第38話 氷解する秘密と冬の星祭
雪は止む気配を見せず、バルガン領は深い白の中に沈んでいた。 査察官ガストンを乗せた馬車が去ってから数日が過ぎたが、屋敷の中にはまだ緊張の糸が張り詰めていた。 執事マリウスは、いつにも増して業務に没頭している。 彼がかつて王都の財務官であったという事実は、誰にも知られていないはずだった。 ただ一人、塔の最上階にいる『聴く耳』を持った令嬢を除いては。
「お嬢様。本日の講義の時間です」
鉄扉が開き、マリウスが入室してきた。 手には分厚い歴史書と、完璧に抽出された紅茶。 その表情は相変わらず能面のように読み取れない。 エリストールは窓辺から振り返り、優雅に微笑んだ。
「ありがとう、マリウス。……でも、今日は講義よりも相談がありますの」
「相談? 予算の増額なら認められませんよ。冬の備蓄は計画通りに進んでいますが、余裕はありません」
マリウスは先手を打って釘を刺した。 だが、エリストールは机の上に一枚の羊皮紙を広げた。 そこには、街の広場を中心とした『祭典』の計画図が描かれていた。
「『星祭』を行いたいのです」
「……却下します」
マリウスは図面を一瞥しただけで切り捨てた。
「この厳冬期に、民を集めて祭りなど。薪と食料の無駄遣いです。非合理的極まりない」
「いいえ。これは必要な投資です」
エリストールは引かなかった。
「連日の寒さと、いつまた西が攻めてくるか分からない不安で、民の気力は限界に近づいています。……鬱屈した空気は、生産性を下げ、治安を悪化させます。一度ガス抜きをして、『春への希望』を見せる必要があるのです」
「精神論ですね。数値化できない効果に、予算は割けません」
マリウスは冷たく言い放ち、本を開こうとした。 いつもの彼なら、これで話は終わりだ。 だが、今日のエリストールは違った。 彼女は紅茶を一口含み、カップを音もなくソーサーに戻すと、静かに言った。
「……そうですか。王都の財務を管理していたような方なら、この程度の『民心の掌握術』は常識かと思いましたけれど」
ピクリ。 ページをめくるマリウスの手が止まった。 部屋の空気が凍りつく。 マリウスはゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥から鋭い光を放った。
「……何のことでしょうか」
「いいえ、ただの独り言です。……昔、本で読みましたの。ある王国に『氷の……』と呼ばれた、それは優秀な官僚がいたとか。彼は数字だけでなく、人の心の動きさえも計算式に組み込んでいたそうですわ」
エリストールは無邪気な笑顔で首を傾げた。 脅迫ではない。 ただ、「私は知っている」という事実を、ほんの少しだけ匂わせたのだ。 マリウスほどの男なら、屋敷のどこかに『耳』があることくらい、すぐに察するだろう。
長い沈黙が流れた。 暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。 やがて、マリウスはふっと短く息を吐き、眼鏡を外して懐から布を取り出した。
「……参りましたね」
彼は眼鏡を拭きながら、苦笑とも自嘲ともつかない表情を見せた。
「貴女は、私が育てようとしていた以上の怪物になりつつあるようだ。……いいでしょう。この手の手綱捌きも資質です」
マリウスは机上の計画図を手に取り、素早く目を通した。
「ただし、予算は出しません。……騎士団から奪った食料の余剰分と、廃棄予定だった蝋の再利用。これの範囲内でやりなさい」
「十分です。ありがとう、マリウス」
「礼には及びません。……その代わり、私の過去については、墓まで持って行っていただきますよ」
「ええ。優秀な執事を失いたくはありませんもの」
二人の間に、奇妙な共犯関係が成立した瞬間だった。
*
数日後の夜。 バルガンの街は、冬の闇を払うような温かい光に包まれていた。 広場の中央には、枝を組み上げて作られた巨大な焚き火台が設置され、エリストールが考案した『風食らいの竈』の原理で、少ない薪でも高く燃え上がる炎が揺らめいている。 周囲には、廃棄蝋を集めて作った無数のキャンドルが並べられ、まるで星空が地上に降りてきたような幻想的な光景を作り出していた。
「すげえ……! 綺麗だ!」 「温かいスープもあるぞ!」
ガエルやトトたち子供組が広場を走り回り、大人たちに温かい肉汁を配っている。 人々は炎を囲み、久しぶりに恐怖や寒さを忘れて笑い合っていた。 リュートを弾く者が現れ、誰かが歌い出す。 それはただの祭りではない。 西の脅威にも、冬の寒さにも負けなかった、この街の勝利宣言でもあった。
*
塔の最上階。 エリストールは窓を開け、冷たい風と共に流れてくる音楽と歓声を聞いていた。 その肩には、ガエルたちが贈ってくれた不格好なショールがかけられている。
「……見えますか、賢者様」
背後でマリウスが、極上のホットワインを差し出した。 いつもの紅茶ではない。 今夜だけの、ささやかな祝い酒だ。
「ええ。……綺麗な光」
「民は単純だ。光と熱を与えれば、容易く明日への活力を生み出す。……貴女の計算通り、治安維持コストとしては安いものでした」
マリウスはワイングラスを軽く掲げた。 その横顔からは、いつもの冷徹さが少しだけ薄れ、どこか懐かしむような色が滲んでいた。 かつて王都の中枢で国を動かしていた男が、今は辺境の塔で、一人の少女と共に小さな街の灯りを見つめている。
「……ねえ、マリウス」
「何でしょう」
「いつか、この扉が開く日が来たら……あなたも一緒に、あの炎のそばに行きましょうね」
「……その時まで私が解雇されていなければ、検討しましょう」
マリウスは恭しく一礼し、空になったグラスを下げた。 だが、その足取りはいつもより少しだけ軽やかに見えた。
街の広場では、カミラが大声で笑い、ガエルが踊っている。 見えない糸で結ばれた仲間たち。 そして、秘密を共有することでより強固になった主従の絆。 バルガン領の冬はまだ続く。 だが、この夜灯された希望の火は、春が来るまで決して消えることはないだろう。
雪が静かに降り積もる。 それは、過去の傷跡も、これからの不安も、すべてを優しく覆い隠すような、静寂の白だった。
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