第39話 雪解けの足音と黄金の招待状
長い冬が終わりを告げようとしていた。 屋根に積もった雪が解け、軒先から滴り落ちる水音が、春の訪れを知らせる時計のようにリズムを刻んでいる。 バルガン領は、奇跡的な冬を越えた。 例年であれば少なくない人数の凍死者が出る厳しい寒さだったが、今年は一人も失うことなく、街は無事に雪解けを迎えたのだ。
塔の最上階。 エリストールは窓を開け、湿り気を帯びた春の風を吸い込んだ。 少し冷たいが、そこには土と若草の匂いが混じっている。
「……生き延びましたね」
彼女は独り言のように呟いた。 物理的な脅威である西の軍勢。 見えない脅威である疫病。 そして、自然の脅威である冬将軍。 そのすべてを、知恵と計算だけで退けた。 ガラスの檻の中にいる無力な令嬢は、いつの間にかこの領地を支える巨大な心臓となっていた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
鉄扉が開き、マリウスが入室してきた。 手には銀の盆ではなく、一枚の分厚い封書が載せられている。 その封蝋には、西の国でも王都のものでもない、見慣れない紋章が押されていた。 絡み合う二匹の蛇と、黄金の天秤。 それは大陸全土に影響力を持つ巨大商業組織、東方交易連合の紋章だった。
「……厄介なお客様ですか?」
「ええ。厄介かつ、強欲なお客様です。先ほど、連合の幹部を名乗るヴァルゴという男が屋敷に到着しました」
マリウスは封書をテーブルに置いた。 中身を見るまでもない。 彼らは金の匂いに敏感な鮫だ。 この冬、バルガン領が大量の鉄鎧を売却し、さらに画期的な暖房器具や保存食を生み出したことを聞きつけ、その利益を貪りに来たに違いない。
「彼は賢者様との面会を求めています。……もちろん、断りましたが」
「賢者の正体が私だと知られるわけにはいきませんものね」
「はい。ですが、ただ追い返すわけにはいきません。彼らは西の国軍以上に質が悪く、傭兵や暗殺者を金で動かす力を持っています」
経済という名の暴力。 それは剣や槍よりも防ぐのが難しい。 エリストールは椅子に座り直し、少し思案してから顔を上げた。
「……聴音管を使います。応接間の声をここに届けてください。私が指示を出します」
「承知しました。……交渉の席へ向かいます」
マリウスが一礼して退出すると、エリストールは壁に設置されたブリキのパイプに耳を当てた。 ほどなくして、階下の応接間から男の野太い声が響いてきた。
「……ほう。ここがバルガン男爵の屋敷か。噂に聞いていたよりも質素……いや、合理的で美しい」
声の主はヴァルゴだ。 言葉の端々に、品定めをするような値踏みの響きがある。
「単刀直入に言おう、執事殿。我々は、この領地にいるという賢者を買いに来た」
「買う、とは?」
マリウスの冷ややかな問いかけに対し、ヴァルゴは笑い声を上げた。
「言葉通りの意味だ。この冬、貴殿らが売り出した『風食らいの竈』と『油煮の保存食』。あれは革命的だ。たった数ヶ月で東方の市場を席巻している。……あんなものを考え出す頭脳を、こんな辺境に埋もれさせておくのは人類の損失だよ」
ヴァルゴは、革袋をテーブルに置く重い音をさせた。 中身は金貨だろう。 それも、城が買えるほどの量だ。
「金貨一万枚だ。これで賢者の身柄と、これまでの発明の全権利を我々に譲渡していただきたい。……悪い話ではないだろう? 没落寸前の貴族にとってはね」
「……お断りします」
マリウスの声には一瞬の迷いもなかった。
「賢者は我が領の至宝。金貨の山と引き換えにするつもりはありません」
「交渉決裂か。……残念だ」
ヴァルゴの声が低くなった。 空気が変わる。 それは商人の顔から、略奪者の顔へと変わる気配だった。
「執事殿。我々は商人だが、時には荒っぽい手段も使う。……もし賢者を渡さないと言うなら、我々は西の国に資金援助を行い、再びこの地に軍隊を送り込むことも可能だぞ?」
「脅迫ですか」
「商談だよ。……さあ、選ぶがいい。金を受け取って賢者を渡すか、戦火の中で全てを失うか」
卑劣な二択。 だが、エリストールはパイプから耳を離し、素早くペンを走らせた。 彼女は怒ってはいなかった。 むしろ、この状況を好機と捉えていた。 相手が暴力ではなく利益を求める商人であるなら、つけ入る隙は必ずある。
彼女は書き上げたメモをスレートに咥えさせ、壁の穴へと送り出した。
応接間では、睨み合いが続いていた。 ヴァルゴの背後に控える護衛たちが剣に手をかけた、その時。 天井の隙間から、一匹のねずみがテーブルの上にポトリと落ちてきた。 その口には、一枚の紙片がくわえられている。
「な、なんだ!?」
ヴァルゴが驚いてのけぞる。 マリウスは動じることなく、スレートから紙片を受け取り、一読した。 そして、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……賢者様からのご回答です」
「なんだと? そのねずみが?」
「読んで聞かせましょう」
マリウスは咳払いをして、エリストールの書いた文面を読み上げた。
『東方交易連合、ヴァルゴ殿。 私を商品として買うという提案は却下します。 私は物ではありません。 しかし、私の知恵を商品として扱うことには興味があります』
「……どういうことだ?」
『私は貴方に、風食らいの竈と保存食の独占販売権を与えましょう。 設計図と製法、そして今後開発する新技術も、貴方の商会だけに卸します。 その代わり、売上の二割を技術使用料として、永続的に我が領へ支払いなさい』
「な……っ!?」
ヴァルゴは絶句した。 身柄の売買ではなく、技術のライセンス契約。 この時代にはまだ珍しい、知的財産権という概念だ。
『もしこの提案を断り、武力に訴えるならば、私は設計図を無償で世界中にばら撒きます。 そうなれば、貴方の商会が得られるはずだった独占的な利益はゼロになり、ただの価格競争に巻き込まれるでしょう。 ……どちらが商人として賢い選択か、計算できますね?』
「……くっ、ははは!」
ヴァルゴは呆気にとられた後、腹を抱えて笑い出した。
「まいった! 脅し返されるとはな! しかも、損得勘定という我々の土俵で!」
彼は立ち上がり、マリウスに手を差し出した。
「いいだろう。その条件で手を打とう。……賢者の身柄は諦める。だが、その頭脳が生み出す金脈だけは、我々が独占させてもらうぞ」
「契約成立ですね」
マリウスはその手を握り返した。 武力衝突は回避された。 それどころか、バルガン領は東方の巨大な経済圏という強力な後ろ盾を得たのだ。
その夜。 塔の最上階で、エリストールは契約書の写しを確認していた。 これでまた一つ、彼女の知恵が世界へ広まっていく。 それは同時に、彼女の存在が世界中の権力者たちに知れ渡ることを意味していた。
「……注目されるのは危険ですが、金貨は必要ですものね」
彼女は窓の外を見つめた。 雪解け水が川となり、海へと流れていく。 自分の運命もまた、この小さな塔から広い世界へと、抗いようもなく流れ始めているのを感じていた。
「次の発明は何になさいますか、賢者様」
マリウスが新しいインク壺を置いた。
「そうですね……。春になれば、疫病とは違う虫たちが湧きます。農業の改革が必要かもしれません」
エリストールはペンを握った。 春が来る。 それは新しい生命の季節であり、同時に新しい戦いの季節でもあった。 だが今の彼女には、それを恐れるだけの弱さはもうなかった。 彼女はバルガンの賢者。 物理と知略で世界と渡り合う、誇り高き囚われの姫君なのだから。
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