第7話 ビロードの闇と古の暗号
父の約束通り、数日後には職人たちがやってきて、窓に特注のカーテンを取り付けた。 それは、夜の闇をそのまま織り込んだような、分厚く重厚な濃紺のベルベットだった。 職人が去り、再び鍵がかけられた部屋で、エリストールはその布地に触れる。 ずしりとした重み。 閉め切れば、昼間でも部屋は薄暗い洞窟のようになるだろう。 父はこれを「寒さから守るため」と言ったが、本音が「外の世界を隠すため」であることは明白だった。 だが、今のエリストールは絶望していない。 彼女はカーテンの裾を少しだけ持ち上げ、その裏側にある鉄格子の隙間を確認する。 道は、まだ繋がっている。 この重い布一枚を隔てた向こう側に、自由への回路が生きていた。
その日の午後、ねずみが現れた時、エリストールは一つの決意を込めた手紙を用意していた。 いつものように外の話をねだるだけの文面ではない。 彼女は、自身の価値を証明したかった。 ただ守られ、宝石を切り崩して情報を買うだけの「お荷物」にはなりたくなかったのだ。
『ガエル、貴方の仕事の話を聞かせてください』 『街の噂や風景だけでなく、貴方が抱えている「困りごと」を。私にできることがあるかもしれません』
塔の下、赤竜の爪痕亭。 ガエルは届いた手紙を読み、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。 「姫様が、路地裏のドブさらいを手伝いたいだと?」 生意気な申し出だ。 だが、タイミングは悪くなかった。 現在のガエルのテーブルには、一枚の汚れた拓本(石板の写し)が広げられていたからだ。 向かいの席には、ガラの悪い大柄な冒険者が座り、苛立ち紛れにテーブルを叩いている。
「おいガエル、まだ分からねえのか。俺たちは命懸けでこの『宝の地図』を手に入れたんだぞ」 「分かってるよ。だが、こいつはただの地図じゃねえ。古代語の暗号だ」
冒険者が持ち込んだのは、ある遺跡で見つけたという石板の写しだった。 そこにはミミズがのたうち回ったような奇妙な記号が羅列されている。 街の学者に見せても「解読不能」と匙を投げられ、裏社会にも顔が利くガエルの元へ持ち込まれたのだ。 ガエルは腕組みをして唸る。古代文字の解読は専門外だ。
「……ちょうどいい、試してみるか」
ガエルは拓本の端に、冒険者に見えないように薄い紙を重ね、数行分の文字を書き写した。 そして、テーブルの下で待機していたねずみの鞄にそれを滑り込ませる。
「おい、ちょっとツレに知恵を借りてくる。そこで大人しく飲んでろ」 「ああん? ツレだあ?」
ガエルは冒険者を待たせ、ねずみを送り出した。 相手は塔に閉じ込められた幽霊姫だ。 やることもなく、来る日も来る日も本ばかり読んでいるという噂が本当なら、あるいは。 もし彼女がただの飾り物の令嬢なら、これは紙屑になって戻ってくるだろう。 だが、もし彼女が本物なら。
塔の最上階。 エリストールは、ねずみが運んできた奇妙な記号の列を前にして、目を輝かせていた。 ドレスの汚れも気にせず、床に這いつくばるようにして本棚の下段を探る。 父が「難解すぎて誰も読まないから」という理由だけで飾りとして置いていった、古い言語学の書物。 彼女はそれを引っ張り出し、ページを繰った。
「……あったわ」
彼女の記憶は正しかった。 これは三百年前、この地方を支配していた小部族が使っていた「鏡文字」の一種だ。 普通の文字を反転させ、さらに特定の母音を抜くことで意味を隠している。 彼女にとって、それは難解な暗号ではなく、少し癖のある詩を読むようなものだった。 エリストールは手元の紙の裏に羽根ペンを走らせる。 単なる翻訳ではない。その文章が示している「地理的な意味」まで補足して。
『これは古代の北方部族が使っていた文字です』 『内容は「赤き岩の割れ目、三度目の月が昇る時、風の止む場所に道あり」。おそらく、特定の時期にしか現れない隠し通路のことでしょう』 『追伸:この部族は「風」を「北風」と限定して使う風習があります。探すなら北側の岩場です』
数刻後。 酒場に戻ってきたねずみから回答を受け取ったガエルは、思わず口笛を吹きそうになった。 完璧だ。 学者がさじを投げた難問を、彼女はアフタヌーンティーのついでに解いてしまった。 ガエルはすました顔で冒険者に向き直る。
「待たせたな。……答えが出たぜ」 「本当か!?」 「ああ。場所は北の岩場だ。普通の風じゃなく、北風が止むタイミングを狙え」
ガエルがもっともらしく解説すると、冒険者は顔を紅潮させて立ち上がった。
「すげえ! さすが街一番の便利屋だ! 恩に着るぜ!」
金貨の詰まった袋がテーブルに置かれる。 冒険者は足早に店を出ていった。 ガエルは重たい革袋を手に取り、ニヤリと笑う。 半分は自分の取り分。 そして残りの半分は、塔の上にいる「名探偵」への報酬だ。 ガエルは再びペンを取った。 今までの「してやっている」という上から目線の態度は、もう通用しない。 彼は初めて、彼女を対等なビジネスパートナーとして認める言葉を綴った。
『あんたは最高の相棒だ、エリストール』 『今回の仕事の報酬だ。何でも好きなものを言え。希少な宝石でも、南国の木の実でも、この小さな鞄に入るものなら、俺が必ず手に入れて届けてやる』
夕暮れ時。 重いベルベットのカーテンの裏で、エリストールはその手紙を読み、胸を熱くしていた。 欲しいもの。 高価なものは父が買い与えてくれる。 美味しいものも、メイドが運んでくる。 けれど、彼女が本当に欲しかったものは、ずっと得られなかったものだ。
彼女は震える手で返事を書いた。 それは物質的な要求ではなかった。
『報酬は、貴方からの「信頼」で十分です』 『でも、もし一つだけ我儘を言えるなら……』 『私に、貴方の街の地図をください。貴方が歩いている路地、貴方が見ている景色を、私も指でなぞってみたいのです』
その夜、ねずみが運んできたのは、薄い紙にびっしりと書き込まれた、手描きの地図だった。 ガエルが記憶を頼りに、路地の一本一本、建物の配置までを描き出し、小さく折り畳んだものだ。 そこには「近道」「野犬注意」「旨いパン屋」といった、彼ならではの生活の匂いがするメモまで添えられている。 エリストールはカーテンを閉め切り、ランプの明かりの下でその皺だらけの地図を広げた。 指先で道を辿る。 ここをガエルが歩いている。ここをねずみが走っている。 彼女の指は、塔のある場所から出発し、迷路のような路地を抜け、市場を通り、想像の中で街中を駆け巡った。
「いつか……」
彼女は呟く。 いつか、この指ではなく、自分の足でこの道を歩く日が来るのだろうか。 重いカーテンが部屋を閉ざしていても、彼女の心はもう、この狭い部屋には収まっていなかった。 エリストールは手書きの地図を枕元に隠し、安らかな眠りについた。 夢の中では、彼女は自由な冒険者となり、灰色のねずみと共に風の吹く荒野を駆けていた。
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