第31話 黒い水の恐怖

敗走した鉄甲騎士団の背中が地平線の彼方に消えてから数日が過ぎた。 街は戦勝の熱気に包まれ、市場には活気が戻り、酒場では毎晩のように勝利を祝う宴が開かれていた。 ガエルたちが手に入れた鉄屑の売却益は、貧民街の子供たちに新しい靴と、腹いっぱいのパンをもたらした。 誰もが、この平和が長く続くと信じていた。 しかし、本当の恐怖は、剣や槍のような目に見える形ではなく、もっと静かで、忌まわしい姿をして忍び寄っていた。


夜更け。 街の水源の一つである北地区の古井戸に、人影があった。 西の国の工作員ザイードだ。 彼は懐から取り出した小瓶の蓋を親指で弾き飛ばすと、その中身を暗い井戸の底へと傾けた。 とろりとした黒い液体が、水面に落ちて拡散していく。


「鉄が通じぬなら、腐らせるまでだ」


ザイードは口元を布で覆い、闇に溶けるように姿を消した。 東方の密林地帯で採取されたその液体は、現地では『死神の涙』と呼ばれている。 即効性はない。 だが、一度腹に入れば内臓をじわじわと蝕み、熱と激痛を与え、やがて人を干からびたミイラのように変えてしまう。 何より恐ろしいのは、看病する者にも『悪い気』が移り、次々と倒れていくことだ。


翌日の昼下がり。 異変は唐突に始まった。


「うっ……腹が……」


掃き溜め地区の広場で、仲間たちと新しい靴を見せ合っていたトトが、突然腹を押さえてうずくまった。 顔色は土気色になり、脂汗が滝のように流れている。


「おい、どうしたトト! 食べ過ぎか?」


ガエルが笑いながら肩を叩こうとしたが、トトの体が異常に熱いことに気づき、その手は止まった。 火傷しそうなほどの高熱だ。


「熱い……水……水をくれ……」


トトはうわ言のように呟き、ガエルの腕の中で痙攣を始めた。 その直後、広場の反対側でも悲鳴が上がった。 荷運びをしていた男が倒れ、口から泡を吹いている。 一人ではない。 二人、三人と、同じ症状を訴えて道端に崩れ落ちる者が現れ始めた。


「なんだ、これは……」


ガエルはトトを抱きかかえ、立ち尽くした。 疫病だ。 この時代、人々が最も恐れる災厄。 剣で斬られるよりも恐ろしく、火事で焼かれるよりも逃げ場がない。 人々はそれを『神の怒り』や『悪魔の呪い』と呼び、ただ怯えて祈ることしかできない。


「ガエル! トトを隠れ家に運ぶよ!」


人だかりを掻き分けて現れたカミラが、鋭い声で指示を飛ばした。 彼女の表情は、鉄甲騎士団を相手にした時よりも険しかった。


「これはただの腹痛じゃない。戦場で見たことがある。『黒腐れ』によく似た症状だ」


「黒腐れ……?」


「ああ。水が悪い土地で流行る死の病さ。……一度流行れば、村が一つ全滅する」


隠れ家のベッドにトトを寝かせたが、症状は悪化する一方だった。 ガエルたちは、濡れた布で額を冷やすことしかできない。 全財産をはたいて買った薬草も、高価な解毒剤も、この未知の熱には効果がなかった。


「くそっ……! なんでだよ!」


ガエルは壁を殴りつけた。 せっかく勝ったのに。 ようやく腹いっぱい食えるようになったのに。 目に見えない敵が、大切な仲間を内側から食い荒らしていく。 ナイフも、カミラの剛剣も、この敵には届かない。


その夜。 塔の最上階にある執務室にも、街の異変は報告されていた。 窓の外には、不気味な静寂が広がっている。 歓声は消え、代わりにどこかの家から、苦しむ家族を案じるすすり泣きが聞こえてくるようだった。


「……本日だけで、二十名が倒れました」


マリウスが淡々と報告書を読み上げた。


「症状は高熱、激しい腹痛、そして脱水症状。街の医師たちは『魔女の呪い』だと騒ぎ立て、祈祷師を呼ぼうとしています」


「馬鹿げているわ」


エリストールは、机に広げた街の地図に視線を落としたまま言った。


「呪いで人が死ぬものですか。そこには必ず『原因』があるわ」


彼女はペンを取り、患者が発生した場所を地図上に点で記していった。 物理的な脅威ならば、その質量と動線を計算すればいい。 だが、今回の敵は見えない。 それでも、エリストールは動揺していなかった。 すべての事象には法則がある。病もまた、自然界のルールに従って動いているはずだ。


「マリウス。医師たちが言う『悪い気』や『呪い』という言葉を、私の前で使うことを禁じます」


エリストールは顔を上げた。 その瞳には、恐怖ではなく、未知の謎を解き明かそうとする冷徹な知性が宿っていた。


「これは何者かが持ち込んだ『毒』か、あるいは自然発生した『汚れ』よ。……ガエルたちに伝えて。嘆いている暇があったら、足を使いなさいと」


彼女は新しい紙に、細かい指示を書き連ねていった。 トトが倒れたと聞いた時、胸が締め付けられるような痛みを感じた。 だが、感情に流されれば負ける。 賢者として、彼女がすべきことは祈ることではない。 戦うための武器――すなわち『知識』を与えることだ。


壁の穴から、スレートが顔を出した。 その黒い瞳もまた、仲間の危機を悟り、不安げに揺れている。 エリストールは優しく、しかし力強くスレートの頭を撫でた。


「行きなさい、スレート。ガエルたちに伝えて」


彼女は書き上げたメモを小さく折り畳み、赤い糸で結んだ。


『患者が倒れる前に何を飲んだか。どこの水を使い、何を食べたか。そして、発症した正確な時刻。すべての記録を集めて。……敵の正体を炙り出すわ』


スレートが闇夜の壁面を駆け下りていく。 街では、見えない死神が鎌を研いで待っている。 物理と知略で武装したエリストールを守る剣となったカミラやガエルたちにとって、それは経験したことのない、最も過酷な戦いの幕開けだった。

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