第8話 古地図の記憶と消えた積み荷

特注のベルベットカーテンが閉ざされた部屋は、昼間でも薄闇に包まれている。 だが、ランプの灯火に照らされたエリストールの瞳は、かつてないほど鮮やかに輝いていた。 彼女のテーブルには、二つの「世界」が広げられている。 一つは、ガエルが送ってくれた、油と土の匂いがする現在の手描き地図。 もう一つは、父がインテリアとして置いていった、百年前に編纂された古い都市計画書だ。 エリストールは二つの地図を見比べ、細い指で道をなぞる。


「……ここが変わっているわ。昔は広場だった場所に、今は商館が建っている」


彼女は、まるで時空を超える旅人のように、街の変遷を読み解いていた。 ガエルの地図は「今の現実」を教えてくれる。 古い書物は「街の骨格」を教えてくれる。 この二つが重なる時、塔の上にいる彼女にしか見えない「死角」が浮かび上がるのだ。


その日の午後、ねずみが運んできた手紙は、まさにその死角に関する相談だった。 いつもの安っぽい紙には、ガエルの苛立ちが筆圧となって刻まれている。


『参ったぜ、名探偵。今度は「透明人間」のお出ましだ』


事件は、城下町の商業区で起きていた。 最近、前線へ送るための武器や食料が、倉庫から神隠しのように消えるというのだ。 被害総額は金貨数十枚。 衛兵隊も血眼になって警戒しているが、犯人の尻尾さえ掴めない。 ガエルが依頼されたのは、ある武器屋からの調査依頼だった。


『昨夜、俺は倉庫を見張っていた。犯人は黒いマントの男だ。積み荷を背負って逃げたから、すぐに追った』 『奴は「西の三番通り」の突き当たり、袋小路へ逃げ込んだ。一本道だ。見失うはずがない』 『だが、俺が角を曲がった時、そこには誰もいなかった。壁を乗り越えた形跡もねえ。奴は文字通り、煙のように消えちまった』


現場は完全な密室ならぬ、逃げ場のない袋小路。 魔法が存在しないこの世界において、人間が消えることなどあり得ない。 ガエルはお手上げ状態だと書いていた。


エリストールは思考の海に沈む。 彼女はガエルの地図で「西の三番通り」を探した。 そこは、今は酒場や安宿が密集する猥雑な区画だ。 突き当たりは、古い石造りの壁で塞がれていることになっている。 次に、彼女は百年前の都市計画書を開いた。 ページを繰り、同じ場所を探す。 当時の地図には、そこには道などなく、代わりに青い線が引かれていた。


「……水路?」


かつてこの街には、地下から水を汲み上げるための水路が張り巡らされていた。 しかし、街の発展と共に多くが埋め立てられ、その上に建物が建てられたのだ。 エリストールは二つの地図を重ね合わせ、光にかざす。 ガエルが「袋小路」と呼んだ場所の真下には、かつて主要な排水路の合流点があった。 もし、その地下空洞が完全に埋め立てられずに残っていたとしたら? そして、その入り口が「壁」ではなく「地面」にあったとしたら?


彼女は確信と共にペンを走らせた。


『ガエル、犯人は空へ消えたのではありません。地に潜ったのです』 『その袋小路の突き当たり、マンホールのような鉄蓋か、あるいは不自然に動かせる石畳はありませんか?』 『古い記録によると、そこは旧排水路の合流地点です。おそらく地下に空洞が残っており、別の場所へ繋がっているはずです』


数刻後。 赤竜の爪痕亭で待機していたガエルは、戻ってきたねずみからの手紙を読み、膝を打った。


「地下か……! その発想はなかったぜ」


この街で生まれ育ったガエルにとって、今の街並みが「当たり前」すぎて、その下に眠る過去の姿になど思い至らなかったのだ。 彼はすぐに現場へと急行した。 夕闇に紛れ、問題の袋小路へ入る。 突き当たりの壁ばかりを見ていたが、エリストールの助言通り、足元を注意深く観察する。 すると、泥とゴミに埋もれて見えにくくなっていたが、確かに人が一人通れるほどの四角い石蓋があった。 バールの先を差し込み、力を込める。 ズズズ、と重い音を立てて蓋が動いた。 中からは、腐った水とカビの匂い、そして微かに新しい「油」の匂いが漂ってきた。 盗まれた武器の手入れに使われる油の匂いだ。 当たりだ。


ガエルは音もなく地下へと降りた。 暗闇の中、迷路のような旧水路を進むと、奥まった空間に明かりが見えた。 そこには、盗まれた剣や盾、干し肉の樽が山積みにされていた。 そして、その横で数人の男たちが車座になり、盗品を検分していた。 彼らの装備は、この国の正規軍のものではない。 西の敵国の紋章が入った軽鎧を着込んでいる。


「……なるほどな。ただの泥棒じゃなく、敵の工作部隊ってわけか」


ガエルは短剣を抜き放つと、ニヤリと笑った。 単なるコソ泥退治のつもりが、国を守る大仕事になっちまった。 だが、相棒(エリストール)が完璧なお膳立てをしてくれたのだ。 ここで退くわけにはいかない。


「おい、そこのネズミども。ここは俺の街だ。勝手な穴掘りは許可しちゃいねえぞ」


翌朝。 塔の最上階に、ねずみが帰還した。 鞄の中に入っていたのは、ガエルからの勝利の報告だった。


『大正解だ、名探偵。地下にネズミの巣があった』 『犯人は西の国から潜入していた工作員たちだった。補給物資を盗んで、前線を混乱させるのが目的だったらしい』 『衛兵隊に引き渡してやったよ。お陰で俺は「街を救った影の英雄」として、衛兵隊長からたっぷりと報奨金をふんだくってやった』


そして、手紙の最後にはこう付け加えられていた。


『これは今回の特別ボーナスだ。あんたの知恵がなければ、街はもっと酷いことになっていた』


鞄の底から出てきたのは、小さなガラス瓶だった。 中には、琥珀色の液体が入っている。 最高級の蜂蜜だ。 パンに塗るだけでなく、お湯に溶かして飲めば、喉にも心にも優しい甘露。 エリストールは瓶を光にかざし、微笑んだ。 自分が部屋にいながらにして、街を守った。 遠い戦場の兵士たちを救ったかもしれない。 その実感は、どんな宝石よりも彼女の自尊心を満たしてくれた。


「ありがとう、ガエル。……そして、お疲れ様」


エリストールはスプーン一杯の蜂蜜を口に含み、その濃厚な甘さに目を細める。 そして、残りの蜂蜜を小皿に垂らし、功労者であるねずみに差し出した。


「あなたにも特別ボーナスよ。私の小さな英雄さん」


ねずみは嬉しそうに髭を震わせ、夢中で蜂蜜を舐め始めた。 カーテンの隙間から、朝の光が一条だけ差し込んでいる。 その光は、まるで二人の前途を照らす道標のように、埃の舞う部屋を一直線に貫いていた。 世界はまだ、争いと不安に満ちている。 だが、この塔には、世界を見通す目と、世界を駆け回る足がある。 エリストールは確信していた。 自分たちは、もっと多くのことができるはずだと。 静かなる反撃の準備は、着々と整いつつあった。

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