第2話 アイデンティティクライシス


千歳の祖母は、一年前に亡くなっている。死因は、色んな病気の併発による衰弱死だっ

た。千歳には、祖母と触れ合った記憶はない。ただ、死の香り漂う、その最後の生活を知

っている。

部屋は閉め切られており、アンモニアの臭いの充満する小さな部屋に祖母はいた。独り

で暮らしていたのだ。千歳の父と母は、千歳が生まれる前に亡くなった祖父の代わりに一

緒に暮らそうとはしなかった。祖母は孤独の中、亡くなっていった。

千歳がまともに会話をしたのは、初めて会いまみえた時だった。まだ、祖母とは会話が

できたが、それは、会話という会話ではなかった。一言だった。祖母が言ったのは。

ただ、一方的に、機械的に生産されたかのように投げ出された言葉だった。

「よく、精巧にできているんだねぇ」

好奇心が潜んでいたのだろうか、あの眼差しには。そう言って頭を撫でるでもなく、舐め

るような視線を千歳の体に這わせてから、瞳を閉じた。

アンモニアの臭い。腐臭ともいえる鼻に突く臭い。汚物にまみれてそれでも生きていた。

母は言った。

「早く死んでくれればいいのに」

千歳はそれに何を思うこともなかった。そういうものだと思っていた。流されるままに、

祖母に嫌悪感を抱いたくらいは。

なんて醜く救いのない生き物なのかと思った。その感情を抱いた自分こそが醜いとは知

らずに。

アンモニアの臭い。

あれが、最後に出会うであろう死の香りなのだ。そう、思った。自分が出会うであろう

ことは知らなかった。

葬式の日は華やいだ香りで、あれを隠していた。

祖母の醜くひしゃげた体、皮膚、腐臭を。

彼らの醜くひしゃげた表情、腐った視線を。

「早めに死んでくれてよかった」

母の言葉。

晴れ渡る空、上空の風に流されるがまま漂う雲。太陽の光にまっすぐ照らされ、黒光り

する墓石。

なんて、救いのない日だったのだろうか。みんな晴れやかな顔をしていた。

ああ、でも、こんなものなのか。

ここにいるみんな、罪人だよ。

人の死を、晴れやかな気持ちで送り出せる、そんな人間は、救いがない。

ああ、でも、そうなのか。

自分は精巧にできた人の形をした機械なのだ。

千歳は、思い返した。

千歳は、自分の心が少しずつ朽ちていくのを感じた。

ただ、淡々と。


ふと、そんな昔の夢をみた。


ずいぶん昔のことのような気がする。ほんの一、二年前だとあの人たちは言っていたが、

ずっとずっと昔のことのようだ。一日が経つのが息切れするほど長く、それでいて、代わ

り映えのしない、退屈な反復運動を繰り返しているかのようだ。これが、あと七十年、八

十年と続くのかと思うとうんざりする。


だけど、祖母は、この退屈な時間を全うしたのだ。

よく生きていられたものだ。

あんなに醜く、変わり果てても。

そして、そう思う自分の心がもう、すでに、あの死の瞬間へと変わり果てているのかも

しれない。

だけど、死ぬのは、怖くない気がする。

早めに死んでくれてよかった。

あれは、千歳にも言っていたのだ。

理由、

そんなものはない。

玩具で遊ぶ子供が、その遊んでいた玩具に飽きるように、ただ、使い捨てるだけのこと

だ。


今日も、代わり映えしない日常が待っている。

「千歳ちゃん」

そう声をかけてきたのは、明美だ。

「おはよう」

機械的に出てきたその言葉。この前、この子の悪口を言っていたことなんて、微塵も感

じさせないのは、もう、忘れたつもりになっているから。

「ねぇ。千歳ちゃんって、試験管ベイビーなの」

扉が、音を立てて乱暴に開けられたかのような衝撃が、千歳の心に走った。

「え・・・」

真っ白になった。光なのか闇なのかわからない、扉の向こうが見えない。

「千歳さんって、先生がこの間言っていた試験管ベイビーなんだよね」

目の前に出てきたのは、同じクラスの斉藤君だ。もう、ずっと話なんてしたこともない

男の子。男子と話すことがなくなったのは、いつからだろう。もう、久しく顔も見合わせ

たこともなかった。

「ねぇ、千歳さん。ぼーっと突っ立ってないで、答えてよ」

「あ・・・」

「なにが、あ・・・なんだか。僕、試験管ベイビーだって聞いたよ。先生に」

「先生に聞いたの」

「うん」

「そうなんだ。・・・そうだよ。わたし、この前、お母さんに試験管ベイビーだって言わ

れた」

勝手に話された。なんて、被害者ぶるのはやめよう。あの人も、所詮はこの小さな箱の

中の生物。しょうがないのだ。ここにいるみんな、新しい遊びを見つけたくてウズウズし

ている。魔女狩りの新たな標的探しをしていたのだろう。何を隠そう、あの子を魔女狩り

の標的にしたのも・・・今は、まるであの子を守る優しい先生の顔になっているけれど、

それを信じた自分がいたけど、所詮は・・・

あの先生を、信じるなんて、馬鹿げたことできない。

わたしの居場所がどこにもなくなる。

わたしの正体がわからなくなる。

わたしは、何者?

めったにでない笑顔を作り、その場を取り繕う。

「わたし、試験管ベイビーみたい」

やんややんやと人が集まってきた。野次馬?いや、観覧者だ。処刑台に上がる魔女を見

ているのだ。

耐えられなくなって、人をかき分け、教室を飛び出した。

知られた。

わたしが、可哀そうな、そう、人造人間の試験管ベイビーだって。

こんな時、同情をかうはずの涙が、うまく出てこない。

泣けば自分の思い通りになると思っているの?

いつか、お母さんに言われた言葉。

今も千歳を縛っていた。

泣き叫べば、ただ排出されただけの赤子に逆戻りだ。

歩いていた。放心したまま。南校舎二階の五年の教室から離れた、北校舎二階の視聴覚

室まで来ていた。

「千歳ちゃん」

千歳は、驚きで肩を震わせた。振り向くと、そこには、いつもつるんでいる和菜がいた。

「和菜ちゃん」

無表情でつぶやくと千歳は和菜の前を通り過ぎようとした。

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