第33話 封鎖された水源と煮え立つ街
北地区の広場にある古井戸の前で、怒号と悲鳴が交差していた。 水を求める住民たちと、それを阻止しようとするガエルたちとの間で、小競り合いが起きていたのだ。
「どけ! 喉が渇いてるんだ!」 「俺の家族が熱を出してる! 水を飲ませなきゃ死んじまう!」
男たちがガエルを突き飛ばし、手桶を井戸に下ろそうとする。 彼らにとって、この透き通った水は命綱に見えていた。 それが実は毒そのものであるという事実など、喉の渇きと高熱への恐怖の前では信じられなかったのだ。
「やめろ! それを飲んだらトトみたいになるぞ!」
ガエルが必死に叫ぶが、パニックになった群衆の声にかき消される。 理屈ではない。 彼らは本能で水を求めている。 それを止めるには、言葉以上の『力』が必要だった。
ガシャン!!
鋭い金属音が響き、井戸のつるべが支柱ごと叩き斬られた。 手桶が深い井戸底へと落下し、重い水音を立てる。 群衆が息を呑んで振り返ると、そこには大剣を構えたカミラが仁王立ちしていた。
「……耳の遠い連中だね」
カミラは剣を石畳に突き刺し、威圧的な視線で住民たちを睨みつけた。
「賢者様の命令だ。この井戸は封鎖する。……文句がある奴は、この剣と話し合ってからにしな」
圧倒的な武力による強制執行。 それに怯んだ隙に、ガエルたちは大急ぎで持ち込んだ板と釘を使い、井戸の口を完全に塞いでいった。 カン、カン、という乾いた音が夜の広場に響く。 それは、死神の喉元を塞ぐ音だった。
「水だ……じゃあ、俺たちは何を飲めばいいんだ……」
力なく座り込む男に、ガエルは一枚の張り紙を見せた。 そこには、エリストールが記した『生き残るための鉄則』が書かれていた。
「他の井戸の水を使え。ただし、そのまま飲むな! 必ず鍋で沸騰させろ! グツグツと泡が出るまで煮て、冷ましてから飲むんだ!」
「煮る? 水をか?」
「ああ! 賢者様が言ってた。『火の力で水の中の悪魔を焼き殺せ』ってな!」
ガエルの言葉は、迷信深い人々の心にすとんと落ちた。 見えない毒や細菌という概念は理解できなくても、『火で清める』という行為なら理解できる。 ガエルたちは荷車に積んでいた大量の木炭と布を配り始めた。
「これを使って水を濾せ! その後で煮沸だ! ……生き残りたかったら、賢者様の言う通りにしろ!」
その夜、バルガンの街に奇妙な光景が広がった。 すべての家の煙突から、白い煙が立ち上り始めたのだ。 家々でかまどに火が入れられ、大量の水が煮沸されている。 立ち込める湯気は、街全体を白い霧のように包み込んだ。
*
翌朝。 塔の最上階から街を見下ろしていたエリストールは、白く煙る街並みを見て、小さく頷いた。
「……広がったようね」
「ええ。ガエルたちの働きは見事でした」
後ろに控えるマリウスが、朝の報告書を差し出した。
「昨夜から今朝にかけての新規の発症者、ゼロです。……既存の患者の中にも、煮沸した水を飲み始めてから回復に向かう者が現れています」
「水さえ断てば、毒は排出される。……単純な理屈よ」
エリストールは表情を緩めなかったが、机の下で握りしめていた手から、ようやく力が抜けた。 勝った。 見えない敵との第一ラウンドは、こちらの勝利だ。
「しかし、賢者様。敵が諦めるとは思えません」
マリウスが鋭く指摘した。
「水源を一つ潰された程度で引くような相手なら、最初からこんな手の込んだ真似はしません。……次はどう出ると読みますか?」
エリストールは地図に目を落とした。 北の井戸は封鎖された。 ならば、犯人は次にどこを狙うか。 彼女は犯人の思考に潜り込んだ。 犯人の目的は、単なる殺人ではない。街を混乱させ、機能を麻痺させることだ。 だとすれば、最も効率的に被害を広げられる場所を選ぶはずだ。
「……ここね」
エリストールはペンを滑らせ、地図上の二箇所を丸で囲んだ。 東地区の共同洗い場と、南の市場に直結する水路だ。 どちらも人の往来が激しく、毒を撒けば一気に拡散する。
「ザイードという名の工作員……彼は合理的だわ。だからこそ、動きが読める」
エリストールは顔を上げ、マリウスを見据えた。
「待ち伏せをするわ。……カミラとファルクを呼んで」
*
その頃、街の喧騒から離れた路地裏で、工作員ザイードは舌打ちをしていた。
「……チッ。小賢しい真似を」
彼は憎々しげに、白い湯気を上げる煙突群を見上げた。 井戸を封鎖するだけならまだしも、水を煮沸させるという知恵まで授けるとは。 彼の持ち込んだ『死神の涙』は熱に弱い。 その弱点を、あの塔の主は正確に見抜いている。
「だが、水は一つではない」
ザイードは懐の小瓶を確認した。 まだ中身は半分残っている。 北が駄目なら、東だ。 東が駄目なら、南だ。 この街にあるすべての水源を毒で満たせば、煮沸など追いつかなくなる。
「今夜だ。……警備が北の井戸に集中している隙に、別の動脈を断つ」
ザイードは外套の襟を立て、人混みに紛れた。 彼は気づいていなかった。 自分の合理的な思考こそが、塔の中の少女によって完全に計算され、誘導されているということに。
そして夜が来た。 月明かりすらない曇天の下、ザイードは音もなく東地区の共同洗い場へと忍び寄った。 ここなら、洗濯や野菜洗いに来た者たちが、気づかぬうちに毒を持ち帰る。
「……これで終わりだ、バルガン領」
彼は小瓶を取り出し、水面へと腕を伸ばした。 その時だった。
ヒュンッ!
風を切る音がして、ザイードの手元にあった石柱に何かが突き刺さった。 一本の矢だ。 あと数センチずれていれば、彼の手首を縫い止めていただろう。
「……誰だ!」
ザイードが飛び退くと同時に、頭上の屋根から嘲笑うような声が降ってきた。
「おやおや。賢者様の予言通り、のこのこと現れたねえ」
見上げれば、巨大な剣を肩に担いだ女傭兵と、弓を構えた狩人の少年が、冷ややかな瞳で彼を見下ろしていた。
「ここから先は通行止めだよ、毒使いさん」
カミラが屋根から飛び降り、石畳を砕く勢いで着地した。 その衝撃で、ザイードの足元が揺れる。 物理と知略の包囲網は、既に完成していたのだ。
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