第34話 炙り出される影
「……そこまでだ、ネズミ野郎」
カミラが地面に突き立てた大剣の柄に手を置き、低い声で告げた。 その背後には、弓を引き絞ったまま微動だにしないファルクがいる。 完全に退路を断たれたザイードは、一瞬だけ狼狽の表情を見せたが、すぐに工作員としての冷徹な顔に戻った。
「……驚いたな。ここが第二の標的だと、どうして分かった?」
「あたしらは知らないよ。全部、塔の中にいる賢者様の指示さ」
カミラは懐から羊皮紙を取り出し、ヒラヒラと振ってみせた。 そこには、ザイードの行動予測が事細かに記されていた。 『効率を重視する犯人は、人目につかず、かつ拡散力の高い場所を選ぶ。北が潰されれば、次は必ず東の洗い場に向かう』 その予測は、まるでザイードの思考を覗き見たかのように正確だった。
「賢者……。あの塔の小娘か」
ザイードは舌打ちをした。 やはり、自分の動きはすべて掌の上だったのだ。 だが、ここで捕まるわけにはいかない。 彼は外套の裾を翻すと同時に、数本の投げナイフを放った。
ヒュン、ヒュン!
闇を裂いて飛来する刃。 だが、カミラは避ける素振りすら見せなかった。 彼女は大剣を軽々と持ち上げ、まるで巨大な盾のように構えた。
カカカンッ!
ナイフは分厚い鉄の刀身に弾かれ、火花を散らして地面に落ちた。
「……挨拶にしちゃあ、軽いね」
カミラがニヤリと笑う。 その隙に、ザイードは煙玉を地面に叩きつけた。 ボウッ! と白い煙が充満し、視界が奪われる。
「逃がさないよ!」
カミラが大剣を一振りし、風圧で煙を吹き飛ばす。 だが、その時には既にザイードの姿は消えていた。 彼は路地裏の闇に紛れ、複雑に入り組んだ貧民街の方へと逃走していた。
「……ちっ、逃げ足の速い奴だ」
「追うぞ、カミラ。奴は南へ向かった」
ファルクが屋根の上を指差した。 ザイードは屋根伝いに、南の市場――すなわち第三の水源がある場所へと向かっているようだった。 だが、ファルクの耳は、彼が焦りから呼吸を乱している音まで捉えていた。
*
ザイードは必死に走っていた。 (馬鹿な、あり得ない……!) 彼の頭の中は混乱で埋め尽くされていた。 東の待ち伏せだけではない。 逃走ルートの曲がり角、屋根の配置、隠れるのに適した影。 そのすべてに、先回りをしているかのように『罠』が仕掛けられていたのだ。
路地を曲がろうとすれば、そこには木材が積み上げられて通行止めになっている。 屋根を飛ぼうとすれば、足場となる瓦がわざとらしく外されている。 まるで、迷路のネズミのように、決められた道へと誘導されている感覚。
「……まさか、これも計算なのか?」
ザイードの背筋に悪寒が走った。 塔の賢者は、彼が逃げ出す方向すら予測し、ガエルたちを使って事前に街の形を変えていたのだ。 『追い詰められた獣は、本能的に最も暗い道を選ぶ』 エリストールの冷徹な声が聞こえてくるようだった。
そして、ザイードがたどり着いたのは、袋小路になっている広場だった。 行き止まりだ。 振り返ると、そこには息を切らしたガエルと、松明を持った子供たちが待ち構えていた。
「……へへっ、お嬢の読み通りだ。本当にこっちに来やがった」
ガエルが勝ち誇ったように笑う。 その背後から、屋根を飛び越えてカミラが着地した。 さらに、退路を塞ぐようにファルクが弓を構える。
「チェックメイトだ」
カミラが大剣を肩に担ぎ、一歩ずつ近づいていく。 ザイードは壁際に追い詰められた。 万事休す。 だが、彼の目にはまだ諦めの色はなかった。
「……近づくな!」
ザイードは懐から、残りの毒が入った小瓶を取り出し、高く掲げた。
「一歩でも動いてみろ! この瓶をここで叩き割る! そうすれば、この辺り一帯は死の毒で汚染されるぞ!」
自爆テロじみた脅し。 子供たちが悲鳴を上げて後ずさる。 瓶が割れれば、気化した毒が周囲に広がり、ここにいる全員が道連れになる。 ザイードは歪んだ笑みを浮かべた。
「道を開けろ! さもなくば……」
ヒュッ。
風を切る音が、彼の言葉を遮った。
パリーン!
ザイードの手の中で、小瓶が砕け散った。 ファルクの放った矢が、小瓶の口の部分だけを正確に射抜いたのだ。 だが、中身の液体が地面に落ちる――その寸前。
バサッ!
足元に潜んでいたトトが、水を含ませた分厚い毛布を投げかけた。 黒い液体は地面に触れる前に毛布に吸い込まれ、そのまま幾重にも包み込まれた。
「……なっ!?」
ザイードが呆気にとられた瞬間、カミラの蹴りが彼のみぞおちに突き刺さった。
「がはっ……!」
ザイードはボールのように吹き飛び、壁に激突して崩れ落ちた。 うめき声を上げる彼の背中を、カミラが容赦なく踏みつける。
「残念だったね。毒の処理法も、全部賢者様から教わってるんだよ。『毒は布に吸わせて、すぐに密封しろ』ってね」
ガエルが手早く毛布を壺に押し込み、蓋をして蝋(ろう)で封印した。 これで毒が広がることはない。
「……化け物め……」
ザイードは血の混じった唾を吐き捨てた。 武力、逃走経路、そして最後の切り札である毒の処理。 すべてにおいて、彼は塔の中にいる少女に完敗したのだ。
「失礼しちゃうねぇ。……ただの、恐ろしく頭のいいお嬢様だよ」
ガエルは、縛り上げられるザイードを見下ろして言った。 東の空が白み始めている。 長い夜が終わった。 見えない恐怖との戦いは、物理と知略、そして仲間たちの連携によって、完全なる勝利で幕を閉じたのである。
*
翌朝。 塔の最上階で報告を受けたエリストールは、窓の外の青空を見上げて小さく微笑んだ。
「……お疲れ様、みんな」
手元には、スレートが運んできた『毒の成分が入った小瓶の欠片』がある。 これが動かぬ証拠だ。 疫病騒ぎが呪いではなく、西の国による人為的なテロであったこと。 そして、それを防いだのが『壁の賢者』の知恵であったこと。 その事実は瞬く間に街中に広まり、エリストールへの信頼は、もはや揺るぎないものとなろうとしていた。
「さて、マリウス」
エリストールは振り返り、次の指示を出した。
「捕虜にした工作員から、西の国の情報をすべて吐かせなさい。……拷問は必要ないわ。彼のプライドをへし折るような『論理的な尋問』を教えてあげる」
戦いは終わらない。 だが、今の彼女には、背中を預けられる最強の剣と盾がある。 エリストールはペンを握りしめ、次なる一手――バルガン領の反撃のシナリオを描き始めた。
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