第43話 硝子の靴と身代わりの姫
カチャリ。 重厚な鉄の鍵が回る音が、塔の最上階に響いた。 それは、エリストールとマリウスがどれほど政治的な協力関係にあろうとも、決して変わることのない『境界線』の音だった。 彼女はここから出られない。 西の軍隊を退けても、疫病を防いでも、国の経済を動かしても、彼女の身体はこの石造りの部屋に繋ぎ止められている。
「……相変わらず、用心深いですこと」
エリストールは、閉ざされた鉄扉を背にして小さく肩をすくめた。 マリウスは部屋を出る際、必ず二重に施錠をする。 最近は少しガードが緩んでいるかと思ったが、王都からの使者が来て以来、彼の監視の目は再び『氷のマクシミリアン』と呼ばれた頃の冷徹さを取り戻していた。
「動かないで。針が刺さるわよ」
背後から、不機嫌そうな声がした。 新しい侍女、コレットだ。 彼女はエリストールの身体に巻尺を当て、ブツブツと寸法を記録している。
「……意外とあるのね。でも胴回りが細すぎる。もっと食べなさいよ」
「これでも増えた方です。……それで、コレット。例の物は作れそうですか?」
「布は最高級ね。でも、色が気に入らない。王都の流行は『鮮烈な赤』か『深い青』よ。こんな地味な生成りのシルクじゃ、田舎者って笑われるわ」
コレットは床に広げられた白絹を見下ろして鼻を鳴らした。
「だからこそ、私の出番です」
エリストールは机の引き出しから、数枚の紙片を取り出した。 そこには、ある『染料』の製造法が記されていた。 黒い石炭の油から抽出される成分を使った、自然界には存在しない色。 後に『モーブ』と呼ばれることになる、染料のレシピだ。
「この通りに薬液を調合して、布を煮込みなさい。……きっと、誰も見たことのない『紫』が生まれます」
「……ふーん。失敗したらあんたの食事、一回抜くからね」
コレットは指示書をひったくり、布を抱えて部屋を出て行こうとした。 その時、エリストールの瞳が怪しく光った。
「待って、コレット。……荷物が多いでしょう。私が扉まで運びます」
エリストールはさりげなくコレットの背後に回り込み、開いた扉の隙間へ足を滑り込ませようとした。 今なら、廊下にいるマリウスの隙を突けるかもしれない。 コレットの影に隠れて外へ出れば、そのまま階段を駆け下りて……。
ガシャン!!
目の前で、鉄格子のついた内扉が音を立てて閉ざされた。 廊下には、無表情のマリウスが立っていた。
「……お荷物は私が運びましょう、コレット」
マリウスは格子の隙間から手を伸ばし、コレットから荷物を受け取った。 その視線は、エリストールの足元――扉のレールぎりぎりに置かれた爪先――に注がれている。
「賢者様。……散歩の範囲にしては、少し遠すぎますな」
「……あら。親切心で手伝おうとしただけです」
「左様でございますか。では、安全のために鍵は三重にしておきます」
ガチャリ、ガチャリ、ガチャリ。 無慈悲な音が三度響き、エリストールの脱出計画は秒で粉砕された。 やはり、この男の目は誤魔化せない。 エリストールは舌打ちを噛み殺し、優雅に微笑んで見せた。
数日後。 塔の部屋には、妖艶な光を放つドレスが飾られていた。 それは、この世界の誰も見たことのない、深く、鮮やかで、どこか神秘的な紫色のドレスだった。 薬液の調合によって生まれたその色は、見る角度によって色味を変え、まるで夜明けの空を切り取ったかのような輝きを放っている。
「……凄いわ」
作った本人のコレットですら、呆然と呟いていた。
「こんな色、王都の染物屋でも見たことない。……これなら、どんな宝石よりも目立つわ」
「ええ。完璧です。……ですが、問題は誰がこれを着て行くか、です」
エリストールはドレスに触れた。 園遊会には『賢者』が出席しなければならない。 だが、マリウスがエリストールを外に出すはずがない。 ならば、方法は一つしかない。
「コレット。あなたが着なさい」
「……はあ!?」
コレットが素っ頓狂な声を上げた。
「あたしが!? 無理よ! 針子のあたしが貴族のフリなんて!」
「顔を見せる必要はありません。……これを使うのです」
エリストールが取り出したのは、薄いガラスを加工して作った精巧な仮面と、紫色のベールだった。
「賢者は『大病を患い、光を浴びることができない』という設定にします。あなたは一言も喋らず、ただそこに立っていればいいのです。……私の『身代わりの姫』として」
「……なるほど」
マリウスが顎に手を当てて頷いた。
「コレットの背格好は賢者様とほぼ同じ。ベールで顔を隠せば、遠目には区別がつかないでしょう。……それに、喋らないことで神秘性が増し、王家の連中も不用意には近づけなくなる」
「そういうことです。……それに、靴も用意しました」
エリストールは、机の下から一足の靴を取り出した。 それは、透明な松脂を精製し、何層にも塗り重ねて固めた、まるで水晶のように透き通る靴だった。 『硝子の靴』。 もちろん本物のガラスではないが、その強度は鉄に匹敵し、光を反射して眩い輝きを放つ。
「これを履いて歩けば、誰もが足元に目を奪われる。……中身が誰かなんて、気にしなくなるはずです」
「……あんた、悪魔ね」
コレットは引きつった顔で靴を受け取ったが、その目は職人として、その美しい造形に魅入られていた。
出発の朝。 着飾ったコレットは、まるで別人のような高貴なオーラを纏っていた。 紫のドレスは彼女の貧相な体を優雅に包み込み、硝子の靴は彼女の背筋をピンと伸ばさせた。 ベール越しに見える瞳だけが、不安げに揺れている。
「……バレたら打ち首かしら」
「大丈夫です。マリウスがついていますから」
エリストールは扉の格子越しに、コレットの手を握った。
「堂々としていなさい。あなたはバルガンの賢者の代理人。……王様だって、ただの着飾ったおじさんだと思えばいいのです」
「……わかったわよ。行ってくる」
コレットは覚悟を決めたように頷き、マリウスのエスコートで階段を降りていった。 コツ、コツ、という硬質な靴音が遠ざかっていく。
エリストールは窓辺に駆け寄り、眼下を見下ろした。 正門には、王家の紋章をつけた馬車が待っている。 マリウスと、賢者に扮したコレットが乗り込むのが見えた。 馬車が動き出す。 これで、数日間は監視の目が緩む――はずだった。
「……さて」
エリストールは振り返り、鉄扉を見据えた。 マリウスはいない。 今、この屋敷に自分を止められるほどの頭脳を持つ者はいないはずだ。 ガエルやカミラは味方だ。 上手く言いくるめれば、外へ出ることは可能かもしれない。
「まずは、外の様子を確認しましょうか」
エリストールは扉の覗き窓を開けた。 そこには、予想外の光景があった。
廊下の左右には、全身を黒い鎧で固めた二名の衛兵が、彫像のように直立不動で立っていた。 彼らはバルガン領の兵士ではない。 マリウスが個人的に雇い入れた、東方の元・近衛兵崩れだ。 感情を持たず、ただ命令だけを忠実に実行する生きた壁。
「……ご苦労様。少し暑いので、扉を開けて換気をしたいのだけれど」
エリストールが声をかけても、衛兵たちはピクリとも動かない。 視線すら合わせようとしなかった。
「……聞こえていますか? 賢者である私の命令です」
「……マリウス様の厳命により」
右側の衛兵が、抑揚のない機械的な声で答えた。
「この扉は、いかなる理由があろうとも開放を禁ず。たとえ屋敷が火事になろうとも、たとえ賢者様が急病で倒れようとも、マリウス様が戻るまでは一歩も通すな、とのこと」
「……」
エリストールは静かに覗き窓を閉めた。 完璧だ。 マリウスは、エリストールの『話術』や『情に訴える演技』すら封じるために、言葉の通じない相手を置いていったのだ。 カミラのような情のある人間ではなく、ただのシステムとしての看守。 これでは、どんな知略も通用しない。
「……やってくれますわね、マリウス」
エリストールは、悔しさと、それを上回る感嘆を含んだため息をついた。 彼は知っているのだ。 エリストールがどれほど危険な囚人であるかを。 そして、ほんの少しの隙間があれば、彼女が世界へ飛び出してしまうことを。
「いいでしょう。私の負けです」
エリストールはスカートを翻し、机に戻った。 王都へ行った偽物の姫と、最強の執事。 そして、ここに残された本物の賢者と、鉄壁の牢獄。 二つの場所で、それぞれの戦いが始まろうとしていた。
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