鳴き声も唸り声もなく僅かに葉を揺らすだけで、素早く静かに駆け抜けて行く。その僅かな音が遠ざかるのを待って、政綱は重任の隣まで歩いた。片膝をついて、何かが去った方向を見ながら尋ねた。


「今のが何か分かるか?」

 重任は首を横に振った。政綱は一度頷くと、茶色い群れが出て来たであろう方向に目を転じた。

「まるで飛ぶような速さだったが、間違いなく地面を走っていた。そうなると風狸ふうりでも野衾のぶすまでも有り得ない。奴らは滑空すれば素早いが、地に下りて走るとそうでもない」

「そうでもないだって?それはあなたにとってはそうだろう。だが――」

 重任は顔に笑みを浮かべた。

「その考えには同意だ。あれは違う何かだ。頭が高い位置にあったような気がする。と言っても、何なのかは分からないな」

「もしかすると……」

「もしかすると、何だ?」

 政綱はすぐには答えず、振り返って雲景を手招きし、草匠そうしょうが小走りでやって来るのを待ってから続けた。

「確証はないが、あれは山神に連なる者達かもしれん」

「えっ⁉」

 雲景が声を上げた。青い裾濃すそごの水干は泥だらけになっている。

「確証はない。おれにもはっきりとは見えなかったからな。だが、ここにきて急に風が戻ってきたのは、何かの兆しなのかもしれん」

「お前も気付いていたのか?」

「ああ。気の所為かとも思ったが、さっきクヌギに身を寄せた時に、はっきりと樹液の匂いが鼻に届いた。じきに残った獣の臭いも運び去ってくれるだろう」

「それはありがたい。出来れば着物についた臭いも取ってもらいたいものだが」


 政綱は鼻で笑った。

「それは諦めろ。そこまで泥だらけで、しかもあちこち擦り切れてしまっては、新調した方がいいんじゃないか?」

「そうしようとも。今度はそうだな、黒い生地で作らせよう」

 その冗談に、政綱は自分の装束を指し示しながら応えた。

「こんな風に辛気臭い格好を?いい事を教えてやる。黒は値段相応の見え方をするものだ。もっと違う色にしておけ。喪服と思われるのを避けるだけではなく、みすぼらしいと思われたくなければな」

「ご忠言痛み入る、人狗殿。それで、今度はあの群れ――眷属神か?――の来た道を辿るわけか」

 政綱は頷いた。

 だが重任はそれに異見を示した。

「あれが、神その方だとしたら?その可能性も捨てきれん。むしろ追ってみるべきでは?」

「確かにな。だが、今のを眷属と考えたのも、おれの勘以上のものではない。蓋を開けてみれば全く違う山の妖かもしれん。今はこのまま<庭>探しを優先するべきだ」

「いっそ二手に分かれてみないか?私が今のを追い、二人は<庭>を探す。これはどうだ?」


 政綱の顔が曇った。

「それはやめておけ。あんたも先刻承知の通り、おれ達はこの山に関わる全ての者にとって、敵になりかねない立場にある。現にそう思われているかもしれん。おれ達に麓の連中のような軍勢があれば手分けもしよう。だがたった三人で数百の、いや探題勢が来ていれば数千かもしれない人間と、どれだけの数かもしれん山神の軍勢を相手にして、バラバラに動くのは自殺に等しい。気を悪くしないでほしいが、二人はおれとは違う。おれならば山を使って生き延びることが出来るかもしれんが、あんた達には難しいはずだ」

「……分かった。言う通りにしよう」

 重任にはこう答える他なかった。古来、神との交渉――話し合いにせよ、戦いにせよ――には多少なりとも異能者が介在してきた。重任にとっては、政綱の他に頼れる者はいないのだ。それに政綱の表情には、有無を言わせぬものが看て取れた。重任はそれを威圧ではなく、仲間の身を案じてのことだと受け取った。

「そうと決まれば急ごう」

 重任が先頭に立ち、樹海を駆け抜けた茶色い群れの足跡を探した。

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(旧)人狗草紙 ―山の子— 尾東拓山 @doyo_zenmon

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