第5話 幽霊姫の告白と秘密の契約

『私の名前はエリストール』


その一行を見た瞬間、ガエルの全身から酔いが冷めた。 酒場の喧騒が遠のき、自身の心臓が早鐘を打つ音だけが耳に残る。 エリストール。 この辺境の領地で、その名を知らぬ者はいない。 だが、それは実在する人間の名前というよりは、ある種のお伽噺や怪談として語られるものだった。 領主であるバルガン男爵には、かつて亡き妻が残した一人娘がいるという。 その娘は、女神が嫉妬するほどの美貌を持って生まれたがゆえに、病弱さを理由に塔の最上階へ幽閉された。 街の住人たちは、彼女のことを畏怖を込めてこう呼んでいる。 「塔の幽霊姫」、と。


「……マジかよ」


ガエルは呻くように呟き、額に手を当てた。 ただの金持ち令嬢の火遊びだと思っていた。 だが、相手はこの領地で最も触れてはならないタブー、バルガン男爵の「秘蔵の宝石」だったのだ。


ガエルはテーブルの上で、呑気に髭を繕っているねずみを見下ろした。 この小さな相棒の隠密性はなぜか並外れている。 灰色のアウターは石畳や壁と同化し、足音一つ立てずに影から影へと移動する。 街の誰も、このねずみが宝石を運んでいることに気づいていない。 ガエル自身、あの時酒場の喧騒の中でふと視線を走らせ、その「違和感」を動体視力で捉えなければ、決して気づくことはなかっただろう。 何という奇跡的な確率か。 あるいは、これは運命というやつなのか。


「お前、とんでもない主人の使いだったんだな」


ガエルは苦笑し、ねずみの頭を指先で突いた。 常識ある人間なら、ここで逃げる。 関わり合いになる前に、全てを忘れて立ち去るのが賢明だ。 相手は貴族。それも異常な執着を持つと噂される男爵だ。バレれば極刑は免れない。 だが、ガエルの胸ポケットには、彼女が託したルビーと、あの青いガラス片が入っている。 そして何より、あの整った文字から滲み出る「生きたい」という切実な響きが、彼の冒険者崩れの魂を揺さぶっていた。


ガエルは懐から紙とペンを取り出した。 膝を折って石に紙を乗せ、月明かりの下で筆を走らせる。 逃げないという意志表示。 そして、彼女が一番知りたがっている「真実」を伝えるために。


その頃、塔の中ではエリストールが不安な夜を過ごしていた。 名前を明かしてしまったことへの後悔と、拒絶されることへの恐怖。 かつて、ドアの向こうでメイドたちが囁き合っていた声を思い出す。 『あの方を見た? 生きているのか死んでいるのか分からないわ』 『塔の幽霊姫様よ。関わると呪われるって噂だわ』 父は私を「宝石」と呼ぶけれど、外の人々にとって私は「幽霊」であり「化け物」なのだ。 もしガエルもその噂を信じて、私を拒絶したら? 悪い想像ばかりが膨らみ、彼女は部屋の中をあてもなく歩き回っていた。


すると、廊下から重い足音が近づいてくるのが聞こえた。 男爵だ。 エリストールは緊張に身を固め、呼吸を整える。 扉の鍵が開けられ、男爵が入ってきた。 彼の手には、革装丁の分厚い本が数冊抱えられていた。 酒の匂いがする。父は上機嫌とも不機嫌ともつかない、独特の熱っぽい瞳でエリストールを見た。


「エリス、起きているね。お前に新しい本を持ってきたよ」


男爵はテーブルの上に、ドサリと本を置いた。 それは遠い異国の詩集や、古代の哲学書のようだった。 彼は満足げにその背表紙を撫でる。


「どれも貴重な初版本だ。装丁の革も最高級のものを使っている。お前のその美しい部屋を飾るのに相応しい」


「……ありがとうございます、お父様」


エリストールは礼を言いながら、静かに本を見つめた。 父はこうして定期的に書物を与えてくれる。 だが、父は中身など読んでいない。 彼にとって本とは、娘の部屋を彩るインテリアか、高価なコレクションの一部でしかないのだ。 だからこそ、エリストールはそこから父の意図しない知識——戦略論や帝王学、人間の醜悪な歴史までもを、誰にも知られずに吸収することができた。 皮肉なことに、父の金に糸目をつけない収集癖が、籠の中の娘を稀代の賢者へと育て上げていたのだ。


「そういえば、街で実に滑稽な噂を耳にしてね」


父はワインの酔いも手伝ってか、愉快そうに笑い出した。


「なんでも、ネズミが宝石を運んでいるというんだ。下民どもは貧しさのあまり頭がおかしくなって、そんな幻覚を見ているらしい。傑作だろう?」


父は大袈裟に肩をすくめて笑っている。 エリストールの心臓が一瞬止まりかけ、そして安堵のため息と共に再び動き出した。 バレていない。 父にとって「賢いねずみ」など、お伽噺の中だけの存在であり、現実にはあり得ないことなのだ。


「……ふふ、まあ。ねずみが宝石を? 本当に馬鹿げたお話ですこと」


エリストールは表情を引きつらせることなく、自然に微笑んで同調した。 父は娘の反応に満足したようで、さらに機嫌を良くする。


「ああ、全くだ。だが、そんな愚かな妄想が蔓延るような街だ。空気さえも汚れているに違いない」


父はふと真顔になり、窓の方を見た。


「やはり、近いうちに窓に分厚いガラスを嵌め込むべきだな。あんな薄汚い連中の吐く息や、下らない噂話が、風に乗ってお前の耳に届くことさえ私は我慢ならない」


ガラスを嵌める。 父にとってはただの潔癖な愛情表現。 だがそれは、エリストールと外の世界を繋ぐ唯一の扉が、物理的に閉ざされることを意味していた。 隙間が塞がれれば、ねずみはもう入ってこられない。 エリストールは恐怖で震える指をドレスの陰で握りしめた。 父は満足げに頷くと、最後にエリストールの額に口づけをして部屋を出ていった。


重い施錠音が響く。 エリストールはその場に崩れ落ちた。 ねずみの件は笑い飛ばされた。だが、その結果としての「ガラス設置」という危機は変わらない。 猶予はない。 いつ父の気が変わり、この窓が完全に封鎖されるか分からない。


絶望が涙となって溢れ出そうになった時、カリリ、という音が響いた。 彼女は弾かれたように顔を上げる。 暖炉の脇。 いつもの隙間から、ねずみが顔を出している。 彼は無事だった。そして、背中には膨らんだ鞄があった。


「……!」


エリストールは這うようにして近づき、ねずみを両手で掬い上げた。 急いで鞄の中身を取り出す。 いつもの安っぽい紙切れ。 そこに書かれていたのは、これまでで一番長く、そして力強い言葉だった。


『エリストール。あんたの噂は知っている。塔の幽霊姫だろ?』 『俺はガエル。この街で一番腕のいい便利屋だ』 『あんたが化け物だろうが幽霊だろうが関係ない。俺の客は、綺麗な宝石と、もっと綺麗な魂を持った人間だけだ』 『契約成立だ、お嬢様。これからは俺があんたの目になり、耳になってやる』


涙が、羊皮紙の上に落ちてシミを作った。 彼は逃げなかった。 以前、メイドたちが陰口を叩いていたあの「幽霊姫」という不名誉な呼び名を知ってもなお、私を「人間」として扱ってくれた。 そして、紙の裏にはもう一言、追伸が書かれていた。


『追伸。俺の相棒(ねずみ)は優秀な忍びだ。誰にも見つからず、どんな壁も超えていく。だから安心しろ、俺たちの回線は誰にも切らせやしない』


エリストールは手紙を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。 父がくれた高価な本よりも、この薄汚れた紙切れの方が、今の彼女にとっては遥かに尊い「真実の書」だった。 窓の外には、分厚いガラスなどまだ嵌められていない。 夜風が吹き込み、彼女の銀髪を優しく揺らす。 危機は迫っている。父の狂気は日に日に増している。 けれど、もう一人ではない。 鉄格子の外には、自分のために動いてくれる男と、小さな騎士がいる。 エリストールは涙を拭い、ペンを手に取った。 これからの戦いは、本の中で学ぶものではない。 彼らと共に、自由への糸を手繰り寄せる、彼女自身の物語だ。 月明かりの下、令嬢と便利屋の秘密の契約が、静かに、しかし強固に結ばれた夜だった。

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