第36話 凍える塔と小さな太陽
季節は秋を通り越し、駆け足で冬へと向かっていた。 北にそびえる山脈から吹き下ろす風は、日毎にその鋭さを増し、石造りの街を冷たく舐め上げていく。 吹きっさらしの塔の最上階にあるエリストールの部屋もまた、例外なく極寒の地となりつつあった。 冷気は石の壁を透過し、部屋の空気を凍てつかせる。
「……寒いですね」
エリストールは、何枚ものショールを重ね着し、白く濁った息を吐いた。 手元のインク壺が凍りつきそうで、ペンを走らせる指先も赤くかじかんでいる。 部屋には暖炉があるが、火の気は乏しい。 薪の配給は最低限しか認められていないのだ。 父が当主だった頃は湯水のように使えていた燃料も、執事マリウスによる徹底した経費削減により、厳しく管理されていた。
「お嬢様、紅茶のお代わりはいかがですか」
マリウスが銀のポットを持って現れた。 彼の燕尾服姿は夏も冬も変わらない。 まるで寒さを感じない冷たい彫像のようだ。
「ありがとう、マリウス。……でも、紅茶の湯気だけでは、この寒さは凌げません。薪を増やしてはいただけないかしら」
「却下します。今年の冬は例年になく冷え込むとの予報です。街の備蓄薪も高騰しており、これ以上の浪費は非合理的です」
マリウスは表情一つ変えずに切り捨てた。 エリストールはカップを両手で包み込み、その温もりを指先に移しながら考え込んだ。 自分のような『重要な資産』ですらこの扱いなのだ。 ガエルたちのような貧民街の人々や、家の隙間風が酷い老人たちは、どうやってこの冬を越すのだろうか。 凍死。 それは疫病と同じくらい、静かで恐ろしい死だ。 貴重な労働力が失われることは、この冷徹な執事にとっても不利益なはずだ。
「……マリウス。薪が高いのは、皆がそれを燃やしすぎているからです」
「燃やしすぎ? ……暖を取るには火が必要です。火を燃やすには薪が必要。物理的な等価交換でしょう」
「いいえ。今の暖炉やカマドは、熱の半分以上を煙突から空へ捨てています。無駄の極みです」
エリストールは凍りかけたインクを体温で溶かし、新しい紙に図面を引き始めた。 彼女が描いたのは、曲がった奇妙な筒のような構造だった。
「これは空気を取り込み、煙突の中で強い風を起こすのです。そうすれば、太い薪ではなく、落ちている小枝や枯れ葉だけでも、十分に強い火力を生み出せます」
彼女が考案したのは極限まで熱を利用する仕組みだった。
「これを街の陶器職人に作らせてください。粘土を焼いて作った土管を組み合わせるだけでいいのです。……名付けて『貧者の暖炉』。燃料費が浮けば、あなたの帳簿も黒字になるでしょう?」
「……ほう」
マリウスは眼鏡の奥の目を細め、図面を手に取った。 民の生活よりも、コスト削減という点に興味を示したようだ。
「材料費は土代だけ。燃料はゴミ同然の枝で済む。……実に経済的です。採用しましょう」
数日後。 街の広場や路地裏には、土管を組み合わせた奇妙なカマドが次々と設置されていった。 ガエルたちが『賢者様の発明だ!』と言って広めたおかげで、人々は半信半疑ながらも使い始めた。 結果は劇的だった。 子供が集めてきた一抱えの小枝だけで、鍋の水が沸騰し、冷え切った手を温めることができたのだ。 吸い込まれる風がゴーゴーと音を立てて燃えるその小さな火は、凍える街を照らす『小さな太陽』となった。
塔の部屋にも、試作品の小さな土管ストーブが設置された。 少ない薪で部屋全体が効率よく温まり、エリストールは久しぶりに震えずにペンを握ることができた。 そのストーブの上には、いま一つの鍋が置かれている。
「……出来たようですね」
マリウスが鍋の蓋を開けると、濃厚な香りが漂った。 中には、脂身の多い肉の塊が、たっぷりの油の中で煮込まれている。 エリストールが指示書を書き、マリウスが厨房に作らせた『保存食』の実験品だ。
「油の中で低温で煮込み、そのまま油ごと冷やして固める。……空気を遮断することで、春まで腐らせずに保存できるはずです」
「ええ。本来なら廃棄されるような硬い屑肉が、驚くほど柔らかくなっています。これならば、冬の間の兵糧や、民への配給食として極めて優秀です」
マリウスは小皿に取り分けた肉を、毒見も兼ねて口に運び、淡々と評価を下した。 美味しい、とは言わない。 あくまで『優秀な資源』として認めただけだ。 エリストールもまた、それを料理としてではなく、自身の知識が正しかったことの証明として満足げに見つめた。
その時、壁の穴からカサカサという音がした。 スレートだ。 彼もまた、冬毛で少しふっくらとしていたが、寒さで鼻先を赤くしていた。 その背中には、いつもより大きな包みが乗せられている。
「あら、スレート。……寒かったでしょう」
エリストールは急いでストーブのそばに彼を招き入れた。 スレートは震える体を温かいレンガに擦り付け、ホッと息をついた。 そして、背中の荷物をエリストールの手元へ押しやった。
「これは……?」
包みを開けると、中から出てきたのは、分厚い羊毛で編まれたショールだった。 編み目は不揃いで、所々穴が空いているが、素材は最高級の羊毛だ。 添えられていた手紙には、ガエルの汚い字と、カミラの達筆な字が混在していた。
『賢者様へ。 カマドのおかげで、今年の冬は凍えずに済みそうだ。 これはそのお礼。 西の騎士団が置いていった荷車の中に、上等な毛布があったんだ。 カミラと街の婆さんたちが、それを解いて編み直した。 不格好だけど、温かさは保証するぜ。 風邪ひくなよ。 ガエルとカミラより』
「……まあ」
エリストールは、その不格好なショールを手に取った。 ずっしりとした重み。 そこには、獣臭さとは違う、日向のような温かい匂いが染み込んでいた。 不器用なガエルたちが、夜なべをして編んでいる姿が目に浮かぶようだ。
「……マリウス。見て」
エリストールは、少し潤んだ瞳で執事を振り返った。
「彼らが、私を守ってくれている」
「……そのようですね。本来なら没収すべき横領品ですが、貴女の防寒具にかかる経費が浮いたと考えれば、黙認する価値はあるでしょう」
マリウスは冷ややかな計算を含んだ口調で言い、事務的にスープを皿によそってテーブルに置いた。 優しさではない。 賢者という機能を維持するための、ただの燃料補給だ。 だが、今のエリストールにはそれで十分だった。
外では北風が吹き荒れている。 だが、塔の中は温かかった。 物理の法則が生んだ熱と、路地裏の仲間たちから届いた不器用な温もり。 二つの太陽に守られ、エリストールは肩にかけたショールの重みを感じながら、静かにスープを口にした。
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