第41話 石の血管と泥の海
春の雨は、恵みの雨であると同時に災厄でもあった。 バルガン領の土は粘土質を含んでおり、雨が降ると底なしの泥沼へと変貌する。 せっかく芽吹いた作物を市場へ運ぼうにも、荷車の車輪が泥に足を取られ、動けなくなる光景があちこちで見られた。
塔の最上階。 エリストールは窓から、街道で立ち往生している商隊の列を見下ろしていた。 馬が嘶き、御者が鞭を振るう音が、雨音に混じって聞こえてくる。
「……血管が詰まっていますね」
彼女は卓上の地図に赤いインクで太い線を引いた。 街と農村、そして国境を結ぶ主要な街道だ。
「どんなに良い作物が育っても、それを運ぶ道が泥の海では意味がありません。血が巡らなければ、体は腐ります」
「しかし、天候ばかりはどうにもなりません」
マリウスが紅茶を注ぎながら言った。
「雨が止むのを待つのが常識です。道を整備する予算も限られていますから」
「待っていたら作物は腐ります。それに、東方との交易も本格化します。……道を変えるのです」
エリストールは新しい紙を取り出し、断面図を描き始めた。 それは単に土を固めるだけの従来の道とは異なっていた。
「地面を深く掘り下げ、一番下には大きな石を敷き詰めます。その上に拳大の石、さらに砂利を重ね、最後に平らな石板で蓋をするのです」
彼女が提案したのは、古代の帝国が用いた『舗装道路』の技術だった。 層を重ねることで地盤を安定させ、水はけを良くする。 さらに、道の中央をわずかに高く盛り上げることで、雨水を両脇の側溝へと流す工夫も施されていた。
「これならば、雨の日でも泥濘むことはありません。馬車は今の二倍の速度で走れるでしょう」
「……石の道ですか。莫大な労力と石材が必要です」
マリウスは眼鏡を押し上げ、瞬時に計算を始めた。
「ですが、輸送速度が倍になれば、流通量は四倍になる。関税収入も増え、工事費は二年で回収可能……。悪くない投資です」
「石ならあります。……西の騎士団が逃げ帰った時、彼らが築こうとしていた砦の残骸が、国境付近に転がっていますわ」
エリストールは悪戯っぽく微笑んだ。 敵が残したものを利用して、自国を富ませる。 それは彼女の得意とする戦術だった。
*
翌日から、バルガン領の大規模な土木工事が始まった。 現場監督はもちろん、ガエルとカミラだ。
「おい! そこの石はもっと隙間なく詰めろ! 水が染み込むぞ!」
ガエルが泥まみれになって指示を飛ばす。 彼自身もシャベルを握り、懸命に穴を掘っていた。 以前の彼なら、こんな重労働は真っ先に逃げ出していただろう。 だが今は違う。 この道が完成すれば、街が豊かになり、自分たちの暮らしも良くなることを知っているからだ。
「へえ、こいつは重労働だねえ」
カミラは軽々と巨大な石材を抱え上げ、地面に叩きつけた。 ドスン、という音が響き、周囲の作業員たちが目を丸くする。 彼女一人で、大人三人がかりの仕事をこなしていた。
「剣を振るう方が楽だけど、まあいいさ。……道が良くなれば、美味い酒も早く届くって寸法だろ?」
カミラは豪快に笑い、次の石へと向かった。 領民たちも総出で作業に加わった。 農作業の合間を縫って、石を運び、砂利を敷く。 かつては領主の命令に嫌々従っていた彼らだが、今は『賢者様の道』を作ることに誇りを感じていた。 エリストールが考案した簡易な測量器具のおかげで、道は矢のように真っ直ぐに伸びていった。
*
一ヶ月後。 長雨が再びバルガン領を襲った。 だが今回は違った。 街のメインストリートから国境へと続く道は、水たまり一つなく、濡れた石畳が鈍色に輝いているだけだった。
ガラガラガラ……。
軽快な音を立てて、一台の馬車が滑るように走ってきた。 東方交易連合の紋章をつけた幌馬車だ。 御者は驚きのあまり、口を開けたまま周囲を見回している。
「信じられん……! 他の領地では車輪が埋まって進めないというのに、ここはまるで宮殿の廊下じゃないか!」
馬車は一度も止まることなく、予定より半日も早く市場に到着した。 荷台から降ろされたのは、新鮮な魚や果物。 以前なら輸送中に傷んでいたような品々が、色鮮やかなまま店先に並んだ。
「すげえ! 海の魚が生きてるぞ!」 「賢者様の道のおかげだ!」
市場は活気に包まれた。 道が良くなったことで、人の流れが変わり、金の流れが変わった。 バルガン領は、単なる辺境の田舎から、交通の要衝へと変貌を遂げつつあった。
*
塔の最上階。 エリストールは、雨の中を行き交う馬車の列を見下ろしていた。 石の血管には、力強い脈動が流れている。
「……これで、西も東も、この街を無視できなくなります」
マリウスが新しい帳簿を抱えて言った。 通行税の収入だけで、過去最高の黒字を叩き出していた。
「道は富を運びますが、同時に敵も運びやすくします。……諸刃の剣ですわ」
エリストールは冷静だった。 便利になればなるほど、この地を狙う者は増える。 西の国だけではない。 今まで静観していた王都の貴族たちや、近隣の領主たちも、この繁栄を指をくわえて見ているだけではないだろう。
「守りを固めねばなりませんね」
「ええ。ですが、高い城壁を作るだけが守りではありません」
エリストールは地図の端、王都の方角を見据えた。 道が繋がったということは、情報もまた、早く伝わるということだ。 彼女の噂は、既に国王の耳にも届いているかもしれない。
「次は『情報』という名の道を整備しましょう。……スレート、出番よ」
エリストールは足元のねずみを呼んだ。 物理的な道は完成した。 次は、見えない情報の網を張り巡らせる番だ。 少女の知略は、領地の境界を越え、さらに遠くへと伸びようとしていた。
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