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(企画参加)文フリ大阪に出ます

来週日曜日、25日にある文学フリマ大阪に、「稲麻竹葦」として出店します。
会場には、私も、芦原瑞祥先生もおります。
冷やかしにでも、ぜひ来て下さいね。

新刊である「ときじくの垂仁天皇」の目次は以下の通り。

はじまりの垂仁天皇 …… 芦原瑞祥
いづれか愛しき …… 芦原瑞祥
鵠の行方、鉄の道 …… 猿川西瓜

『はじまりの垂仁天皇』は、垂仁時代の入門的エッセイ。
ここで、だいたいの時代の空気のわかる導入となります。
この垂仁特集号のために、瑞祥先生には、熱中症で倒れながらも、写真撮影したり、賢明に頑張って下さいました。
瑞祥先生にそのような労苦をさせる、地獄の同人誌、それが「稲麻竹葦」です。

『いづれか愛しき』は、瑞祥先生ひさびさの歴史小説です。
垂仁の嫁、サホヒメには、兄のサホビコという男がいて、兄妹同士で愛しあっていたと言われています。垂仁はサホビコに嫁を奪われ、言葉を失った子を得ます。小説内ではまた違ったふうに書かれてますのでお楽しみに。垂仁の愛の深さと、サホヒメの悲劇をドラマティックに描いています。

ここまでで43ページくらいになります。
でも、この冊子は240ページくらいあります。
つまり、残り200ページはすべて猿川西瓜の作品です。
『鵠の行方、鉄の道』。新書サイズ200ページ以上の歴史小説です。

主人公はヤマノベノオオタカ。
垂仁天皇から、理不尽な命令を下されますが、それを乗り越えていく。
そうした小説を書いていると、とんでもない長さになりました。

古事記でも、なんでもいいのですが、垂仁といい、なんといい、実在していないと辻褄が合わないことが多すぎるし、逆にこんな複雑な関係を創作で作り出すのは、不可能です。少なくともボクでは無理。相当優れた創作実力者ならいけますが、正直、小説で古事記や古代史を実際に、本気で追いかけると、その現実性、リアリティの高さというか、実際性、実在性、信憑性に驚愕します。
とくにこの垂仁のサホヒメの悲劇から、ホムチワケが言葉を取り戻すまでの流れは、極めて具体的で説得的で、鉄に関する見事な叙述といえます。

谷川健一とか、その前後の多くの学者が、米の国ではなく、鉄の国であることに注目したおかげで、このように「事実をオオタカの旅のように辿る」ということができました。

宣長が、古事記を信じた、という話があります。実証的なあんな学者が荒唐無稽な古事記を信じるなんて……というものです。
しかし、実際に丁寧に本気で調べ尽くして追いかけると、正直、この荒唐無稽さを膨大な系図とともにまとめ上げているのは、創作ベースでは不可能だし、事実ベースでないと構築できません。古事記は信じるしかないほど色んな事実や事件の積み重ねの上に存在している。人間一人の頭や支配者の狙いやらそこらで出来たというのは、陰謀論のごとき都合の良さで、「権力者の都合の良い書物という指摘ほど、丁寧に読まないで済ませる都合の良い考え方はない」とも言えます。

今回、参考文献の量が6ページにわたりましたが、この半年間、ホムチワケのことしか考えませんでした。

『あぎ。これが人類最初の言葉。
 そして、キヒサツミに質問した御子の言葉、これが最初の日本語。』

かつて高橋秀元は私にそう言いました。

言葉は問いかけである。それは、誰かへの問いかけであると同時に、自分への問いかけである。物や人へ、本当に教えて欲しいと、知りたいと、問いかけること。それが自分への問いかけになるのである。直接自分に向かって自分とは何かと問いかけることは、問いかけではない。
自問自答は問ではない。他問自問自答である。
それが、垂仁天皇の時代と向き合った私の結論です。

この小説を読んで下さい。文学フリマ大阪でお待ちしています。

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