第四章



 水の滴る音がする。天井の破れから降り込んだ雨が、幾つか小さな水溜りを作っている。眠っている間に雨が降り出したらしい。

 誰かが堂の戸に近付く気配に目を覚ました政綱は、耳を澄ませた。雨音に交じって息遣いが聞こえる。太刀を引き寄せて静かに起き上がると、戸外の気配に向けて誰何すいかした。

「誰だ?」

「……呼びつけたのはお前ではなかったか?」

 烏はきちんと役目をこなしてくれたようだった。男の声は政綱には馴染み深いものだ。「入れ」と声をかけると、思った通りの人物が、濡れた衣服を手で払いながら入ってきた。政綱同様に総髪を束ねているが、結び目は政綱よりも高い位置に作り、襟足の余計な髪は切り揃えている。

「久しいな、広有」

 政綱は呼び出した相手、藤原広有の肩を叩いた。広有も政綱の肩に手を乗せて頷く。

「全くだ。元気そうで何よりだ、政綱」

 政綱が烏に伝言を頼んだのは、この藤原広有だった。政綱と比べて線が細く、切れ長の目をした優男風の広有だが、慎重・冷静な性格で、経験も豊富である。自分では気の長い方だと思っている政綱よりも、広有は忍耐強い男だ。

 人狗は太刀や長刀の扱いだけではなく、弓や暗器にも熟達しているものだが、藤原広有は特に優れた射手だ。政綱を含む同門の人狗達は、広有と弓の腕を競って勝てた例がなかった。

「気を付けろよ。雨漏りしているからな」

「言われんでも見えているとも。お前、しばらく人狗に会ってないな?」

 人狗の猛禽類の目に似た瞳は、昨夜為兼亭で政綱が言った通り、夜目も獣並みに利く。天狗からの授かり物だ。既に陽が傾き暗くなった堂の中でも、僅かに侵入する光で隅々まで見えている。人の目では、こうすぐには暗所に慣れないものである。

「確かにそうだ。近頃は手のかかる人間の相手ばかりで、あれこれ指南してやらねばすぐに危ない目に遭う」

「それで、全て人狗の所為にしたがる」

「難儀な生業だ」

 戸は開け放ったままだ。雨の音が聞こえている。そう大した雨脚ではないが、道がぬかるむ程度には降ったようだ。政綱が寝入ってからすぐに降り始めたものか。

 政綱は昨夜以来のことを粗々語った。広有は、依頼主が京極為兼と聞いて少し驚いた表情をしたが、それ以外は終始穏かな笑顔で相槌を打ちながら聞いていた。人の話は割合にきちんと聞けるのが広有で、ために人狗としては好感を持たれる方である。これで人間であったならば、方々から引く手数多だったに違いない。

「話は大方分かった。京極為兼とは運が良かったな。敵は多いが権勢の公卿だ。論敵が辟易するほどの気骨もあると聞く。お前とは気が合うんじゃないのか?」

「どういう意味だ?」

「冗談だ。強い者同士、通じるものもあるだろうと言ったんだ」

「まぁ、面白い男だとは思う。だが、京で飼われて暮らすつもりはない」

「それはそうだ。お前が飼われている等と聞いたら、木の葉天狗達が腹を抱えて笑い転げるだろうな?」

「やめろ広有。晩飯の汁に馬糞を入れられたのを思い出して、どうにも腹が立ってくる」

「懐かしい話だな。お前があんまり怒るものだから、流石の太郎坊も仲裁に入ったよな?」

「そもそも、太郎坊が甘やかすのが悪いんだ。俺の気が短いわけではない」

「もういい加減許してやったらどうだ?」

 広有は笑っている。昔からこうして宥めてくれるのが広有だった。

「それで、俺に何を頼むつもりなんだ?猫又程度なら一人でも片付くはずだ。俺の援けなど要るまい。猫又退治を見届けて、語って歩けば良いのか?」

「お前は琵琶を弾けないだろう。それは他人に任せておけ」

「では何を?」

「そう迷惑はかけん。安心しろ、じきに分かる。これから為兼卿の邸へ行く」

「行けば分かると?」

「そういうことだ」

「まぁ良い。他でもない政綱の言うことだからな」

 政綱にしては珍しい趣向だと広有は思った。ここしばらくの旅で、余程退屈していたものらしい。愛宕山の〝天狗の庭〟で共に育った兄弟として、広有は付き合うことにした。

 話す内に次第に弱まった雨の中、二人の人狗は為兼亭へと向かった。



 政綱が広有を伴って為兼亭へと到着した時にはすっかり陽が沈み、京都は闇に包まれていた。政綱の訪問を告げられた為兼は、昨晩の牛飼童と車副を連れて門前に姿を現した。それを見て広有が顔を曇らせた。

「政綱、まさかあの連中を使っておびき出すつもりか?」

 広有の顔には明らかに疑念が浮かんでいる。政綱は溜息をついて答えた。

「確かに猫又にはよく効く〝餌〟だろうな」

「感心せんな。〝餌〟なら売り物の鳥や魚の肉が使えただろう?」

「鼻息が荒いぞ広有。そもそも人を使うつもりなどない。〝餌〟は別にある」

 為兼が政綱を手招く。納得したかせぬか半々の広有を放って政綱が門内に入ると、既に支度の整った牛車が牽かれてきた。

「念のため聞いておくが」

 為兼は顔を顰めている。

「どうしてもこの車が必要か?」

「〝餌〟なら肉でも良いだろうと、あの連れも申してはおりますが」

 政綱が少し後ろに控えている広有を指して言った。為兼が政綱の肩越しに顔を覗かせると、広有が会釈した。

「あの者も人狗か?」

「同門の人狗で、信頼できる男です。京に居るとは思ってもみませんでしたが、こうして見つかりましたので少し手伝いを頼んでおります。褒賞は一人分で結構。半分をあの広有に」

「左様か…それで、その手伝いと言うのは、何をさせるつもりなのだ?」

「それこそ大納言殿ご懸念の牛車や、付き添いの人々の警固を」

「おぉ、そうか!」

「ただし――」

 喜色を浮かべた為兼を制し、政綱は正直に告げた。

「人々の命を優先致し、牛車は二の次。それがしが向かう以上、同行の三人は必ずお返し致す。なれど、牛車の無事は約束致しかねますな」

 為兼が再び顔を顰めた。だが小さく頷いてはいる。付き添いの三人の生命は無事であると、そのことには安堵しているのだろう。

「それ故先程も尋ねたが、どうしても牛車が要るのか?」

「猫又に限らず妖となった鳥獣は、目で見たものを人並みによく憶えておるもの。殊に猫又は執念深い。確実に釣り出し、今夜の内に終わらせるのであれば、最も目立った物を使うのが良うござる。のみならず、聞けば猫又は車内を窺う風であったとか。奴の記憶に鮮明なのは、この牛車と、邪魔に現れた某でしょうな」

「…えぇい、分かった。牛車は諦めよう。あれを見た以上、放っておくわけにはいかん」

「もしもの事で仕損じ、こちらが喰われた時は、あの広有が代わって片付けましょう」

「それも承知した」

 牛車一両がどれほどの値なのか政綱には分からないが、それ程安いとも思えない。付き添いの三人は、牛車を動かすために付けられたのと同時に、目付の役を期待されているのだろう。

 貴族の暮しというのも中々大変そうではある。おそらく為兼は牛車を修理することになるだろう。その見返りに彼が得るものは、身の安全と、猫又退治に出資したという評判だ。秤にかければ、後者の方が重いに違いない。

「では」

「用心せよ政綱。皆も無事に戻れ。政綱の下知に従っておれば、心配は要らぬ」

 付き添い三人の顔は暗い。それも当然だ。政綱に加えて、広有が警固についたとは言っても、不安なのは如何ともし難いだろう。為兼の言葉に請け合って、「安心しろ」と言った政綱に最初に頷いて応えたのは、牛飼の少年だった。政綱は少年の頭に優しく手を置いた。

「参ろうか」

 と静かに号令をかけた。総勢五人と牛一頭から成る一行は、賀茂河原へと歩み出した。



 公家の邸宅が途切れ、河原から涼しい風が吹いてくる。昨日、為兼主従を守って歩いた道を逆行していた。或いは、朝の間に出会った乞食が猫又のことを触れて廻り、人だかりが出来ているのではないかと心配になり始めていたが、そんなことはなかった。

 しっかりした造りの人家が遠ざかったことを確認した政綱は、牛車を停めさせた。何事かと皆政綱の周りに集まった。

「まだ何かが居る風ではないが、どうした政綱」

 殿を務めている広有が尋ねた。当然ながら、ここまで先頭を歩いたのは政綱である。

 政綱が立ち止まったことで一気に緊張が高まっていた車副達は、広有の言葉に胸を撫で下ろした。まだ危険ではない。

「公家方の家が近いと、何だかやり辛くてな」

「何をだ?」

「出来れば御辺等、これは内密に願いたい」

 広有の質問には、ただ笑っただけで答えず、政綱は車副と牛飼の方を向いて話し始めた。

「為兼卿には敢て許しを求めなかったことだが、ここから、俺と広有を牛車で運んでもらいたい。少々斬りつけた程度で怯える猫又だとは思わんが、念を入れて姿を隠しておきたい」

 車副達は、互いに目を見合わせ、どう答えるべきか考えた。だが出発前に「政綱の下知に従え」との主命を仰せつかっている。車副達はその言質を拠り所に、煩瑣な手続きを踏むことなく、「承知した」と答えた。

 乗車の段になって、政綱は履物をどうするか一瞬だけ迷った。このまま上がり込むのは作法に違うのかもしれないが、政綱も広有も牛車に乗ったことがない。だが非常事態である。車副が簾を持ち上げると、政綱が軽やかに飛び乗った。車副は榻を用意していなかったので、自分が手を貸すつもりだったらしい。広有にそれを伝えたが「いや、お気遣い無用」と、こちらも飛び乗ってしまった。「流石に身軽だな」と笑いながら、車副が簾を下ろした。

 車内は思ったより余裕はあるが、太刀をいたままだと窮屈である。なるほど、身分賎しからぬ人々は、何人もの供が必要になるわけだ。だが、政綱も広有も太刀は外しただけで手放す気はなかった。広有は矢を差したえびらも抱えている。弓は何処かに預けているらしい。政綱が京の手前で馬を預けたのと同じようなものだ。

 政綱は車外に向けて問いかけた。

「皆聞こえるか?」

 側に立っている車副がすぐに返事をした。政綱が続ける。

「もうしばらく進めば件の場所だ。おそらく奴は、あの場所を狩場にするつもりだろう。今夜も待ち構えているに相違ない」

 人狗には、彼等が唾を飲み込む音が聞こえた。

「だが、奴が居れば俺と広有には分かる。そうと分かった時にはすぐに声をかけよう。そうしたら、三人で身を隠せ」

「心配は要らん。中に二人も人狗が乗っている。俺達は放っておいて、己の身を守ることだけを考えていれば良い」

 広有も重ねて言葉をかけた。もう一度唾を飲む音が聞こえた後、「承った」と返事があった。人狗二人は頷き交わし、車を出すよう伝えた。

 牛が歩き出す。ガタゴトと音を立てながら牛車が進む。政綱と広有には初めての経験である。牛車が過ぎゆくのは飽きる程見てきた二人だが、乗ったのは初めてだ。殆ど内容は覚えていないが、文字の学習だといって天狗から読まされた物語では、登場人物達が牛車に乗っていたものである。そんな描写よりも、政綱達は美女に懸想した貴族が詠む、恋の和歌を覚えようとしたものだったが、今となっては一文字も思い出せない。

「……………」

 車内はしばらく無言で過ぎた。外の連中は、来る決戦に向けて人狗が精神統一のために瞑想しているとでも思っていることだろう。だがそうではない。横目でちらちらと政綱を見ていた広有が、堪りかねて口を開いた。

「……何か、思うところは?」

「いや、俺もそれを聞こうと思っていたんだが…」

「俺には初めての牛車だ。お前もそうだろう?」

「あぁ、そうだ」

 人狗達は、これまでに経験のない牛車での短い旅に、何かしらの感動があるのではないかと期待していたらしい。動き出した初めこそ、僅かな興奮があったのだが、しばらく経つとそれも萎んでしまった。ガタガタと揺れる所為で、政綱は過去に受けた深手のことを思い出した。

「…前に、怪我をして荷車で運ばれたことがある。あれは確か…そう筑前だった」

「それは奇遇だな。俺も豊前国で運ばれたことがあるよ。野槌に咬まれてな」

「野槌に?よく生きていられたものだ」

「気を失う前に、毒消しを飲めたからな。お前は何にやられたんだ?」

「ケッカイに喰いつかれた。止めを刺す直前にな」

 広有の咬まれた野槌は蛇の怪。政綱の言うケッカイとは、産怪の一種である。赤子と同じように出産されるが、産み落とされてすぐに猿のように動き始める。呪いが原因で生まれる怪物で、すぐに殺さなければ母親が死んでしまう。殺す以外には救う方法がない。

「あれはどうも、何度見ても慣れん…。母親は助かったのか?」

「その時はな。その後どうなったのかは分からん……」

「お互い傷だらけなのは変わらんな。だが政綱よ」

 広有は車の側面にある物見を開き、河原を睨んだ。

「ん?」

「もう少し楽しい話は出来なかったのか?」

「俺の所為か?この〝臭い〟の所為だろう」

 政綱は太刀を持ち直し片膝立ちなると、車副を呼びつけて言った。

「ここまでだ。牛飼を連れて身を隠せ。臭い始めた」

 牛車はすぐに停まり、三人が走り去る音が聞こえた。

 耳を澄ましても荒い息遣いは聞こえて来ない。上手く隠れられたようだ。

「さぁ、どう来る…」

 政綱は昨晩の経験から、猫又がゆっくりと近付いてくると考え、車内で待ち構えるつもりでいた。猫又は、道と河原を隔てる草叢の中に居る。姿は見えないが、それは間違いなかった。無論こちらには気が付いているはずだ。

「政綱、先に降りるぞ」

 広有は政綱に先駆けて車を出ようとした。簾に手をかけたその時、猫又の変じた黒雲が突風のように牛車に迫った。雷鳴に似た咆哮をあげながら瞬時に姿を変え、牛車目がけて突進してくる。牛が悲鳴を上げ、弾かれたように走り始めた。急発進で落ちかけた広有の腕を政綱が掴み、力ずくで車内に引き戻す。昨日は頑として動かなかった牛が、一転して今日は面目を発揮し暴走し始めた。それは凄まじい速さであった。隠れている三人からもこの様子は見えていたが、大音響と共に牛車は走り去り、呆然と見送ることしか出来なかった。

 暴走牛車の車内は、絶叫の渦に変わった。乗客お構いなしの猛進である。道の窪みで跳ね、小石を踏んで跳ね、着地した衝撃でまた跳ねる。取りつく物のない車内で、政綱が屋根に頭をぶつけ、広有がひっくり返る。広有は箙に差した矢が散らばらないように押さえてはいるが、全てを守りきることなど望める状態ではない。何処を向いているのか分からない二人は、まるで合戦場で武士がそうするように、上になり下になり、互いに聞き取れない罵声を浴びせ合いながら揉みに揉まれている。

 頭から壁に突っ込む度に目の前で星が舞い、鼻の奥で鉄っぽい臭いがする。揺り戻されると、今度は同乗者に衝突する。牛の暴走は止まらない。猫又が追って来ているのかどうか、気が動転している政綱には全く分からない。

「何とかしろ政綱!」

「無茶を言うな!」

 お互いにこれだけが聞き取れたが、その直後には二人して天井にぶち当たり、床に叩き付けられた。牛が斜面を下ったらしい。一瞬だけ空に舞い上がったように体が浮いた。天狗に抱えられて空を飛んだ、懐かしい子ども時代を思い出したが、胸に去来したのは懐かしさだけで、細かく思い出せるだけの余裕は二人にはなかった。その懐かしさも一瞬のことで、直後には床を舐めている。政綱は段々と牛に対して腹が立ってきた。

 どうも河原に出たのではなく、反対側に偶然あった草木の茂る窪地に突入したものらしい。木の枝をへし折り、草花を薙ぎ払いながら牛車は走る。手毬同然に弄ばれている人狗達には、何処をどう走って来たのかまるで分からない。そのような事を考える暇など与えられていなかった。

 暴走牛車の動力である牛は、必死で車を牽いた。しつこく追って来る猫又を引き離そうと、脇目も振らずに突進している。これが政綱達に次なる不運をもたらした。

 もしも人狗達に外を見る機会が訪れていたならば、例え骨折の惧れがあるにしても飛び降りただろう。もしも牛が暗闇の中で進路上の楠の大木に気が付くことが出来ていたならば、人狗達は頭から壁に突っ込むだけで済んだだろう。だが二人は外を見ることは出来なかったし、牛にも人狗程の夜目は備わっていなかった。

 後年、この事件が評判となるに連れて、この場面には色々と尾鰭が付くようになった。猫又が幻術で大木の幻を見せたとか、天狗が無理矢理に牛車を停めようと突風を吹かせたとか、二人の人狗が天狗に祈って牛車を破壊した等、どんどん話が膨らんでしまい、十年経つ頃には政綱達の記憶とは違う物語が生まれていた。

 実際のところは、視界に入った大木を避けようとした牛が、進路を急変更した勢いで牛車が横転し、車の長柄が大木に激突して砕け、政綱達は車ごと吹き飛んだのである。

 日に二度も浮遊感を味わうとは思ってもみなかった。車体がふわっと浮いた瞬間、木材が弾ける物凄い音を伴った衝撃で政綱は車内で宙を舞い、胸を強く打ちつけた。肺の空気が一気に溢れ、視界が真っ暗になった。

 政綱に比べると広有は幸運だった。散らばった矢を三筋拾い、太刀と僅かに矢を残した箙を抱えて、空しく回る車輪の音を聞きながら這い出た。広有は太刀を佩くと、三本の矢を地面に突き立て、箙を腰の後ろに結付けた。全身が痛む。呼吸を落ち着けようと努めつつ、耳を澄ませた。心臓の鼓動音が邪魔だが、大きな獣の足音と呼吸が聞き取れた。

「政綱来るぞ。早く起きろ。あぁ畜生、折れたか」

 折れていたのは骨ではなく、箙から引き抜いた矢だった。美しい鷹の羽を矢羽根に使っており、鏃も腕前確かな職人が鍛えた高級品だ。報酬の折半は辞退しようと考えていたが、これを見るとそうは言っていられない。諸々を合算すると、五十疋では不十分な気さえしてきた。

「死んだわけではなかろう。息をするのが聞こえるぞ政綱。早く起きろ!」

 血の混じった唾を吐き捨てた。口の中を切ったようだ。

 猫又の緑色に光る目が視界に入った。牛車が踏み荒らしたらしい草木の間から広有を睨んでいる。ゆらゆらと妖しく動く二又の尻尾が、この珍事件を嘲笑っているようで酷く不愉快だ。広有は折れた矢を投げ捨てると、無事な一本を選んで右手に持ち、全身の痛みを感じながら立ち上がった。

 牙を剥き出した猫又がゆっくりと近付いて来る。その身体つきは猫と言うよりも、虎と言った方が実態に即している。ただ体色は虎とは違い、朽木のような毛に黒い斑模様だ。

「弓がなければ矢は使えんとでも思ったか、化け物」

 広有は鞭のように体をしならせ、吐く息と共に右手の矢を放った。〝手突き〟と呼ばれる技で、広有はその名手である。

 猫又は、唸りをあげる矢を跳躍して躱したが、広有は地面に突いた矢を抜き取り、着地の瞬間を襲った。左肩に矢が立ち、猫又の悲鳴が響く。猫又が背を見せた一瞬を見逃さず、更にもう一筋を抜き放つ。背中に矢が突き刺さり、怒りの咆哮を轟かせた標的に、容赦のない追撃が襲い掛かった。三本目は猫又が広有を視界に捉えた直後、吸い込まれるように右の前足に命中した。猫又は口を使って前足の矢を力任せに引き抜く。傷は負わせられたが、これで倒せる相手ではなかった。

 総毛を逆立てて荒れ狂う怪物を見て、広有は太刀に手を懸けた。その時。

「誰か俺を嗤ったか!」

 広有の背後で、激情に駆られた叫びがあがった。広有は瞬時に次の展開を読み、素早く左に跳ぶ。予想通り、直後に牛車を始点に烈風が吹き荒れた。砕け散った牛車の残骸が礫のように激しく降り注ぐ。数瞬前まで広有の立っていた辺りには、車輪が横たわっていた。天狗は時に凄まじい風を吹かせるが、人狗もその術を授けられている。人狗はこれを〝天狗風〟と呼んでいた。

「童の手慰みのように弄びおって。なますにしてやる!」

 今の政綱を絵に描いて見せれば、世人は不動明王だと言って拝むのかもしれない。振り乱した髪は天を衝かんばかり。真っ直ぐに猫又を睨む猛禽の目は、激しい怒りに燃えていた。全身に傷を負っていたが、興奮が痛みを忘れさせている。〝ヒトトイ〟と名付けた太刀を抜き、鞘を投げ捨て、大股で仇敵に歩み寄る。

 何の構えをとるでもなく、太刀を引っ提げて真っ直ぐ近付く人狗に、猫又はたじろいた様に見えた。威嚇の咆哮も、激昂した政綱には一切効果がない。目の前まで迫った政綱に、鋭く尖った爪が振り下ろされた。政綱はその下を潜ると、太刀を持ったまま猫又の横っ面を殴りつけた。続けて顎を突き上げ、よろめいた猫又の脇腹に錐を揉むように蹴りを突き込む。

 転げ回って距離を取った猫又は、立ち上がると直ぐに反撃に移った。左右から爪で引っ掻き、牙で頭を噛み砕こうとする。政綱は或いは避け、或いは太刀で打ち払い、隙を見て浅く斬りつけた。浅手が重なり猫又の動きが鈍り始めた。

 それを見抜いた政綱は、何度目かの引っ掻きを受け流すと、切っ先を下げて猫又を誘った。誘いに乗った猫又が後ろ足で立ち上がる。体重を前足に乗せて組み伏せ、噛み殺すつもりだ。猫又の黒い影が政綱を覆う。側面に回り込んでいた広有は、手突きで矢を放った。広有の矢が猫又の左頬に食い込んだ瞬間、政綱の〝天狗風〟が牛車の破片と共に猫又を吹き飛ばし、長柄を砕いたあの大木に激しく叩きつけた。

 猫又は背骨を砕かれ、大量の血を吐きながら木の根元に崩れ落ちた。

 政綱は止めを刺そうとして近付いたが、その必要はなかった。猫又の死骸は、楠の根に抱かれるようにして横たわっている。

 それを見下ろす政綱の隣に、広有が並んで立った。

「それで?誰に嗤われた?」

「木の葉天狗だろう。癪に障る声だ。気の所為かもしれんが腹が立つ。山に帰ったら誰の声か突き止めてやる……」

 そう言って膝をついた。気力を使い過ぎた所為で、頭痛と倦怠感が政綱を苛んでいた。落ち着くと、全身の打ち身や擦り傷の痛みもはっきりと分かるようになる。二人は猫又の死体の近くを這う特別に太い根によろよろと近付くと、噛み締めた歯の間から呻きを漏らしながら並んで腰掛けた。

「…いや全く、温厚な兄弟のお蔭で楽しめたぞ」

「それは良かった…」

 皮肉に応対するには疲れ過ぎている政綱は、こめかみの辺りを押さえながら謝った。

「巻き込んで悪かった。まさか、こうなるとは思わなんだ」

「おうおう、そうであろうとも」

「許せ。俺が馬鹿だった」

 広有は笑っていた。抗議自体は冗談ではなかったが、怒っているわけではない。もう済んだことである。広有は政綱の背中を叩いた。

「………広有」

「ん?」

「もう牛車は懲りた。あんな物は二度と御免被る」

「同感だ。おい、今日はよく気が合うな?」



 京極家からの付き添い三人が、恐る恐る人狗の安否を確認にやって来た時には、既に数十人の野次馬が集まっていた。一人のボロを着た乞食が、身振り手振りを交えながら野次馬に猫又退治の様子を語っている。政綱が河原で出会ったあの乞食だ。近付くなと警告されていたが、物陰に隠れて政綱達を見ていたらしい。牛車が走り出すと猫又がこれを追いかけたが、この男はその猫又の後ろから走って着いて来ていたと言う。勿論ぴったり着いて走ることなど出来なかったし、それが可能であったとしても、実行に移していたならば乞食は死んでいたに違いない。

 目撃者は彼一人だったので、野次馬達は興奮して、その話すところに聞き入った。何せ動かぬ証拠が横たわっているのだから、疑いようもない。だが乞食の語りは、この時点で幾つか事実と異なる点が含まれていた。普通の人間では、暗闇の中で見えるものには限りがある。乞食はそこを想像で補って語っていた。それがまた野次馬を湧かせるらしい。ある武士風の男は、猫又を退治した本人達に語りの細部について問い合わせたいと思ったが、人狗達は逃げた牛を探しに行ってしまい、遂にその機会を逃してしまった。

 この二年程後、京極為兼が政治的不運に見舞われ、拘引の後に土佐国へと遠流に処されると、この事件における為兼の描写は、かなり情けないものへと変わってしまうのだった。酷く取り乱し、周章狼狽することしか出来なかったと語られるようになってしまった。

 その一方で、幸運に恵まれたのはこの乞食だった。数ヶ月後、彼はこの〝人狗語り〟で膨らんだ懐を元手に、乞食仲間を誘って一座の真似事を始めた。これが中々の人気であったが、田楽座等との競合を避けて京都を去ることにした。その後、諸国を旅する商職人の一団に合流。更に数十年後、晩年には立派な蔵を幾つも抱える商人に成長していたという。



 政綱と広有が牛を連れて戻るという報せが届くと、京極為兼は自亭の門を開き、門内に篝火を焚かせた。いつの間にか為兼が猫又退治を依頼したことが京中に知れ渡り、仙洞・禁裏以下各所から、事の成否を尋ねる使者が立て続けに訪問していた。今夜も養子息達を自亭に集めていた為兼は、全員を連れて人狗の帰還を迎えた。

 傷だらけの二人を見た為兼は息を飲んだが、しかしそこは強靭な為兼であった。親しい友人を迎えるように「参れ」と声をかける。政綱達が躊躇っていると、為兼が言った。

「その昔、源三位頼政が鵼を退治したのは内裏であった。あれのせいで帝が穢にお触れ遊ばした等という者は居なかった。これが先例という物よ政綱、広有。さぁ早う参れ。今夜は風が冷たい。年寄りには堪えるのだ」

 二人は昨夜と同じ出居に案内された。為兼が上座の畳に着すと、二人の前に折敷が運ばれてきた。為兼の養嗣子俊言が進み出で、銭五十疋を給う旨を記載した目録を読み上げる。包みが開かれると、中にはその通り五十疋の銭が置かれていた。政綱が報酬は半分ずつ分けると言ったため、為兼はそれに従ってこのように取り計らったのだった。

 政綱は一礼して懐から細長い革袋を取り出すと、銭をその中に容れた。この袋は両端が布地になっており、結べば輪っかになる。風呂敷に物を包んで斜め掛けするのと同じ様なものである。

 銅銭五百枚の重みを肩に感じながら、政綱は京極家の面々の質問に答えた。殆どが猫又はどんな見た目であったか、どう倒したのか、怖ろしくはなかったのか、等というもので、それぞれに正直且つ簡潔に答えていたが、「牛車はどうなった?」という為兼の問いには嘘をついた。まさか、怒りに任せて破壊した、とは言えないだろう。木にぶつかって大破した、と答えておいた。全くの嘘でもない。顔を顰めて唸る為兼を見て、政綱は広有に目くばせした。

 食膳を用意させようと言う為兼の申し出は断った。膳には酒がつきものだ。酔って洗いざらい白状したくはないのもあったが、他家の人がやって来てあれこれ聞かれるのは面倒だった。長居すればするだけ、そうしたことも起こり得る。寝不足らしい為兼は、それ以上引き留めようとはしなかった。

「うむそうか。そろそろ発つか…。これから何処へ行くのだ?」

「さて、特にこれといった考えは」

「放浪、漂泊こそが人狗の伝統であり生涯か。政綱よ」

 為兼が一帖の薄い冊子を差し出す。今度は忠兼が進み出で、その冊子を政綱に手渡した。

「蔑んで申すわけではないが、そなた文字は読めるか?」

「大方は学んでおりますが」

「なれば邪魔にはなるまい。それが餞別を兼ねた、昨日の問いに対するいま一つの答えぞ政綱。開いて見よ」

 言われるままに紙をめくると、数首の和歌が書き付けてあった。

 優れた観察眼による自然詠は、京極派和歌の特徴である。政綱にはそれを十分に味わうだけの和歌の知識が欠けていたが、字面を追うことで旅の途中で見た景色が思い起こされる。〝旅〟や〝旅人〟を思わせる、そんな歌を撰んでいるらしい。

 昨日の問いというのは、「何故初対面の男、それも人狗を疑いもなく招き入れ、膳まで振舞うのか」というものだった。それへの答えがこの和歌だと言う。政綱には理解が及ばなかった。顔を上げた政綱に、為兼がその理由を語った。

「ある朝、不思議な夢を見た。これまでも霊夢を感得することはあった。上皇とも夢語りをしたものだ…。したが、その夢はそれまでのものとは違った。山から一羽の鳥が飛び来たった。枯葉色をしたとびだ。鳶は京を越え、村々を越え、自在に空を翔けた。火を潜り、海の風濤に逆らい、やがてより広い世界へ、あれは異界であったのやもしれんが、そこへと飛び去った」

「鳶の夢ですか。確かに天狗は鳶の姿だ。それに天狗の使いでもある」

「わしは霊夢というものを信じる。それを見る己の霊感ものう。それ故、そなたが現れた後でわしはあの夢を解いてみた。思うにあれは、天狗がそなたを遣わすことを、予め告げたものであったのだろう。旅の途中で、この京に立寄るとな。そして実際、そなたは約を違えず家人を無事に返し、猫又を討伐した。わしの夢解きの正しさは、ここに明らかだ」

 為兼の養子達は、養父の話を納得した風に聞いている。何も為兼だけが夢のお告げを信じるのではなく、ごく自然な、一般的な人間の感性であった。政綱はそれを理解している。だが、素直に信じる気にはなれなかった。広有も同感だろう。

「そなたはどう思う?」

「さて…面白い夢だとは思いましたが」

「その様子だと、あまり信じてはおらんな?」

「かような生業の者は、大抵寝覚めが良くはないもの。見る夢も、あまり好ましいものではござりませぬ」

「ふうむ、そういうものか…。まぁ、下手な議論をして、恩人と喧嘩別れなどするのは、この為兼の望むところには非ず。この辺にしておこう」

 為兼は穏やかな笑みを浮かべていた。



 政綱・広有の門出を、京極為兼は門前まで見送った。終始鄭重な待遇であるのは、彼が霊夢だと理解した、あの夢が理由なのだろう。

「牛車のことは返す返すも残念ではあるが――」

 そう言った為兼の顔にも声音にも、実感が籠っている。単なる費用の問題ではなく、余程思い入れのある牛車だったらしい。政綱は心中で詫びた。

「家人と牛は無事戻った。何も知らぬ夜行の者が、あの怪物に襲われることも断てたわけだ。全てはその方共の奮闘の賜物である。これと関わり、その勲功を賞せたことを嬉しく思う。武運を祈るぞ。そしてまた会おう、人狗。山の使い達よ」

「大納言殿も御自愛を。されば、これにて」

 人狗達は一礼し、踵を廻らして歩み出した。月は昨日政綱が京着した時と同じ辺りに見えている。

 昨日京入りに用いたのと同じ粟田口を目指して歩く。時々後ろから人が二人を追い越して行く。どうもまだ猫又の周りに人が集まっているらしい。賀茂川に沿って南に進みながら、政綱は思った。あのように心の籠った謝辞を贈られることは稀だ。広有にしてもそれは変わらない。その上、何かと決まり事の多い貴族からとなると、今後二度とはない経験かもしれなかった。そのことを話すと、広有は「夢の賜物だな」と言った。冗談のつもりだろう。そう思って、政綱も冗談めかして返した。

「それが真なら、彼の夢の通り自今以後も散々な目に遭い、それでも猶旅を続けることになるな」

「人狗の先達も皆そうだった。命の続く限りは旅だ」

「それが誰かに定められていたと思うか?子どもの頃天狗に拾われたことも、こうして生きることも。どう思う?」

 人狗は、世に〝天狗攫い〟と言われる神隠しに遭った者達でもある。その殆どは子どもで、全て男子に限られる。師の天狗は、「お前達は山に捧げられたのだ」等とよく言っていたが、そんな言葉は、異界に連れ去られ、異界の住人となった少年達の慰めにはならなかった。人として生まれた人狗に、終生付きまとう悩みだった。

「さて、どうだろうなぁ…。俺もそれを考えないわけではないが、分かる日が来るとは思えん。いや、一つだけ分かることがあるな」

「それは何だ?」

 広有は左手に広がる河原の方を指差した。政綱がその先を見ると、烏が一羽、澄まし顔で柳にとまっていた。

「お前は奴に礼をせねばならん。他人が定めたからではなく、お前が約束した通りにな」

「そうだったな」

 さて礼は何にしようか。そう考えながら、政綱は明るい月を見上げた。

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(旧)人狗草紙 ―歌仙周章― 尾東拓山 @doyo_zenmon

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