第35話 毒蛇の末路とガラスの安らぎ

東の空が白み始め、夜明けの蒼い光が路地裏に差し込んでいた。 猿ぐつわを噛まされ、手足を荒縄で拘束された工作員ザイードは、もはや毒蛇ではなく、ただの無力な捕虜として地面に転がされていた。 その周りには、勝利の安堵に包まれたガエルたちが座り込んでいる。


「……終わったな」


ガエルが大きく息を吐き、泥だらけの顔を袖で拭った。 トトが持っていた毛布の中には、世界を汚染しかけた猛毒が封じ込められている。 あと一歩遅ければ、あるいはカミラやファルクの連携が少しでも崩れていれば、ここには死体の山が築かれていただろう。


「いい仕事だったよ、あんたたち」


カミラがザイードの背中を椅子代わりに腰を下ろし、ガエルたちを見回してニカっと笑った。


「賢者様の知恵も凄いが、それを信じて走り回ったあんたらの足と根性も大したもんだ。……誇りな」


その言葉に、子供たちが照れくさそうに笑い合う。 彼らは街を救ったのだ。 誰に知られることもなく、騎士団すら逃げ出すような恐怖を、自分たちの手で食い止めたのだ。



塔の最上階。 鉄扉が開く音がして、マリウスが入室してきた。 エリストールは窓辺に立ち、夜明けの街を見下ろしていたが、その肩は微かに強張っていた。 彼女はずっと待っていたのだ。 作戦の成功報告を。あるいは、最悪の悲報を。


「……報告します」


マリウスの声は、いつも通り感情の色がなかった。


「工作員ザイードの身柄を確保。毒の散布は未然に防がれました。カミラとガエル一味による捕縛作戦は成功です」


エリストールの肩から、ふっと力が抜けた。 張り詰めていた糸が緩み、彼女は窓枠に手をついて体を支えた。


「……怪我人は? ガエルたちは無事なの?」


振り返った彼女の瞳は、冷徹な指揮官のものではなく、友を案じるただの少女のものだった。 マリウスが一瞬だけ眉を動かした。 彼にとってガエルたちは使い捨ての駒に過ぎないが、主人にとってはそうではないらしい。


「カミラに擦り傷程度。子供たちに怪我はありません。……先ほど保護したトトという少年も、煮沸した水を飲み、峠を越えたとの報告が入っております」


「よかった……」


エリストールは胸に手を当て、深く安堵の吐息を漏らした。 その目尻には、うっすらと涙が滲んでいた。 作戦中は心を殺し、彼らを危険な場所へ送り込んだ。 もし誰か一人でも欠けていたら、彼女は一生自分を許せなかっただろう。


「……マリウス。彼らに十分な休息と、温かい食事を。それから、トトには一番良い薬と清潔な寝床を用意してあげて」


「すべて手配済みです。……しかし、賢者様」


マリウスは眼鏡の位置を直し、諭すように言った。


「支配者が駒に情をかけ過ぎては、判断が鈍りますよ」


「情ではないわ」


エリストールは涙を指先で拭い、凛とした表情を作り直した。 だが、その声には隠しきれない優しさが滲んでいた。


「彼らは私の手足であり、私の『外の世界』そのものなの。手足が傷つけば本体も痛む。……大切にするのは当たり前でしょう?」


それは精一杯の強がりだったかもしれない。 だが、マリウスはそれ以上何も言わず、恭しく一礼した。


「心得ました。では、捕虜の尋問と、街への公表準備に入ります」



正午。 街の中央広場には、黒山の人だかりができていた。 演台に立ったマリウスが、捕らえられたザイードと、証拠品である毒の小瓶を掲げていた。


「市民よ、聞け! 諸君を苦しめていた疫病の正体は、呪いでも祟りでもない! この男が持ち込んだ『毒』であった!」


どよめきが広がる。 恐怖の対象が、得体の知れない神の怒りから、卑劣な人間の悪意へと変わった瞬間だった。


「だが恐れることはない! 我が領には、すべてを見通す『壁の賢者』がいる! 賢者の知恵と、勇敢なる街の若者たちの手により、毒蛇は狩られたのだ!」


わぁぁぁぁっ!! 広場は割れんばかりの歓声に包まれた。 人々はザイードに石を投げるのではなく、お互いに抱き合い、見えない恐怖からの解放を喜び合った。 その歓声の波の中に、ガエルやカミラたちの姿もあった。 彼らは英雄として名乗り出ることはしなかったが、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。



夕暮れ時。 騒ぎが落ち着いた頃、塔の壁の穴からスレートが顔を出した。 エリストールは待ち構えていたように、小さな友人を両手で包み込み、頬ずりをした。


「ありがとう、スレート。……怖かったでしょう」


スレートは誇らしげに胸を張り、くっくっと喉を鳴らした。 エリストールは机に向かい、小さな手紙を書いた。 それはいつもの指示書や作戦図ではない。 飾り気のない、彼女の本心が綴られた手紙だった。


『ガエル、カミラ、みんなへ。 本当にありがとう。 あなたたちがいてくれなかったら、私は何も守れなかった。 トトが良くなって本当によかった。 今はゆっくり休んでね。 ……また、いつもの素敵な話を聞かせてほしいな。』


最後に小さく、笑顔の似顔絵を添える。 賢者として振る舞うことを強要される日々の中で、この小さな手紙だけが、彼女が「エリストール」という一人の少女に戻れる瞬間だった。


スレートが手紙をくわえ、夕焼けの壁を駆け下りていく。 エリストールはその背中を見送りながら、窓に映る自分の顔を見た。 そこには、冷徹な軍師の顔ではなく、友の無事を喜ぶ穏やかな笑顔があった。


西の脅威は去った。 だが、彼らがこのまま黙っているはずがない。 つかの間の平穏。 ガラスの城の中で、少女は次なる嵐に備えつつ、今夜だけは安らかな眠りにつくことを許されたのだった。

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