第32話 地図に散らばる死の足跡
「走れだって? トトが死にかけてるのに!」
ガエルは、スレートが運んできた小さな紙片を握りしめ、怒号を上げた。 目の前では、トトが脂汗を流し、苦しげに呼吸を繰り返している。 看病もせずに街へ出て、病人に質問をして回れというのか。 それはあまりにも冷酷な命令に思えた。
「落ち着きな、ガエル」
カミラがガエルの手首を掴み、強い力で抑え込んだ。 その瞳は静かだが、剣の切っ先のような鋭さを秘めている。
「賢者様は、意味のないことは言わない。……あんた、トトを助けたいんだろう?」
「当たり前だ!」
「なら、祈るより動くんだよ。魔女でも神官でもないあのお嬢が、唯一あいつを救う手立てを知ってるって言うなら、あたしはそれに賭ける」
カミラはスレートの頭を指先で撫で、上着をひっ掴んだ。
「行くよ。ファルクは北地区、あたしは市場、ガエルは南の貧民街だ。……手当たり次第に聞き出すんだよ。『いつ』『どこで』『何を』飲んだか。一秒でも無駄にするんじゃない」
カミラの気迫に押され、ガエルは奥歯を噛み締めて頷いた。 そうだ。泣いていてもトトの熱は下がらない。 ガエルは泥だらけのブーツの紐を締め直し、雨上がりの街へと飛び出した。
*
街は混沌としていた。 辻々では、高熱にうなされる家族を抱えた人々が、神殿の神官にすがりついている。 だが、神官たちが撒く聖水も、祈りの言葉も、内側から体を焼く熱には無力だった。
「頼む! 教えてくれ!」
ガエルは、道端でうずくまる男の肩を掴んだ。
「腹が痛くなる前、水を飲んだか? どこの井戸だ? 飯は何を食った?」
男は虚ろな目でガエルを見上げ、力なく首を振る。
「……水だ……冷たい水が飲みたくて……北の広場の……」
ガエルは懐から取り出した羊皮紙に、震える手で記録を書き殴った。 『北の広場』『昼過ぎ』『水』。 彼は次の患者へと走った。
一方、市場を担当したカミラは、もっと強引だった。 彼女は倒れた商人の胸ぐらを掴み、頬を軽く叩いて意識を呼び戻した。
「おい、死ぬにはまだ早いよ。あんた、昼飯に何を食べた? 酒か? 水か?」
「ひっ……水だ……あの井戸の……うまい水だ……」
ファルクは、その鋭敏な聴覚を駆使していた。 閉ざされた扉の向こうから聞こえる会話、うめき声、そして看病する家族の嘆き。 それらの中から『井戸』や『川』といった単語を拾い集め、頭の中の地図に刻み込んでいく。
夕暮れ時。 三人は隠れ家に戻り、集めた情報をスレートの背中の袋に詰め込んだ。 それは汗と泥にまみれた、汚い紙切れの束だった。 だが、そこには数百人の命の記録が刻まれていた。
「頼むぞ、スレート……!」
ガエルは祈るように小さな背中を見送った。 自分たちにできるのはここまでだ。 あとは、塔の中にいる頭脳が、この混沌の中から答えを見つけ出してくれるのを信じるしかない。
*
塔の最上階。 エリストールの執務机の上には、バルガン領の詳細な地図が広げられていた。 彼女の手元には、スレートが運んできた膨大な紙片と、インクを含ませたペンがある。
「……やはり」
エリストールは、報告書にある患者の発生場所を、地図上に黒いインクで塗りつぶしていった。 一つ、また一つ。 黒い点は不規則に現れているように見えたが、数を重ねるごとに、ある明確な『形』を浮かび上がらせていく。
「マリウス、見て」
エリストールは手を止めず、執事を呼んだ。 マリウスが地図を覗き込む。
「……南地区と東地区には、ほとんど黒い点がありませんね。被害は北地区の市場周辺に集中しています」
「ええ。もしこれが『空気』や『呪い』なら、風に乗って街全体に広がるはずよ。あるいは、人と人との接触で広がるなら、もっとまばらに散らばるはず」
エリストールは、黒い点の密集地帯の中心に、赤いペンで丸印をつけた。 そこにあったのは、古びた一つの井戸のマークだった。
「すべての黒い点が、この井戸を中心にして広がっている。……患者たちの証言も一致しているわ。『冷たい水を飲んだ』『北の広場で休んだ』。共通項はすべて、この井戸に繋がっている」
「なるほど。……つまり、犯人はこの井戸の中にいると?」
「そうよ。誰かが毒を投げ込んだか、あるいは腐った何かが混入したか。……いずれにせよ、これが『感染源』だわ」
エリストールはペンを置き、冷徹な目で地図を見据えた。 目に見えない病魔の正体を、彼女は数字と分布図という『檻』に閉じ込めたのだ。 医師たちが呪いだ祟りだと騒いでいる間に、彼女は論理の力で死神の尻尾を掴んで見せた。
「マリウス、直ちに命令を出して」
彼女は新しい羊皮紙に、迷いのない筆致で指示を書き連ねた。
『北地区の古井戸を直ちに封鎖せよ。あそこの水を一滴たりとも飲ませてはならない。 それ以外の井戸水も、飲む前には必ず鍋で沸騰させること。 布で濾すだけでは不十分。火の力で、水の中の『悪い種』を殺すのよ』
「煮沸ですか。……民が従いますかな? 聖水を飲む方が効くと信じておりますが」
「従わせるのよ。……ガエルたちを使ってでも、力ずくでもね」
エリストールの声には、有無を言わせぬ響きがあった。 これは戦争だ。 剣の代わりに情報を、鎧の代わりに衛生知識を武器にした、生存をかけた戦いなのだ。
「御意」
マリウスは恭しく一礼し、指示書を受け取った。 彼は心の中で舌を巻いていた。 この令嬢は、戦場を俯瞰する将軍の目を持ちながら、顕微鏡で世界を覗く学者の目も併せ持っている。 父バルガン男爵には決して持ち得なかった、真の支配者の資質だ。
*
夜の闇の中、ガエルたちの元へ再びスレートが戻ってきた。 運ばれてきた指示書を読み、カミラが獰猛な笑みを浮かべた。
「井戸の封鎖、ね。……やっぱり、あのお嬢には見えてたんだな」
「原因が分かったのか?」
ガエルが身を乗り出す。
「ああ。北の古井戸だそうだ。あそこの水が毒なんだよ」
カミラは大剣を担ぎ上げ、立ち上がった。
「行くよ、野郎ども! トトの仇討ちだ。……悪い水が出る蛇口を、力ずくで捻じ伏せてやる!」
ガエルたちは松明を手に、夜の街へと駆け出した。 見えない敵の正体は暴かれた。 あとは、物理的な力でその息の根を止めるだけだ。
一方、街の屋根の上。 闇に紛れて様子を伺っていた工作員ザイードは、眼下の動きを見て眉をひそめた。
「……何をしている? 祈るのではなく、井戸へ向かうだと?」
彼の計算では、パニックになった民衆が暴動を起こし、街は自滅するはずだった。 だが、彼らは統制の取れた動きで、正確に『汚染源』へと向かっている。 まるで、誰かが空の上から正解を教えているかのように。
「……まさか、気づいたのか? たった一日で?」
ザイードの背筋に、冷たい汗が伝った。 この街には、やはり何かがいる。 自分の常識を超えた、恐るべき『知恵』を持つ何者かが。
「面白い。……だが、水源は一つではないぞ」
ザイードは懐の小瓶を握りしめ、次なる標的へと視線を移した。 知恵比べだ。 どちらが先に相手の喉元を食いちぎるか。 静かなる疫病戦争は、新たな局面へと突入しようとしていた。
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