第40話 三つの畑と剣より重い鍬

バルガン領に、遅い春が訪れていた。 山肌に残っていた雪もすっかり消え、黒々とした土が顔を出している。 本来ならば、種まきの季節を迎え、農村は活気に満ちているはずだった。 しかし、領内の空気は重く沈んでいた。 昨年の西側との紛争、そして長引く重税による疲弊。 何より深刻なのは、年々悪化していく『土地の疲れ』だった。


塔の最上階。 エリストールは、農村部から届いた土のサンプルを虫眼鏡で観察していた。 指先で土を捻ると、ボロボロと崩れ落ちる。 粘り気がなく、カサカサに乾いている。


「……これでは、作物が育つはずがありません」


彼女はため息交じりに手を拭いた。


「栄養が枯渇しています。何年も同じ小麦ばかり植え続けたせいで、土が痩せ細っているのです」


「農民たちは、今年も小麦を植えるつもりだそうです」


マリウスが報告書を見ながら淡々と言った。


「彼らは頑固です。先祖代々のやり方を変えることを極端に嫌う。不作になれば、また『神の罰』だと言って祈り始めるでしょう」


「祈りで腹は膨れません」


エリストールは新しい紙を広げ、円を三つ描いた。 そして、それを矢印で繋ぎ、循環する図を作り上げた。


「マリウス、農作の改革を行います。キーワードは『巡る畑』です」


彼女が提案したのは、後に『さんぽしき農業』と呼ばれる農法の原型だった。 耕地を三つに区分し、春の種まき、秋の種まき、そして休耕地として循環させる。


「一つの畑には小麦を。もう一つの畑には豆を植えさせなさい。豆の根には、土を肥やす不思議な力があります。そして最後の一つは休ませて、家畜を放牧するのです。家畜の糞が肥料となり、翌年には最も豊かな土に戻ります」


「……なるほど。土地を休ませる期間を作るわけですか」


「ええ。それと、もう一つ」


エリストールは、独特の強い香りを放つ乾燥ハーブの束を取り出した。


「害虫対策です。小麦のうねの間に、この香草を植えるように指示してください。虫たちはこの匂いを嫌います。毒薬を撒くよりも、ずっと安全で効果的です、しかし、実行させるのは骨が折れそうだ」


マリウスは眼鏡を押し上げた。 無知な農民に、一見して収穫量が減るように見えるやり方を受け入れさせるのは、至難の業だ。


「だからこそ、彼らの出番です」


エリストールは窓の外、路地裏の方角を見つめて微笑んだ。 言葉で通じないなら、行動で示すしかない。 彼女には、誰よりも頼りになる『現場監督』たちがいた。



翌日。 領内最大の農村地帯に、ガエルたちの怒鳴り声が響き渡っていた。


「だーかーら! 今年の小麦はこっちの畑だけだ! 向こうには豆を植えろって言ってんだろ!」


ガエルは、指示書を振り回して村長に詰め寄っていた。 村長をはじめ、農民たちは困惑の表情を浮かべている。


「そんな無茶な! 畑の三分の一も休ませるなんて、飢え死にしろと言うのか!」 「そうだ! 豆なんかじゃ金にならねえ!」


反発する声が上がる。 彼らにとって、小麦の作付け面積を減らすことは自殺行為に見えたのだ。 睨み合いが続く中、ドスン、という重い音が地面を揺らした。 巨大なくわを軽々と肩に担いだカミラが、一歩前に出たのだ。


「……お喋りは終わりかい?」


彼女が凄みのある笑顔を見せると、農民たちは一斉に静まり返った。 背中の大剣こそ置いてきたが、その腕から放たれる威圧感は戦場のままだ。


「賢者様の指示だ。四の五の言わずに従いな。……それとも、あたしがこの鍬で、あんたらの頭の固さを耕してやろうか?」


物理的な説得力。 村長は青ざめて首を振った。


「わ、わかった……。従おう」


「よし。なら作業開始だ! 野郎ども、手伝え!」


ガエルの号令で、トトたち子供組も畑に散らばった。 彼らは街育ちだが、エリストールの役に立ちたい一心で、不慣れな農作業に精を出した。 カミラもまた、巨大な岩を除去し、硬い土を掘り返していく。 その力は牛馬以上だった。


「ふんっ!」


カミラが鍬を振り下ろすと、ガチンという音と共に土塊が砕け散る。


「……ったく。剣を振るうより腰に来るよ」


彼女は額の汗を拭い、腰を叩いた。 戦場では無敵の傭兵も、慣れない農作業には悪戦苦闘している。 その様子を見て、怯えていた農民たちの間に小さな笑いが起きた。


「おいおい、姉ちゃん。鍬ってのはそう持つんじゃねえよ。もっと腰を落としてだな……」


一人の老人が見かねて声をかけた。 カミラはむっとした顔をしたが、素直に鍬を持ち直した。


「……こうかい?」


「そうだ。力任せじゃなく、土の重さを利用するんだ」


いつの間にか、農民とガエルたちの間にあった壁が消えていた。 共に汗を流し、土に触れることで、奇妙な連帯感が生まれていたのだ。 畑は指示通りに区分けされ、小麦の間にはマリーゴールドやハーブが植えられた。 夕暮れ時、作業を終えた畑は、美しく整えられていた。


「……綺麗だな」


トトが泥だらけの顔で呟いた。 ただの荒れた土地が、意味のある美しい生産の場に変わった瞬間だった。



数週間後。 効果は目に見えて現れた。 例年なら害虫に食い荒らされる若葉が、今年は青々としている。 ハーブの匂いを嫌った虫たちが寄り付かないのだ。 さらに、豆を植えた畑の土は黒々と肥え、小麦の成長も早い。


「すげえ……! 本当に虫がいねえぞ!」


農民たちは歓声を上げ、塔の方角に向かって深々と頭を下げた。 収穫量は、作付け面積を減らしたにもかかわらず、過去最高になることが予想された。



塔の最上階。 エリストールは、窓から畑の風景を眺めていた。 緑の小麦、黄色い豆の花、そして休耕地で草を食む羊たち。 その調和のとれた景色は、どんな絵画よりも美しかった。


「……計算通りですね」


マリウスが紅茶を置いた。


「農民たちは、今年の秋には納税分を完済し、さらに余剰分で冬支度ができるでしょう。……貴女の知恵は、土さえも支配しましたか」


「支配ではないわ。……手助けをしただけよ」


エリストールは紅茶の香りを楽しみながら、穏やかに言った。 今まで、彼女の知恵は敵を倒すためや生き残るために使われてきた。 鎧を溶かし、毒を防ぎ、商人を脅す。 それは必要なことだったが、どこか心がすり減る作業でもあった。


だが今回は違う。 命を育み、豊かにするための知恵。 それがこんなにも心地よいものだとは知らなかった。


「……見て、マリウス」


彼女は畑の隅を指差した。 そこには、米粒のような小ささだが、カミラとガエルたちが農民たちから採れたての野菜をもらっている姿があった。 カミラが大きなカブにかぶりつき、豪快に笑っている。


「彼らも、いい顔をしているわ」


「労働の対価を得ただけです。……ですが、悪くない光景ですね」


マリウスもまた、口元の笑みを隠そうとしなかった。


春の風が塔の中を吹き抜けていく。 そこにはもう、冬の凍えるような孤独も、血なまぐさい戦いの気配もない。 あるのは、太陽と土の匂い、そして確かな未来への予感だけだった。


「さて、次の計算をしましょうか」


エリストールはペンを取った。 秋の収穫が終われば、次は保存と流通の問題が出てくるだろう。 街と村を繋ぐ道路の整備も必要だ。 やるべきことは山積みだ。 だが、今の彼女にとって、それは重荷ではなく、希望への階段のように思えた。


バルガンの賢者と、その手足となって動く仲間たち。 彼らが耕した畑から、新しい時代の芽が力強く息吹き始めていた。

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