第18話 霧の馬車と氷漬けの睡蓮
「ガエルの兄ちゃん! 出たぞ、『幽霊馬車』だ!」
深夜、赤竜の爪痕亭の裏口を叩いたのは、泥だらけになった少年トトだった。 息を切らせた彼がもたらした情報は、ここ数日、街の子供たちの間で囁かれていた噂の確証だった。 新月の夜だけ現れる、御者のいない真っ黒な馬車。 それは北の街道から音もなく現れ、関所を無視して走り去るという。
「御者がいないわけねえだろ。……だが、関所の兵士が見逃してるってのが臭いな」
ガエルは準備していた装備を手に取った。 腰には、ジレットが星鉄の余りで作り上げた「昇降器」が装着されている。 彼は口笛を吹き、闇に潜む仲間たちを呼んだ。 ファルクが窓から音もなく入り込み、カミラが酒場の残り肉を齧りながら現れる。
「初仕事だ。トトの情報じゃ、馬車は『旧水路』の道を通るらしい」
ガエルはすぐにスレートを走らせ、エリスに判断を仰いでいた。 旧水路。 そこは道が悪く、普通の馬車なら車軸が折れる。なぜそんな道を選ぶのか。
塔の最上階。 エリストールはスレートが運んできた地図と、トトの目撃情報を照らし合わせた。 彼女の脳内で、街の地下構造と、父の不審な動きがリンクする。
『ガエル、その馬車が運んでいるのは「重くて、溶けやすいもの」です』 『だからこそ、人目を避けつつ、振動の少ない水路沿いの泥道を選んでいるのでしょう』 『父は最近、北の山岳地帯の部族と接触していました。狙いは一つ。「氷」です』 『待ち伏せするなら、水路のカーブ地点。そこなら減速せざるを得ません』
エリスの指示は的確だった。 深夜の旧水路沿い。濃い霧が立ち込める中、ガエルたちは配置についた。
「……来たぞ。風切音がする」
木の上に潜んだファルクが、フクロウの鳴き真似で合図を送る。 彼の並外れた聴覚が、霧の向こうから近づく蹄の音を捉えたのだ。 やがて、闇の中から漆黒の馬車が現れた。 御者台には、黒いフードを目深に被った男が座っている。御者がいないというのは、闇に溶け込んで見えなかっただけだ。
「行くぞ!」
ガエルは腰の昇降器のトリガーを引いた。 シュパッ! 鋭い音と共にフック付きのワイヤーが射出され、水路脇の石壁に突き刺さる。 ガエルはバネの巻き取り力を利用し、重力を無視したような速度で壁を駆け上がった。 一瞬で馬車の頭上を取る。
「いただきだ!」
ガエルは屋根に飛び降りると、昇降器のワイヤーを御者に巻き付け、一気に引きずり下ろした。 馬車が暴走しかけたその時、前方からカミラが飛び出した。
「止まりな!!」
彼女は大剣の腹を馬の鼻先に叩きつけるのではなく、地面に突き刺して威嚇した。 歴戦の殺気に怯え、馬たちが竿立ちになって急停止する。 完璧な連携だ。
「さて、幽霊の正体を拝ませてもらおうか」
ガエルたちは、荷台の幌を乱暴に開け放った。 中から冷気が溢れ出す。 積まれていたのは、エリスの推理通り、巨大な「天然氷」のブロックだった。 だが、ただの氷ではない。 透明な氷の中には、青白く光る美しい花が、何本も閉じ込められていた。
「なんだこりゃ? ……花か?」
カミラが怪訝な顔をする。 ファルクが木から降りてきて、その花を見るなり目を見開いた。
「……『月の吐息』だ。北の極寒の地にしか咲かない猛毒の花だ」 「毒だと?」 「ああ。だが、微量なら強力な麻酔薬にもなる。……仮死状態にできるほどのな」
ガエルは背筋が寒くなるのを感じた。 氷漬けの麻酔花。 男爵はこれを何に使うつもりだ? 誰かを殺すためか? それとも、誰かを「眠らせ続ける」ためか?
その時、御者の男が呻き声を上げながら懐に手を伸ばした。 だが、ファルクの矢が男の袖を地面に縫い付けるのが早かった。 ガエルは男の胸ぐらを掴んだ。
「誰の命令だ。これをどこへ運ぶ?」
「し、知らない! 俺はただ、塔の裏口へ運べと言われただけで……!」
塔。 やはり行き先はそこか。
ガエルは氷を一つだけ砕き、中の花を採取すると、残りはそのまま馬車を行かせることにした。 ここで奪えば、男爵はさらに強引な手段に出るだろう。今は泳がせる。
翌朝。 塔の最上階。 執事マリウスが、ワゴンに載せた朝食と共に、一輪挿しの花瓶を運んできた。 活けられているのは、見たこともない青白い花——昨夜の「月の吐息」だ。 部屋の温度が数度下がったような気がした。
「……旦那様が、珍しい高山植物を入手されました。観賞用ですが、触れると肌が痺れますのでご注意を」
マリウスは淡々と告げた。 エリストールは、花を見つめる自身の顔が青ざめるのを感じた。 この花の効果を、彼女は書物で知っている。 『永遠の美を保つための防腐剤』、あるいは『苦痛なき永遠の眠りを与える薬』。 父は、何かに怯えている。 戦争か、病か、それとも「老い」か。 娘を外の脅威から守るために、いっそ「美しいまま眠らせてしまいたい」と願っているのではないか。
マリウスは紅茶を注ぎ終えると、去り際に窓の鍵を確認した。
「……昨夜は風が騒がしかったようですな。ねずみだけでなく、空を飛ぶ『蜘蛛』まで現れたとか」
昇降器を使ったガエルのことだ。 やはり、この男の目は誤魔化せない。
「ですが、蜘蛛の糸も、重い氷までは持ち上げられますまい」
マリウスは一礼して部屋を出た。 エリストールは残された青い花を見つめた。 その美しさは、まるで死に装束のように冷たく、静かだった。 ガエルたちの活躍で正体は暴かれた。 けれど、暴かれた真実は、予想よりも遥かに深く、暗い闇を孕んでいた。
「ガエル……。父は、私をどうするつもりなの……?」
エリストールは、スレートに結びつけた手紙に、震える文字で『月の吐息』の学術名を記した。 ワクワクするような冒険の夜が明け、そこには底知れぬ狂気の深淵が口を開けて待っていた。
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