第44話 紫の衝撃と王都の亡霊

王都の離宮は、この世の春を謳歌するかのような煌びやかな光に包まれていた。 天井には数千本のろうそくが灯された巨大なシャンデリアが揺れ、床は磨き上げられた大理石。 集まった貴族たちは、宝石を散りばめた衣装に身を包み、扇の陰で互いの品定めや噂話に花を咲かせている。 だが、その喧騒は、入口の扉が開かれた瞬間にピタリと止んだ。


「バルガン領、賢者エリストール代理……ご到着!」


儀典官の声が響く中、マリウスにエスコートされて現れたのは、一人の令嬢だった。 いや、それは人の姿をした宝石だった。


彼女が身に纏っているドレスの色に、会場中の視線が釘付けになった。 紫。 だが、それは貴族たちが知る貝紫や植物染料のくすんだ紫ではない。 深く、鮮烈で、まるで夜明けの空から一番星の色だけを抽出したような、妖艶な輝きを放つ色彩。 後に『賢者の紫』と呼ばれることになるその色は、蝋燭の光を吸い込み、見る角度によって青から赤へと波打つように変化した。


「……なんだ、あの色は」 「見たことがない。東方の絹か? それとも幻術か?」


どよめきがさざ波のように広がる。 さらに、彼女が歩を進めるたびに、硬質で涼やかな音が響いた。


コツ、コツ、コツ。


ドレスの裾から覗く足元。 そこには、シャンデリアの光を反射してキラキラと輝く、透明な靴があった。 硝子の靴だ。 華奢な足首を包む透明な甲と、鋭く尖ったヒール。 まるで氷の結晶をそのまま削り出したかのようなその靴は、彼女が人間ではなく、異界から訪れた精霊であるかのような錯覚を抱かせた。


中身が元・針子のコレットであることなど、誰も想像すらできない。 彼女はエリストールの教え通り、顔を深い紫のベールで隠し、背筋を伸ばして無言で歩いた。 その沈黙が、さらなる神秘性を生む。


「……美しい」 「あれが、バルガンの賢者か……」


圧倒的な美の前には、田舎者という嘲りなど生まれる余地もなかった。 マリウスは能面のような顔でコレットを広間の中央へと導いた。 その背中は、どんな高位の貴族よりも堂々としていた。


その時、人垣を割って一人の男が現れた。 派手な香水の匂いを漂わせた、式部省のヴァレリウス子爵だ。 彼は扇子で口元を隠しながら、ねっとりとした視線をマリウスに向けた。


「おやおや。田舎の賢者殿とお見受けするが……随分と派手な見世物小屋の衣装だねえ」


ヴァレリウスはコレットの目の前に立ち塞がり、わざとらしくドレスの袖を摘まもうとした。


「こんな毒々しい色、品位のかけらもない。……下品な成金趣味だ」


周囲の貴族たちが息を呑む。 公衆の面前での侮辱。 だが、マリウスは素早く、しかし優雅な動作でヴァレリウスの手首を扇子で制した。


「お触れにならないでいただきたい、子爵」


マリウスの声は、よく通るバリトンだった。


「このドレスは、我が領の賢者が石炭の油から生み出した新時代の色彩です。……不用意に触れれば、その美しさに目が眩み、真実が見えなくなるかもしれませんよ?」


「……なんだと?」


「それに、この色は『高貴』の象徴。……品位を問うならば、まずはご自身の手元をご覧になってはいかがか?」


マリウスの視線が、ヴァレリウスの指先に落ちた。 そこには、前菜のソースの油染みがわずかに残っていた。 些細な汚れだ。 だが、この完璧な美の空間において、その一点の汚れは致命的な隙として際立った。


「っ……!」


ヴァレリウスは慌てて手を引っ込めた。 周囲から失笑が漏れる。 マリウスは表情一つ変えず、追撃の手を緩めない。


「賢者は病弱ゆえ、言葉を発することもままなりません。ですが、このドレスと靴が、我が領の技術と豊かさを雄弁に語っているはずです。……言葉など、不要ではありませんか?」


その言葉通り、コレットは一言も発さず、ただ静かに佇んでいた。 その姿は、饒舌に喋るヴァレリウスの軽薄さを浮き彫りにした。 勝負あった。 貴族たちは、謎めいた賢者と、その有能な従者に軍配を上げたのだ。


「……チッ」


ヴァレリウスは顔を真っ赤にして舌打ちした。 だが、彼はただでは引き下がらなかった。 彼はマリウスの耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえない声で囁いた。


「……いい気になるなよ、マクシミリアン卿」


マリウスの眉がピクリと動く。


「貴様が十五年前に消えた財務官だということは、調べがついている。……横領の罪で追放された男が、のうのうと表舞台に戻ってこられると思うなよ?」


それは明確な脅迫だった。 もしここで正体を暴けば、マリウスは捕らえられ、バルガン領も王家への反逆者として断罪される。 ヴァレリウスは勝ち誇った笑みを浮かべた。


だが、マリウスは動じなかった。 彼は懐から一枚の小さな紙片を取り出し、ヴァレリウスの胸ポケットに滑り込ませた。


「……なんですって?」


「お土産です。あとでご覧なさい」


マリウスは冷徹に微笑んだ。 それは、エリストールから預かったメモだった。 そこには、ヴァレリウスが裏で行っている『王室御用達品の横流し』の証拠となる取引日時と場所が、事細かに記されていた。 情報は、以前エリストールが放ったスレートたちが、王都のねずみ回路網を通じて集めたものだ。


「……もし私の名を口にすれば、そのメモの内容が明日の話題にあがります。……物理的に、手配済みです」


「な……!?」


ヴァレリウスがポケットの中身を確認し、顔面蒼白になった。 彼は震える手で口元を覆い、後ずさりした。 幽霊を見たかのような目だった。 かつて『氷のマクシミリアン』と呼ばれた男は、十五年経っても錆びついていなかったのだ。


「……失礼する!」


ヴァレリウスは逃げるように人混みの中へと消えていった。 その背中を見送りながら、マリウスは小さく息を吐いた。


「……やれやれ。賢者様の予言通りになりましたな」


「……終わった?」


ベールの下で、コレットが蚊の鳴くような声で囁いた。 足の震えが限界に来ているようだ。


「ええ。完璧な演技でしたよ、お姫様」


マリウスは優しくコレットの背中を支えた。 その時、会場の奥からファンファーレが鳴り響いた。 国王陛下の入場だ。 だが、王の視線もまた、真っ先にあの紫のドレスへと注がれた。


「……あの者たちを呼べ」


王の声が響く。 バルガン領の知恵は、ついに国の頂点にまで届いたのだ。 硝子の靴を履いた偽物の姫と、過去を背負った執事は、眩い光の中へと歩みを進めた。



一方、遠く離れた塔の最上階。 エリストールは窓辺に座り、月を見上げていた。 手元には、スレートが運んできた王都からの速報がある。


『作戦成功。ヴァレリウス撃退。王との謁見へ』


「……ふふ。やったわね」


エリストールは満足げに微笑み、ワイングラスを傾けた。 彼女は知っている。 あのドレスと靴が、ただの装飾品ではないことを。 あれは、バルガン領が持つ技術の結晶であり、言葉なき宣戦布告なのだ。 私たちは、もう田舎の弱小貴族ではない。 この国の経済と文化を牽引する、新たな力なのだと。

王都での成功は、バルガン領にさらなる富と、そして新たな、より強大な敵を呼び寄せることになる。 だが今夜だけは、紫の夜明けを祝う美酒に酔うことが許されていた。

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