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(日常のこと)高畠さんと小西さん

 高畠寛さんの発刊した本で読んだのは『漱石『満韓ところどころ』を読む』と『神々の黄昏』と『コンドルは飛んで行く』の三冊だ。一番面白かったのは『コンドルは飛んで行く』だ。
 高畠さんは「あるかいど」という同人誌で、代表を務めていて、私はそこに所属して純文学をなんとか〆切ぎりぎりに書く日々を過ごしていた。(いまはもう「あるかいど」は辞めている)
 その高畠さんが先日亡くなった。
 1937年生まれで、84歳だった。大阪文学学校の運営母体である一般社団法人・大阪文学協会の代表理事でもあった。
 高畠さんの開催する「グリーンウッド読書会」にも参加してたことがあった。吉中みのり氏ともそこでよく一緒になり、よく飲んで色々難しいことを教えて貰ったが、奇妙なそのしゃべり方と言い回しと鼻を上から下まで手のひらで撫でるクセは、最近会ってもあの頃から今も変わっていないのでホッとする。
 高畠さんがいつも作品を批評する時に言っていたのは、フロイトの下ネタ話とサルトルだ。
「フロイトはね……これペニスです。それからおっぱいやね。母とセックスするんです」みたいなのを延々話す。サルトルは、アンガージュマンとかの話題よりも「私ね、サルトルに会ったことがあるんです」そう言って、サルトルの墓と銅像の写真を見せるのだ。サルトルの墓参りに、佐伯晋氏と一緒に行った思い出を話すのだ。
 フロイトのエロ話が長くなると佐伯晋氏が「先生、そろそろエロ話はその辺にしときましょか」とツッコミを入れる。今思えば楽しい時間だった。しかもこれが一回だけというわけではない。飲み会から合評会から何から毎回「フロイトはね……セックス……つまり母親とセックスしたいんですね。で、これペニスです。これはヴァギナです」と続く。100回は聞いたと思う。あとは「あんた文学わかってんのかいな」と言われることだ。私は反論していたが、ああいう風に、20代の自分と、70代後半の高畠さんが、ともに議論をゲラゲラ笑いながらできていたのは本当に良い思い出だ。
 あるとき、文学学校校長の長谷川龍生引退直前、居酒屋『愛宕屋』での「あるかいど」飲み会で、「校長は津木林チューターかどっちがええか。若いあんたの意見を聞きたい」と高畠さんに言われたこともある。私は学生委員長をしていて、結構深く色んなことに関わっていた。私は「学者のほうにしてはどうか。それに、文学学校の校長は伝統的に詩人がするものだと思うし」と言ったら、高畠さんは「よし、云々かんぬん」と何かわけのわからぬことを述べていた。そういう所を思い出すに、信頼はされていたみたいだが、出す作品全部、「わけわからん」と一蹴されていたように思う。しかし、私は高畠さんに何かを理解してもらおうとは思っていなかった。そういう風に見ていなかった。私にとっては飲み仲間であり、大事な友達だった。
 その後に、減少する大阪文学学校の学生を増やすためにどうしたらいいか、佐伯晋氏中心に文学学校の「生徒増加委員会」(Mプロジェクト)とか名づけて、私もそのメンバーに加わってこれからの文学学校をどうしたら良いかを話し合った。文学学校の事務局も関わった。けれども、結局、樹林の表紙をデザイナーの人に変更したぐらいで、私は若い人向けのチラシを作成しようとしたけれども、頓挫。僕から一方的に怒りのメールを事務局に送って、文学学校とは縁を切ることとなった。私は文校を辞めたあとそれからすぐに文学フリマのメンバーに入って、大阪の副代表として手伝うことになった。
 生徒をなんとか増やしたいと、最初に声を上げて佐伯氏を動かそうとしたのは高畠さんだった。文学学校の運営と行く末をつねに心配する経営者的な側面があった。ただ、私が優秀ではなかった(今も無力無知無能な人間だが)ために、その計画はなくなったが、今はどうなっているだろうか。
 高畠さんは鼻がでかくて、唇の分厚い人であった。煙草を吸いまくっていて、酒を飲んで、時間を消費していた。女性が大好きで、作品も、今ではコンプラになってしまうものが多い。三冊読んだが、ある時代のある人間の姿をしているとしか言いようがない。キリスト教徒で、女のエロスが好きで、女性が自分を好きになってくれる話を書くのが好きで、天皇と無謀な戦争をした日本人が大嫌いな人である。
 晩年は過去の作品を何度も同人誌「あるかいど」に載せたり、新しく出版する本にも、若い頃に書いた過去の作品を載せていた。それは承認欲求かもしれないし、書く力がだんだんと失われていくなかの「もがき」かもしれなかった。私は別に過去とか今はこだわらずに読むので、どうでもよかったが、やはり本人や同人は気まずそうだし、書く人間が書けなくなるとどれほど苦しいか、よくわかった。
 高畠さんの本棚はどうなるのだろうか。正直に述べると、「大阪の文学・同人誌の歴史」がすべて詰まっている、要するに宝の山であるのが高畠さんの本棚である。図書館で廃棄されない約束で寄贈されて欲しい。または文学学校の書庫か。それとも、寄付をあつめてどこかに保管するか。なんとか残されなければならない。飯塚輝一の作品を集めようとしたとき、高畠さんの本棚のおかげで、一発で集めることができたのだった。あの本棚が、今は心配である。あれがないと、大阪や関西の文学の歴史に多大なダメージを負うこととなる。

 もう高畠さんに、自作を「わけわからん」と言われることはない。フロイトとサルトルのネタを聞くこともない。思い出はあふれるほどある。

 最後に、同じく「あるかいど」の同人だった故 小西九嶺さんへの追悼文を下記に載せる。小西さんと佐伯さんと僕と高畠さんは飲み会の「男子会メンバー」で、4人でいつまでも議論をしていた。ほぼ下ネタばかりで、メンバーはみなほぼ70代である。私が辛うじて20代であった。全員が大学生の頃に戻っていたように思う。僕にとっては皆これ以上なく話のあう友達だった。合理的に考えれば、「創作に費やすべきことに、なんて無駄な時間を」となるところだが、実に不合理な二度とない大切な時間であった。
 追悼文は「あるかいど」第66号の小西さんへの追悼号に載せたものだ。追悼文のタイトルは「文字にできないようなフレーズがいい」。DJ 松永 / あいにゆく feat. Jambo lacquerのリリックより拝借した。


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「文字にできないようなフレーズがいい」


 黒田夏子が七十五歳で芥川賞を受賞した時、小西さんは「僕は会社員時代、芥川賞の記事が出るたびに、自分の年齢をかえりみて、まだ自分は年齢的に大丈夫だ、まだ大丈夫だ、まだいけると思っていた」と私に述べた。「今回の芥川賞のおかげで、まだいける年齢が増えた」と笑っていた。
 あるかいどのメンバーで上六の居酒屋「志なのすけ」を出る。コートの上からでも寒く感じる風が吹き付ける中、小西さんは、ジャケットを羽織るだけでスッと立って路上で煙草を吸っていた。どれほど寒い冬の夜でも、「中に着込んであるから」といって、マフラーもせずに、背広一丁で店の前で高畠チューターが降りてくるのを「遅いなぁ」とぼやきながら吐いた煙を目で追いかけて立っていた。
 居酒屋では、よく話した。京都大学で社会学を勉強しようと思ったけれども、社会学というのは当時有名でなくてそういう講義がなかったということと、入試に田中美知太郎がいたこと、故郷の村を出るとき女性にモテまくって女性がずっと追いかけてきたというモテエピソード等の真偽不明の話の数々に、佐伯晋とともに茶々を入れた。
 小西さんの批評は抜群だった。誰もが小西さんの批評の番になると全幅の信頼を置いて特に集中してメモを取った。作品内の日にちの天気まで調べてくるという、プロの校正者並の丁寧な読みっぷりだった。
 葆光荘での合評の翌朝は、飲み過ぎたあるかいどメンバーの二日酔いで後悔している顔が並ぶ中、一人朝から迎え酒としてビールを飲んでいる小西さんがいた。あるかいどの中では若手である私も、このタフさにはかなわなかった。

 私が「あるかいど」に入る前に、小西さんに入試テストをされたことがある。谷町六丁目の「愛宕屋」だった。小西さんは「君があるかいどにふさわしいかどうか、テストしよう」とニヤリと笑った。いくつか文学に関する質問があって、最後、じっと私の目を見た。それから、「まあ七十点かな、合格」とあるかいど参加の許可をもらった。
 小西さん、高畠寛、佐伯晋、私の四人集まれば「男子会」が開催される。主な会話内容は文学と恋バナである。昔、どんな人が好きだったか。どんだけモテたか。人を好きになるってどういうことか等々、ひたすら恋愛の価値観をぶつけ合った。

 合宿後の昼食の時、店内に美人のウェイトレスがいて、きっと良い子だと四人ではしゃいで、やっと彼女に話しかけて、男四人で我先に知識自慢をし、カッコつけた後、彼女が「フロイトって誰ですか……?」と言ったら、「いやいや、フロイトなんか知らなくていい。あんなの勉強しなくてもいい。古いし。あんなの読んだらあかん」と皆で頷き合った。普段から散々フロイトとか引き合いにだしている男達が、美人が知らないと言った途端に全員フロイト否定にまわったのは懐かしい思い出だ。

 谷六の居酒屋「おくまん」で、時には文学について激論を交わした日もあった。フロイトとサルトルの実存自己決定な高畠寛の流儀と、親鸞や京都哲学を知る観念的な小西さんとの議論を佐伯晋が名行司をして盛り上げるのを、私は何時間も聞いていた。
 小西さんに最初つけられた七十点が、今、何点にあがったのか、それとも下がったのかは、もうわからない。自分にとっても、つい最近のようで、遠い過去になりつつある。それでも「男子会」は、私にとって大切な、充実した、二度とない時間だったので、深く小西さんには感謝している。今、この瞬間を残しておこうと直感的に思ったので撮った、ある夜の写真を、その証拠として載せておくことにする。

5件のコメント

  • こんばんは。高坂正澄(もりた雅澄)です。
    本文読ませていただきました。大いに感銘受けました!
    私は、高畠さんも佐伯さんもお名前だけ知っている程度の、後の時代の文校生(今は休学中)ですが、ここにお書きになった時代の、あの界隈の情景や人物像が目に浮かんでくる文章でした。小西さんについてはお名前も存じ上げないわけですが、みんなほんとうに豪傑の文士だったんですね。
    私のように感じる文校生(卒業、在校問わず)は多いのではないかと思います。大変素晴らしい文章(むろん内容が)ですので、カクヨム以外でも読める機会が有れば良いのになあと思いました。そういう意図で書かれてはいないと思いますがなにせ勿体無いかなあと。
    失礼の段有ればすみません。
    ありがとうございました。
  • とても素晴らしいものを読んだ。
    泣けました。
  • >高坂正澄さん
    お読みいただき、ありがとうございます。この頃は同時に自分が最も精神的に不安定でダメだった頃でした。毎日、暴飲で下痢してました。だからこそ、自分の記憶に、この人達が(そしてあの時に出会った文校の人達が)しっかりと生きているのだと思います。一応ツイッターではつぶやきました(笑)

    >山川海蹴さん
    ありがとうございます。山川さんなら全部分かると思います(笑)
  • 私が好きな世代の方々が亡くなっていく。
    猿川さんの中にある記憶を読ませていただきありがとうございます。
    とても懐かしい気のする心地よい文章でした。
  • >苅田 鳴さん
    寂しいですよね。自分の中では当たり前にあったものなのですが、いざ書いてみると、誰も書いてないみたいな感じです。ささやかな備忘録ですね。読んでいただき、ありがとうございます。
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