第19話 月の吐息と太陽の涙
塔の部屋に閉じ込められてから、エリストールは父バルガン男爵の微細な変化を観察し続けていた。ここ数日は不気味なほど穏やかだった。うっとりとした目でエリストールの髪を撫で、永遠や、変わらぬ美しさ、といった言葉を口にする。
その違和感の正体が判明したのは、父が置き忘れた納品書を盗み見た時だった。そこには『月の吐息』という品名が記されていた。
エリストールは青ざめた。それは東方の暗殺者が使う毒薬の一種だ。即死はさせない。心拍数を極限まで下げ、脳を夢の中に閉じ込め、生ける屍として仮死状態にする薬だ。父は娘を愛するあまり、老いも反抗もしない美しい人形に変えようとしているのだ。
逃げなければ。 だが、この鉄格子の部屋から物理的に脱出するのは不可能。ならば、父の計画を利用するしかない。
その夜、エリストールはねずみのスレートの首に手紙を結びつけた。それはこれまでのどの依頼よりも困難で、危険な賭けだった。
『至急、裏ルートで『太陽の涙』を入手して。私の命がかかっているわ』
街の掃き溜め地区。ガエルはその手紙を読み、頭を抱えていた。
「太陽の涙だア? お嬢、無茶言わんでくれよ……」
仲間たちが怪訝な顔で覗き込む。それは裏社会でも伝説級の薬だった。あらゆる神経毒や睡眠毒を中和し、強制的に意識を覚醒させる劇薬だ。値段も高いが、それ以上に売っている場所が限られる。
「どうする、ガエル? そんなのどこで手に入れるんだよ」
「あそこしかねえだろ。港の倉庫街にいる、ヤブ医者の婆さんのとこだ」
ガエルたちは全財産をかき集めた。食費も、冬のための蓄えも、全て袋に詰め込んだ。夜霧に紛れて港へ走る。湿気った倉庫の奥、彼らは偏屈な老婆との交渉に臨んだ。足元を見られ、なけなしの金貨を全て巻き上げられた末に、ようやく手に入れたのは小指の先ほどの小さな小瓶だった。
中には、黄金色に輝く液体が入っている。
「いいかい、坊主。こいつは毒にも薬にもなる。使い方を間違えれば心臓が破裂して死ぬよ」
老婆の不吉な忠告を背に、ガエルたちは隠れ家へと戻った。震える手で、その小瓶をスレートの背中にくくりつける袋へと収める。
「頼むぞ、スレート。これが俺たちの全財産……いや、お嬢の命だ」
スレートは重責を感じ取ったのか、キリリとした顔で鳴き、闇夜の壁面を駆け上がっていった。
塔の窓辺。戻ってきたスレートから小瓶を受け取り、エリストールはそれを月明かりにかざした。黄金色の液体、『太陽の涙』。これさえあれば、父が『月の吐息』を盛ってきた時、その効果を打ち消すことができる。
エリストールはすぐに次の指示書を書き、スレートに持たせた。
『入手ありがとう。作戦を伝えるわ。父はおそらく次の晩餐で毒を使う。私はこの薬を事前に口に含み、毒を中和する。そして毒が効いたふりをして倒れるわ。父は私を美しい標本にするため、屋敷から運び出そうとするはず。その時がチャンスよ。死体になりすました私を奪還して』
文字を書きながら、彼女の手は震えていた。猛毒を飲み、即座に解毒し、死んだふりをする。失敗すれば本物の死体になるか、永遠に目覚めない人形になるかだ。
エリストールは震える手で小瓶をハンカチに包むと、愛用している書き古した本の背表紙の隙間に押し込んだ。ここなら、定期的な部屋の清掃が入っても見つからないはずだ。
直後、廊下から重々しい足音が近づいてきた。彼女は慌てて本を机に戻し、何食わぬ顔で椅子に座り直す。
ガチャリ。扉が開いた。
「ごきげんよう、私の可愛い小鳥」
現れたのはバルガン男爵だった。今日の彼は、いつにも増して目がぎらつき、頬が紅潮している。その後ろには、大きな衣装箱を抱えた執事マリウスが控えていた。マリウスの表情は能面のように読み取れないが、その目は部屋の隅々までを一瞬でスキャンしているようだった。
「お父様……。今日は何のご用でしょうか」
エリストールが努めて冷静に尋ねると、男爵は夢見るような口調で言った。
「素晴らしいプレゼントを持ってきたのだよ。……開けてくれ、マリウス」
執事が恭しく箱を開ける。中から現れたのは、目が眩むような純白のシルクドレスだった。繊細なレースがふんだんにあしらわれ、胸元には真珠が縫い付けられている。それは舞踏会のドレスというよりは、まるで死出の旅路に着せる装束のようだった。
「ああ、美しい……。これを着たお前は、きっと天使のように見えるだろう」
男爵はドレスをエリストールの体に当てがい、うっとりとため息をついた。
「三日後だ。三日後の晩餐で、これを着なさい。二人きりで、永遠の平穏を祝うのだ」
エリストールの背筋が凍りついた。三日後。それが期限だ。父はその日に『月の吐息』を使うつもりなのだ。この白いドレスは、最初から動かなくなる娘を飾るために用意されたものに違いない。
「……はい、お父様。楽しみにしています」
エリストールは笑顔を作った。拒絶すれば、今の平穏は崩れ、力ずくで毒を飲まされるかもしれない。今は従順な人形を演じ、油断させるしかなかった。
「良い子だ。……マリウス、部屋の温度管理は完璧にしておけよ。この子の肌が荒れたらどうする」
「承知いたしました、旦那様」
マリウスは淡々と答えたが、その視線が一瞬だけ、男爵の背中に冷ややかに突き刺さるのをエリストールは見逃さなかった。この執事は、主人の異常な執着をどう思っているのだろうか。忠実な下僕なのか、それとも別の考えがあるのか。今のエリストールには判断がつかなかった。
二人が去った後、部屋には再び静寂が戻った。残された白いドレスが、月明かりを浴びて亡霊のように白く浮かび上がっている。エリストールは本から小瓶を取り出した。
失敗は許されない。 彼女は裁縫道具を取り出した。ドレスの袖口の内側に、小さな隠しポケットを縫い付ける。晩餐の直前に小瓶の中身を口に含むために。
針を動かすたび、絹が衣擦れの音を立てる。それは、死神が鎌を研ぐ音にも、自由へのカウントダウンの音にも聞こえた。
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