第3話 人魚姫

マリオネットシアター 第三章 人魚姫


あの子だ。

彼女が視界に入ったとき、千歳は束の間、誰もいない四角い箱の中で茫然とたたずむ「あの子」を思い返していたが、その「あの子」は瞬く間に自分へと姿を変えた。

笑っていたのを見た。明美は、斉藤君の後ろに引き下がり、潜んでいた。その眼に鋭く光る嘲笑を宿して。

「千歳ちゃん、試験管ベイビーなんでしょ」

あれをきっと復讐というのだ。千歳が言った何者かへの悪口の復讐を果たした、その眼だった。

あの四角い箱の中には、人なんて自分以外どこにもいない。やがて蠅となって羽ばたこうとするウジがわいているだけ。

だけど、千歳も、その中に生きる一人だったことを彼女は思い出させた。

「千歳ちゃん、何か用」

はっとして我に返ると、目前に和菜の姿があった。和菜は、ハサミとフェルトとマジックペンを手にこちらを見ている。

「和菜ちゃんこそどうしたの」

千歳はペルソナを使う。いつものように、あの四角い箱で生きる誰もが被る面をその肉につけて。

和菜は、千歳が、その肉付きの面をつける瞬間を目撃する。が、しかし、和菜はその瞬間を無視して言った。

「どうしたも、こうしたも、わたし、人形劇クラブだから、夏にやる人形劇の人形を今からクラブの人達と一緒に作るところ。ここ、部室だから」

そう言って和菜が目配せしたのは、視聴覚室だ。北校舎二階の視聴覚室は、人形劇クラブの部室なのだ。こんなところまで来るのは、人形劇クラブの部員か、その顧問の先生くらいなのだ。だから、和菜は、不思議に思う。なぜ、クラブの部員でもない千歳がここにいるのか。

人形劇クラブは、この街に人形劇の祭典、フェスティバルができてから、この小学校に作られたクラブだ。街を挙げての祭典に、子供達も作り手として参加できるようにと作られた。この小学校でも、毎年夏休み中に、体育館で、部員がストーリー以外、できる限りすべてを手掛けた人形劇が上演される。今はその準備期間だ。

「和菜ちゃんは何を演じるの」

「うーん、本当は、クラブの人以外秘密だっていいたいけど、教えてあげるね。わたしは、人魚姫のお姉さんと魔法使い役。今、その人形を作っているところ」

「ふーん」

「千歳ちゃんはどうしてここにいるの」

和菜のその言葉で、千歳は黙った。答えられるはずもない。あの子の前で、魔女狩りに遭いながらも気丈に振る舞っているあの子の前で、同じ状況の自分が、自分だけかっこ悪く逃げてきただなんて。

和菜は逃げたりしなかった。四角い箱の中に、ウジ虫の中に放り込まれようと毅然と立っていたその子だった。

きっと、笑うのだろう。自分のことは守るけど、人は攻撃するものだと。この子も他のやつらと同じ。可哀そうで、みじめで、弱い千歳を心の中では見下してあざ笑うのだ。

だから、言えるわけない。

言ったら、あいつらの前で処刑される。


「まぁいいよ。もうすぐ朝の休み時間も終わりだし、教室戻ろう」

和菜は、そう言って千歳の背中をポンっとたたいた。

教室に向かって歩こうとする和菜をよそに、千歳は自分の足が、教室に戻ることを拒んでいるのをどうしようかと思っていた。

「わたし、教室には・・・」

戻りたくない。その言葉が出る寸前に、和菜がニコリと笑って口走った。

「帰り、一緒に帰ろうよ」

なぜ、ここまできたのか。ここじゃなきゃいけなかったのか。

それは、千歳が和菜に出会うためだったのかもしれない。こんなに新鮮な気持ちになるなんて、まるで、初めて出会ったときのよう。

飛び出そうと思えば、飛び出せる学校は、鉄格子と鍵付きで出られない。閉じ込められたまま、彷徨うのは、それでも逃げ場を探していたから。逃げたのではない、自分を守っただけのことだと言うひとは、もしかしたらいるのかもしれないけど、そんなの言いわけだ。自分を守ることが、こんなにかっこ悪いことなんて、千歳にとっては、幻滅なのだ。

偶然にしてはできすぎているけれど、本当になんの考えもなく和菜の前に来ていたのだ。

いや、和菜が千歳の前に現れたのだ。

いやな感じがすると、次にどんなにいやなことが起こるのかワクワクしてしまう。矛盾した感情に、なすすべもなく身を委ねる。

目の前に舞い降りた和菜の背に、翼の幻を見ながらも、きっと、この子は自分を深く傷つけると予感している。そうじゃなければ、自分が無知として生まれた意味がない。知ることがないはずはないのだ。痛みを。

ただの、自分を助けに来た天使など、いようはずもない。

戻るほかに選択肢はなかった。戻らなければ、この四角い箱で繰り広げられる物語の登場人物ではなくなってしまう。そうしたら、自分は、いったい何者なのだろう。

蜘蛛の糸は少しでもいい。彼女に縋り付いて、いつかあいつらに成り代わってやるのだ。

復讐だ。あいつらの内誰でもいい。何者かになってやるのだ。

「千歳ちゃん、今日はひとりなの」

薄笑いを浮かべて、瑠奈が言った。今日一日、授業中も休み時間も千歳は独りだった。

瑠奈は言いたいのだ。独りなの、と。みじめだとその瞳が笑いながら言っている。

千歳は瑠奈の本心に気付きながら、微笑む。

「今日は、和菜ちゃんと帰るよ」

そう言い、勝気な顔を覗かせた千歳に瑠奈は、つまらなそうな表情をして何も言わず、明美と小枝のいる方へ行った。

「お待たせ、千歳ちゃん。人形劇クラブ終わったよ。一緒に帰ろう」

「うん」

千歳と和菜は、机の上のランドセルを背負い、教室を出て、昇降口へと向かった。

教室の瑠奈と明美と小枝は、それを面白くないといった雰囲気で見ていた。

「あいつ、明日無視ね」


赤い横断幕が開く。舞台の主役、陸の上の王子様に恋をした人魚姫は、恋をしたまま。痛い思いをして人間になることはありませんでした。


傾きかけた日の光をその身に浴びながら、千歳と和菜は帰り道を二人並んで歩く。

太陽の前を通り過ぎた、飛んでいったあの鳥の名は?

「和菜ちゃんは聞いたの。わたしが、試験管ベイビーだって」

その答えを待つ間の少しの沈黙が、重く、そして怖かった。

「聞いたよ。先生がいつだか言っていた試験管ベイビーって千歳ちゃんだったんだね」

「うん。そうだよ」

「先生って、誰かが相談ごとすると決まってクラスのみんなに発表しちゃうんだよね。何でかわかんないけど、しょうがないよね」

「わたしは、ちょっと酷いと思うけどね」

「そうだね。まぁ、わたしの時もそうだったし、しょうがないよ。先生ってそういうものなんじゃないのかな」

不思議と心が軽くなっていくのを感じていた。なんだ。試験管ベイビーでも、こんなに普通に誰かと話せるのか。目の前の和菜が何者なのか、視界がぼやけて見えてこない。

「それにしても、千歳ちゃん、今日は、瑠奈ちゃんとかと一緒じゃなかったんだね。一人でいるのなんて珍しいね」

「うん。まぁ」

「ふうん。まぁ、瑠奈ちゃんとか、いい子ぶってるけど、試験管ベイビーのこと嫌な感じだと思ってるから、露骨に態度に出ちゃったのかもね」

「そうかぁ。そうかもね。わたし、可哀そうな生き物の試験管ベイビーだから」

「可哀そうかな。わたしはそうは思わないけど。なんかカッコいいじゃん。人造人間ってカッコいいよ」

酷い事言うな、と千歳は思ったが、そんな今この時に不都合なことは無視した。

何も考えず、和菜と話していると楽しかった。さっき失ったような気がする普通が、幸せな自分が、取り戻せたような気がした。自分は可哀そうな生き物じゃないと思えた。そう、思うことにした。

「わたし、これから、一人でいること多くなりそうだよ」

「大丈夫だよ。わたしが千歳ちゃんと一緒にいるから」

手をつないだ気がした。保育園の頃のように、仲よく手をつないで帰っているような幻を見ていた。実際には、手なんてつないではいなかったが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マリオネットシアター 久保田愉也 @yukimitaina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ