第6話 硝子の盾と嘘の処方箋

翌日の朝、塔の下から響く金属音が、エリストールの安眠を無慈悲に打ち砕いた。 カン、カン、カン。 職人たちが足場を組む音だろうか。あるいは、窓枠の寸法を測るための金具を打ち込んでいるのか。 その音はまるで、彼女の自由を閉ざすためのカウントダウンのように聞こえた。 エリストールはベッドから飛び起き、窓辺に駆け寄る。 鉄格子の隙間から下を覗き込むと、数人の男たちが図面を広げ、塔の外壁を指差しながら何かを話し合っているのが見えた。 父の行動は早かった。 昨夜の宣言通り、彼はこの窓に分厚いガラスを嵌め込み、外気との接触を完全に断とうとしているのだ。


「……どうすればいいの」


エリストールは青ざめた顔で部屋の中を彷徨う。 ガラスが嵌め込まれてしまえば、あの小さな隙間は塞がれる。 ねずみが通る道はなくなり、ガエルとの連絡手段も絶たれる。 それは、ようやく見つけた希望の光が、再び漆黒の闇に塗り潰されることを意味していた。 父に泣いてすがったところで無駄だ。 「お前のためだ」という最強の盾の前では、どんな理屈も弾き返される。 癇癪を起こして暴れれば、精神の不安定さを理由に、さらに厳しい監視がつけられるだけだろう。 彼女は藁にもすがる思いで、短い手紙を書いた。 宛先は、街の便利屋ガエル。 今の彼女にとって、この理不尽な状況を打破する知恵を授けてくれるのは、彼しかいなかった。


『父が窓にガラスを嵌めようとしています。そうなれば、もう貴方に手紙を送ることもできません。どうすれば父を止められますか?』


ねずみはその緊急性を理解しているのか、それともエリストールの焦燥を感じ取ったのか。 昼間の明るい時間帯であるにも関わらず、危険を冒して壁を駆け下りていった。


数刻後。 戻ってきたねずみの鞄には、いつもの羊皮紙ではなく、酒場の安酒のシミがついた、薄い紙切れが数枚、小さく折り畳まれて入っていた。 そこに書かれていたのは、ガエルが走り書きしたであろう、短く、乱暴な言葉の羅列だった。 限られた紙片に情報を詰め込むための、彼なりの暗号のような助言だ。


一枚目:『正面突破は無駄。愛を利用しろ』 二枚目:『「風がないと死ぬ」と泣いて脅せ。医者は呼ぶな』 三枚目:『儚く笑え。それが一番効く』


たった三行。 だが、エリストールにはその行間に込められた意図が、手に取るように分かった。 まともに説得しても勝てない。ならば、父の「守りたい」という罪悪感を逆に利用して、精神的に揺さぶれということだ。 「儚く笑え」という指示に、裏社会を生き抜く男の狡猾さと、心理戦の極意が詰まっている。


嘘をつく。演技をする。 貴族としての礼儀作法や、清廉潔白な生き方しか教わってこなかったエリストールにとって、それは未知の領域だった。 しかし、生き残るためには綺麗事など言っていられない。 彼女は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。 眠れずに青白くなった肌、不安に揺れる紫水晶の瞳。 演技をする必要すらないほど、今の彼女は十分に「儚い少女」に見えた。 彼女は深呼吸をし、ガエルの言葉を頭の中で反芻する。 父の愛を利用する。 それは娘として最大の背信行為かもしれないが、同時に唯一の生きる術でもあった。


その日の夕刻。 廊下から父の足音が近づいてきた時、舞台の幕は上がった。 エリストールはいつもの定位置であるソファには座らず、窓辺の冷たい床に力なく座り込んでいた。 開け放たれた鉄格子の隙間から入る風を、貪るように受けている。 扉が開き、男爵が入ってきた。


「エリス! 何をしているんだ、そんなところで!」


男爵が血相を変えて駆け寄ってくる。 エリストールはゆっくりと顔を上げた。 ガエルのメモ通り、決して取り乱さず、消え入りそうな声で、けれど聖母のように優しく微笑んでみせた。


「……お父様。ごめんなさい、少し息苦しくて」


「息苦しい? どこか悪いのか! すぐに医者を!」


男爵が今にも廊下へ飛び出しそうになるのを、エリストールはその服の袖を弱々しく掴んで止めた。


「いいえ、病気ではありませんわ。ただ……この部屋は、空気が止まっているのです」


彼女は細い指を鉄格子に絡ませ、切なげに外を見る。 その横顔は、今にも消えてしまいそうな陽炎のようだった。


「ガラスで塞がれてしまったら、私は本当に、箱の中の人形になってしまう気がして……。風の匂いも、鳥の声も聞こえない場所で、私の心は枯れてしまうかもしれません」


男爵の足が止まる。 「心が枯れる」という言葉が、彼の偏愛に深く突き刺さったようだった。 彼は想像したのだろう。 完璧に保存されたガラスケースの中で、生気を失い、ただ美しいだけの物体と化した娘の姿を。 それは彼が望む「永遠」に近いようでいて、決定的に何かが欠落した死の世界だ。 エリストールはダメ押しとばかりに、一筋の涙を流してみせた。 計算ではない。 ガラスが嵌まることへの本当の恐怖が、その涙を本物以上の重みにして頬を伝わせたのだ。


「お願いです、お父様。私から、風まで奪わないで」


長い沈黙があった。 部屋には、窓から吹き込む風の音だけが響いている。 男爵は苦渋の表情で窓を見つめ、それから床に座る娘を見下ろした。 葛藤するように拳を握りしめ、やがて、彼は深いため息をついた。


「……分かった。ガラスの話は白紙に戻そう」


「本当ですか?」


「ああ。お前の心が枯れることなど、私は望んでいない。だが、このままでは寒いときもある。ガラスの代わりに、特注の分厚いベルベットのカーテンを取り付けさせよう。それならいいだろう?」


「はい、お父様。……ありがとうございます」


男爵は娘を抱き起こし、ソファへと座らせると、逃げるように部屋を出ていった。 娘の涙に、自身の行き過ぎた独占欲を突きつけられ、居心地が悪かったのかもしれない。 あるいは、自分の愛が娘を苦しめている可能性を、ほんの少しだけ自覚したのかもしれない。


ガチャリ、と鍵の音が響く。 その瞬間、エリストールはソファに深く沈み込み、大きく息を吐き出した。 勝ったのだ。 ガエルの知恵と、ねずみの足、そして自身の演技で、父の決定を覆したのだ。 彼女は震える手で、隠していたガエルの手紙(メモ切れ)を取り出し、胸に押し当てた。 心臓がまだ早鐘を打っている。 だがそれは恐怖の動悸ではなく、初めて自分の手で運命を捻じ曲げた興奮によるものだった。


「ありがとう、ガエル……」


塔の下、城下町の酒場「赤竜の爪痕亭」。 ガエルはエールをちびちびと舐めながら、戻ってきたねずみに干し肉を与えていた。 ねずみは誇らしげに髭を揺らし、ガエルの指を甘噛みしている。 その様子から、作戦が成功したことを悟ったようだ。


「へっ、上手くやったみたいだな」


ガエルはニヤリと笑った。 深窓の令嬢に、路地裏の処世術を教え込む。 それは少々背徳的でありながら、奇妙な教育的満足感を彼に与えていた。 彼女はただ守られるだけの姫ではない。 教えれば教えるほど、その知性と洞察力で吸収し、自らの武器に変えていく素質がある。 これで首の皮一枚繋がった。 だが、 男爵の執着はこれで収まるような生温いものではないだろう。 これから先、彼女を守るためには、もっと多くの「嘘」と「策」が必要になる。


「次はどんな無理難題が飛んでくるかねぇ」


ガエルは呟きながらも、その目は楽しげに輝いていた。 囚われの姫と、薄汚れた便利屋。 共犯関係は、着実に深まりつつあった。

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