普通の幸せ目指してみた結果www
「ぜえっ……ぜえっ……」
聡志は走り疲れていた。
碌に運動していないツケがここに来た。
ラトとの運動動画でも職人に頼んでおけばよかったな、なんて思った時点で我に返った。
何をやっているんだ俺は。
このままじゃいけない。聡志は奮起した。
そうして、聡志は三十歳を過ぎて初めて「婚活パーティー」という場所に足を踏み入れた。
スーツは安物で、名札には「佐藤 聡志 32歳 会社員(契約社員)」と書かれている。
席について三分もしないうちに、向かいに座った女性が目に入った。
背は低めで、肩までの髪。笑うとえくぼが出来る。声のトーンまでどこか懐かしい。
平たく言ってしまえば、ラトにどこか似ていた。
「……佐藤さん? はじめまして、松永了子です」
了子は三十五歳。バツイチ。六歳の娘がいる、と自己紹介カードに書いてあった。
会話は早かった。了子は遠慮なく質問してきた。
「ギャンブルは?」
「お酒は?」
「借金は?」
「浮気はしたことあります?」
聡志が全部「ない」と答えるたび、了子の目が少しずつ安心に変わっていくのがわかった。
最後に了子は小さく息を吐いて、笑った。
「……よかった」
その一週間後、二人は付き合い始めた。
了子の家に初めて行った日。玄関を開けた瞬間、聡志は凍りついた。
リビングでテレビを見ていた女の子が、ぱっと振り返った。
「……ママ、おかえり」
六歳の少女。名前は理香。顔立ちが、輪郭が、目の形が、笑ったときのえくぼまで。
大好きなラトが、そのまま小さくなったみたいだった。
聡志は言葉を失った。
理香は不思議そうに首を傾げて、聡志を見上げた。
「おじさん、だれ?」
了子が慌ててフォローする。
「ママのお友達だよ。理香、挨拶して」
理香はちょこんとお辞儀して、
「……はじめまして」
その声まで、どこか甘くて、少し低めで。聡志は必死に笑顔を作った。
でも、心臓がうるさくて、耳がキーンと鳴った。
帰り道、了子が申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、急に連れてきて。理香、男の人に慣れてなくて……」
聡志は首を振った。
「いや……すごく、可愛い子だね」
了子はホッとしたように笑った。聡志の言い淀んだ理由に気付くこともなく。
それから週に一度、了子の家に行くようになった。
理香は最初は恥ずかしがっていたけど、すぐに懐いた。
「おじちゃん、この本読んで!」
「おじちゃん、肩車して!」
「おじちゃん、ピーマン食べて~」
毎回、聡志は笑顔で応えた。いや、ピーマンに関しては了子が「駄目」と言ったので応じられなかったが。
平穏な日々。……けれど、心の中では、いつも同じ言葉を繰り返していた。
手を出すな。傷付けたらいけない。泣かせちゃ駄目だ。犯罪だ。理香も了子も聡志を信じてくれてるんだ。
せっかく得られる幸せを自分からぶち壊すつもりか。
理香に触れるたび、手が震えた。
ある日、了子がぽつりと言った。
「……理香、聡志のこと、好きみたい」
聡志は息を呑んだ。了子は暗闇の中で、静かに続けた。
「私も……好きだよ。だから、ちゃんと付き合おう」
「あ……ああ…そうだね…俺も…俺も、好きだよ」
家族としての好意。三人の間にはそれしかない。むしろ、そうでないといけない。
聡志はただ、了子を抱きしめる腕に、力を込めた。
家に入ると、リビングで理香が絵を描いていた。
「見て、おじちゃん!」
差し出された紙には、クレヨンで描かれた三人の家族。
理香と同じ三つ編みおさげの小さな女の子が真ん中に居て、了子に似た女の人、聡志に似た男の人が笑顔で女の子を守るように立っている。
理香はにこっと笑って言った。
「おじちゃんがパパになったらいいのに」
聡志は、膝から力が抜けた。
了子がキッチンから出てきて、その絵を見て、少し困ったように笑った。
そして静かに言った。
「……ゆっくりでいいから、ちゃんと、家族になりたいな」
聡志は泣きそうになった。
これは、救いなのか、罰なのか。もう一度、絶対に叶わない恋が始まってしまった。
でも、今度は逃げられない。逃げたら、二度と「普通の幸せ」に戻れない。
聡志は理香の頭を、優しく撫でた。
「……うん」
小さく頷いた。
◆
理香は小学生になったばかり。
ママが「おじちゃんが来るよ」って言うと、いつもよりちょっとだけいい子になる。
おじちゃんは背が高くて、ちょっと恥ずかしそうに笑う。
理香は最初、知らない人が怖かったけど、おじちゃんは怖くなかった。
少し前、会えなくなった前のパパよりも、理香と普通に遊んでくれる。
「理香ちゃん」って、優しい声で呼んでくれる。
おじちゃんはいつも、理香に本を読んでくれる。
好きな魔法少女の絵を描いてくれる。理香に塗り絵としてその絵をくれる。
おじちゃんが来る日は、ママもなんだか嬉しそうに笑う。
ご飯のとき、理香は真ん中に座る。
おじちゃんは理香の好きなハンバーグのタネをこっそり大きくしてくれて、ママに「ちょっと贔屓しすぎ!」って怒られる。
この間はピーマンを食べてもらおうとしてママに怒られた。
でも、ママも、おじちゃんと一緒だとよく笑ってる。
パパが居なくなってからイライラしてることが多かったから、それが嬉しかった。
夜、お風呂のあとは三人でソファに並ぶ。
理香は真ん中。ママとおじちゃんの腕にふらふらと寄りかかっては離れる。
テレビの音がだんだん遠くなる。
おじちゃんが「ごめん、そろそろ帰るね」とソファを立って、ママの方に理香をもたれかからせる。
ママが「おじちゃんにばいばいとおやすみしなきゃ」って言う。
理香は眠い目をこすりながら、おじちゃんに手を振る。
おじちゃんはちょっと眉毛を下げて、ばいばい、と振り返してくれた。
「理香ちゃん、おやすみ」
その声、すごく好き。
ある日、保育園でお絵かきしたとき、先生が「家族の絵を描いてね」って言った。理香は迷わず三人の絵を描いた。理香、ママ、おじちゃん。
笑顔も、色塗りも、ちゃんと描けた。
先生が「パパ?」って聞いたとき、理香は「ううん、おじちゃん」って答えた。でも、ちょっとだけ「パパだったらいいな」って思った。
だって、おじちゃんは理香がママと喧嘩してる時、理香のことも、ママのことも大事にしてくれて、仲直りさせてくれる。
ピーマンを代わりに食べてはくれないけど、でも、理香がおいしく食べられるように工夫してくれてる。
おじちゃんが作ってくれた塗り絵を塗った絵を見せると、「綺麗な色だね」ってほめてくれる。
読めない本は読んでくれるけど、理香が読めるようになったから聞いてっていうと目を細めて聞いてくれる。そして、間違えても笑ったりしない。にこにこ静かに聞いてくれてる。その後、さりげなく、理香を傷付けないように本当の読み方を教えようとしてくれる。
理香はそのとき思った。
――おじちゃんがずっといてくれたらいいな。
おじちゃんが仲直りさせてくれて、おいしいご飯を作ってくれて、楽しくお絵描きできて、毎日だったらいいな。
間違えても笑わないで、そっと助けてくれたらいいな。
だから、理香は決めた。ママに『おじちゃんがパパだったらいいな』って言う。
優しくて、恥ずかしがり屋で、理香の好きなもの全部覚えててくれる人。
おじちゃんがいつか、本当のパパになったら、理香は世界で一番幸せになるんだ。
だから毎日、おじちゃんが来るのを待ってる。
◆
了子は毎晩、台所で洗い物をしながら、同じことを考える。
――私……これでいいのかな?
聡志は優しい。本当に優しい。ギャンブルも酒も借金もない。浮気の気配すらない。
それだけでも御の字なのに、面倒見が良い。それなのに押しつけがましくない。
外見は地味だし、学歴にも自信がないと言っていて、フリーターです、転職検討していますと消え入りそうな声で言っている様子は正直言ってちょっと不安があったが、それでも、それを補うほどの温かさがあった。
三十五歳バツイチで、六歳の娘を連れた自分に、ここまで真剣に向き合ってくれる男はもう二度と現れないかもしれない。
でも了子は気づいている。聡志が理香を見る目が、時々「普通じゃない」ことを。
最初は「娘を可愛がってくれてる」としか思わなかった。
でも、だんだんと、気付いてしまった。理香を抱っこするとき、頭を撫でるとき、絵本を読んでやるとき。その指先が、ほんの少し震えている。瞳が、どこか遠くを見ているような気がする。
――……誰かを重ねてる…?
了子は元夫の目線を思い出す。あれは「家族」ではなく「所有物」を見る目だった。
目の前の人を見ていないような、目は合っているのに自分を自分として見てくれていないような、そんな目だった。
……聡志の目は違う。違う筈だ。
もっと切なくて、もっと痛そうで、もっと……恋しているような目だ。
怖い。
本当に怖い。
危ない男に娘を会わせてしまったのではないかという危惧が頭を過る。
けれどそれを口や態度には出せない。
了子だって必死なのだ。
前の夫から逃げ出して、ひとりで理香を育てて、もう限界だった。
夜中に泣きながら「誰でもいいから助けて」と祈ったこともある。
そんなときに現れたのが聡志だった。だから、見て見ぬふりをしてしまう。
聡志が理香を「娘」としてではなく「女の子」として見ている瞬間があっても、すぐに目を逸らして、笑顔を作って、「ありがとう」って言ってしまう。
――これって…彼が私を利用してる?……ううん、私も、彼を利用してる…?
了子は鏡の前で自分の顔を見る。目の下のクマ、伸びきった髪、笑うと目立つほうれい線。
三十五歳の自分。時間はもうない。理香が高学年に上がる前に、ちゃんとした家庭を作ってあげたい。
それが母親としての責任だと思っている。だから、聡志くんが理香をどんな目で見ていようと、「致命的な欠点」がなければ、目を瞑りたかった。
――最低だ、私。
了子は独り言ちる。
けれど、理香がテレビを見ながらうとうとし出す時、聡志がその様子を見守っている姿を見ると、了子は胸が締めつけられるほど安心してしまう。
――この人は……理香を傷つけない。
直感でわかった。
了子は決めた。聡志くんの「視線」の理由を、絶対に口にしない。
代わりに、毎晩祈った。
――お願いだから……理香を、ただの「娘」として愛してくれるようになって。
でも、もしそれが無理なら、せめて取り返しがつかなくなる前に、また別れよう。
了子は洗い物を終えると、そっとリビングを覗く。ソファで、聡志がおねむの理香に寄りかかられて、目を閉じている。
理香は安心しきった顔で、聡志の肩に頬を寄せている。聡志はきっと狸寝入りだ。
了子は静かに毛布をかけて、二人を見ながら、小さく呟いた。
「……ごめんね、理香」
「ごめんね、聡志くん」
了子は理香を抱えて布団の上に寝かせる。
電気を消し、狸寝入りの聡志を起こす。
明日も、きっと同じように笑って、「いらっしゃい」って言わなきゃいけない。
それが、今の了子にできる、「母親らしいこと」の一つだから。
◆
理香が中二の春だった。夕飯の後片付けをしながら、理香が急に言った。
「お父さん……ちょっと話、いい?」
「お父さん」と呼ばれるようになって、もう五年になる。
聡志は立派な主夫になっていた。子育てと家事をしながら、バリキャリの了子をきちんと支えている。
聡志は手を止めて、振り返った。理香は制服のまま、頬を赤くして立っていた。
「私……好きな人できた」
その瞬間、聡志の胸の奥で何かが、ぱきん、と音を立てて割れた。でも、顔には出さなかった。
「……へえ」
平静を装って、皿を拭きながら、声だけは優しくした。
「どんな子?」
「同じクラスの……高橋正義くんっていう子。剣道部で、背が高くて……優しいの」
理香は照れながらも、目をキラキラさせている。
その横顔は、もう完全に「女の子」だった。
高校の時のラトを思い出す。
聡志は息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……そっか。よかったな」
理香は少し不安そうに聡志を見上げた。
「怒って……ない?」
聡志は笑った。本当は喉が痛くて、目頭が熱かったけど、笑った。
「なんで怒るんだよ。理香が幸せなら、それでいい」
理香はホッとしたように笑って、聡志に抱きついてきた。
「ありがとう、お父さん!」
その夜、了子が寝室で言った。
「……大丈夫だった?」
聡志は天井を見つめたまま、ぽつりと答えた。
「……ああ」
了子は黙って聡志の手を握った。
二人の間で眠る、息子の唯人はもう三歳。
聡志と了子の間にできた、可愛い子。笑う顔は聡志によく似ていると言われる。
唯人はまだ「ぱぱ、ぱぱ」と甘えてくる。聡志は唯人を抱き上げるとき、確かに「自分の子だ」と胸が温かくなる。でも、理香が「好きな人できた」と言った瞬間、聡志の中で、永遠に凍りついていた何かが、溶け落ちたような気がした。
――もう、理香は…誰かのものになるんだ。
そう思うと、同時に、すごく安心した。理香はちゃんと、自分の人生を歩き始めている。
トイレに行こうと布団を出ると、リビングには、制服の上にカーディガンを羽織って、スマホを持ってソファで寝ている理香が居た。
画面には『高橋くん』と名前が表示されたまま。聡志はそっと理香の体勢を横向きに変え、毛布をかけてやった。
手の力が抜けてスマホがずり落ちてきたので慌ててキャッチして、充電してあげた。
一呼吸つけるようになり、はじめて、聡志は自分の胸を押さえた。
ー痛い。でも、これは「父親」としての痛みだ。もう、昔の、あの歪んだ痛みじゃない。そのはずだ。
朝早く、理香が「おはよう」と言いながら、唯人の頭を撫でて登校していく。朝練の為に作ってもらったスタミナおにぎりを鞄に放り込んで。
聡志は唯人を抱っこしながら、玄関で見送る。
「いってらっしゃい」
理香が振り返って、にこっと笑った。
「いってきまーす!」
「……ああ」
その笑顔は、もう完全に理香自身のものだった。
ラトじゃない。理香だ。
聡志は唯人の小さな手を握りながら、静かに呟いた。
「……俺、ちゃんと父親できてるかな」
唯人が「ぱぱ!」と笑う。
了子が後ろから抱きついてきて、小さく囁いた。
「できてるよ。大丈夫」
聡志は目を閉じた。
もうあの画面の中のラトはいない。でも、ここにいる。本当の家族が。
理香が誰かを好きになっても、唯人が大きくなっても、了子が隣で何かを見過ごそうとしても、聡志はもう道を外れない。
歪んだ恋はもう終わりだ。
今はただ、父親として、夫としてここにいる。
聡志は唯人を高く抱き上げて笑った。
「唯人、今日は何がしたい?」
「えとね、えとねぇ!」
唯人がキャッキャと笑う。その笑い声が、聡志の胸の奥の最後の氷を完全に溶かした。
◆
それは、理香が高校二年の冬だった。
聡志はドラッグストアで買い物をした帰りだった。
ぴろん、と高い音が鳴った。スマホには通知が一つ。知らないアカウントからのDM。
――DeExMa_X。
『久しぶり。大きくなりましたね、理香ちゃん』
一瞬で、全身の血が凍った。十年以上前に消したはずのアカウント。
あのとき、すべての動画を消して、ブロックして、二度と開かないと誓ったはずの悪夢。なのに、最新の理香の写真が添付されていた。
文化祭のステージで、笑顔でギターを弾いている理香。
聡志は知らない。こんな写真、撮った覚えがない。
『待て、何で理香の事を知ってる!?』
『聡志さんのリアアカ。了子さんのリアアカ。ママ友の繋がり。校内イベントのお知らせ。バイト先の店内画像。SNSって便利ですよね』
震える聡志に、DeExMa_Xは追い打ちをかける。
『結婚バージョンを今なら特別価格で売ってあげますよ。理香ちゃんが花嫁姿で寄り添ってくれるよ、見て見たくないですか?』
聡志はスマホを握りしめたまま、路地裏の壁に背中をつけた。頭の中で、映像が勝手に再生される。白いドレスを着た理香が、バージンロードを歩いてくる。
自分は理香を導く立場だ。バージンロードを一緒に歩いて、高橋正義に『娘をよろしくお願いします』と言う立場。
その姿を想像しようとした。けれど、想像力は聡志を裏切った。
祭壇の目の前で待っている自分の所に歩いてきてくれる理香を、想像してしまった。
「理香……綺麗だよ」
「ありがとう……あなた」
違う。
違う違う違う違う。
聡志はスマホを地面に叩きつけそうになって、必死で止めた。
がたがたと手が震えて、返信画面が開かれる。
『やめてください』
DeExMa_Xは容赦なく言葉を重ねる。
『え~? 昔はあんなに頼んでたくせに。今なら声も完璧に再現できますよ。誓いの言葉を言わせることだってできる』
聡志は蹲った。吐き気がする。
『やめてください……お願いします……』
DeExMa_Xは続ける。
『5万でいいよ。分割でもOK』
聡志はスマホを握りしめたまま、相手の返信を上に流すように、ひたすら音声入力し続けた。
『やめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてくださいやめてください・・・・・・・・・・・・』
気付けば相手の反応はなくなっていた。諦めてくれたのだろうか?分からない。
聡志は、ふらふらとコンビニに吸い寄せられ、好物の甘いものを買った。
脳に糖分が必要だ。腐ったように甘いこの妄想を消してくれる甘さが必要だった。
コンビニの蛍光灯の下、聡志はカゴに詰めていく。
生クリームたっぷりのシュークリームを3個。チョコレートパイを2個。プリンアラモードを1個、板チョコを2枚。アイスの新商品を5個、チョコたっぷりのドーナツを2個、ゼリーを4個。
レジで店員が四苦八苦して袋にまとめてくれた。
家に帰ると、家族はもう寝ていた。
聡志は電気をつけず、リビングのソファに座り袋を開ける。
最初にシュークリームを口に放り込んだ。甘い。生クリームが舌の上でとろける。二個目、アイスを食べながら、スマホを見た。
DeExMa_Xからの新着は今のところない。
もう来ないのか。
それとも、今の聡志の馬鹿食いでさえ、どこかから監視しているのだろうか。
こんなことを続けていたら、絶対に体形も健康も壊す。
シャツのボタンがきつい。でも止まらない。
プリンアラモードを口に運びながら、聡志は思う。
――俺は強い。
俺はちゃんとした父親だ。
俺は負けない。
でも涙が止まらない。チョコレートパイを両手で掴んで、かじりつく。
甘い。苦い。酸っぱい。しょっぱい。
全部混ざって、喉の奥に落ちていく。
アイスをスプーンで掻き出しながら、聡志はぼんやりと思う。
――酒はダメだ。酔ったら理性が飛ぶ。
煙草はダメだ。家族が嫌がる。
普通のAVなんて、もう意味がない。
俺が見たいものは……見ちゃ駄目だ
だから、甘いものだけ。これだけは、誰にも咎められない。
太ったって、糖尿病になったって、「甘党なんだね」で済む。
あと一個だけ、あと一個だけ、そう言い訳しながら、結局聡志は最後のドーナツを口に詰め込み、袋をごそごそと畳んで、ゴミ箱に押し込んだ。
そして、ソファに横になって、腹をさすった。ぱんぱんに張り詰めた腹。
それに比べて、まだ胸の奥の穴は埋まらない。
スマホを手に取り、また画面を見る。通知はない。聡志は目を閉じた。
――俺は強い。俺はちゃんとした父親だ。俺は負けない。
そう自分に言い聞かせながら、洗面所に行き、歯ブラシを手に取った。
歯磨きをしながら、鏡の中の自分を睨みつける。
そこには優しい父親なんて居なかった。ただ、自分の衝動を抑えきれず苛立つ獣がそこに居た。
明日の朝、また家族のために弁当を作る。
理香の好きな卵焼きをちょっと甘めに。
唯人のキャラ弁を頑張って作る。
了子の分にも、健康で長生きできるように愛を込めて。
聡志は立ち上がった。
晩御飯の支度をしないといけない。
主夫としての義務と甘いもので、今日も生き延びる。それが聡志に今許された、たった一つの道だった。
◆
一枚の葉書が、自己嫌悪に飽いた聡志の心を揺さぶった。
その同窓会は公民館のホールで開かれた。三十人ちょっとの顔ぶれ。
ほとんどの人はもう別人のように変わっていたが、ラトだけは、遠くから見てもすぐにわかった。ショートカットにゆるめのパーマをかけていて、それが凄く似合っていた。
ビジューのついたシックなワンピースにジャケットを羽織って、左手の薬指にシンプルなリング。爪はつやっとした桜色。
隣には、頼もしそうだけど穏やかそうな旦那。隣にちょこんと立っているのは四歳くらいの女の子で、目元がラトにそっくりだった。
「佐藤くん、久しぶり!」
ラトは笑顔で手を振った。その笑顔に、昔の面影はほとんど残っていなかった。
ただの幸せそうな大人の女性の笑顔だった。
「元気だった?」
「うん、まあ……なんとか。らと…小虎さんも、幸せそうだね」
「うん!毎日大変だけど、めっちゃ幸せ!佐藤くんはどうしてる?」
「えっとね……結婚して、娘と息子が一人ずつ居るよ。」
「そうなんだ!佐藤君優しいから、お子さんも優しく育ってるだろうなぁ」
ラトは本当に、心から祝うように言った。
聡志のことは、ただの「高校のときのクラスメイト」としてしか記憶していない。
それが、はっきりわかった。
挨拶して、写真撮って、軽く昔話して、ラトはまた旦那と娘のところへ戻っていった。
聡志はジュースの入ったグラスを握りしめたまま、胸の奥が、ふっと軽くなるのを感じた。
――ああ……もう、終わったんだ。
あのときの歪んだ恋はとうに終わっていた。
ラトはちゃんと、自分の人生を生きている。
聡志の知らない場所で、聡志の知らない誰かを愛して、聡志の知らない子供を育てている。
悔しさも悲しみも怒りも聡志の心にはわいてこなかった。
ただ少しだけ、置いていかれたような寂しさだけがあった。
聡志はグラスを置いて、静かに席を立った。
帰り道、夜風が気持ちよかった。
家に帰ると、了子が寝巻き姿で迎えてくれた。
「どうだった?」
「……うん。楽しかった」
聡志は了子を抱きしめた。その夜、聡志は久しぶりに深く眠った。
そして、夢を見た。白いワンピースの理香が、「大好き……」と甘く囁いて、聡志に近付いてきて、瞬間聡志は飛び起きた。
全身冷や汗まみれ。
時計は午前3時42分。
隣で了子が小さく寝息を立てている。
聡志は震える手で顔を覆った。
「……俺は父親だ」
声に出して、自分に言い聞かせた。
「俺は、理香の父親だ」
胸が痛い。
吐きそうになる。でも、同時に、確かにわかった。あの同窓会で見たラトの笑顔が、最後の鍵だった。もう、過去のラトは完全に死んだ。代わりに、今いるのは、理香、了子、唯人、そして、自分の家族だけだ。聡志はそっとベッドを降りて、本棚からアルバムを取り出し、見返した。
思い出を見返しながら、自分の胸を叩いた。痛い。
行っちゃ駄目だ。あっち側には。
聡志はリビングに戻り、冷蔵庫を開けた。甘いもののストックは切れていた。
代わりに氷を口に放り込んで、噛み砕く。深呼吸。
朝が来るまでソファで目を閉じていた。
夢を見ない眠り方が知りたかった。
見てもすぐに忘れることを祈った。
聡志は『父親』だ。
それだけを胸に刻みながら、結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。
◆
そんなある日、とある掲示板のスレタイが聡志の目を引いた。
『【連れ子2人・実子】の父親だけど質問ある?なくてもノロケる。連れ子居るお父さんお母さんも書き込み大歓迎!』
深夜、聡志は布団の中でスマホの明かりだけを頼りに、スクロールし続けた。
>>1は、途中から「モクズ」というハンドルネームを名乗っていた。藻屑。随分と自虐的な名前だが、名前に反して、モズクはいつも明るく前向きだった。
『妻ちゃんは今日も可愛い
優しくて頑張り屋で幸せにしたい』
『長男(成人・連れ子)はもう独立してるけど、週末は必ず帰ってくる
俺とはよく口喧嘩になるけど、少しずつ父親として認めてくれてる気がする((((oノ´3`)ノ』
『長女(小学生・連れ子、戸籍上は俺の子ということになっている)は朝から
「パパ、髪結んで!」って頼ってきてくれるヾ(≧▽≦)ノ』
『次女(小学生・実子)は
「お父さん、だらしないよ!もうちょっとかっこよくして!」
って元気に言ってくるヽ(^o^)丿』
『うちの犬は賢くて、特に妻ちゃんと長男のことが大好き
めっちゃでっかい。俺戦ったら絶対に負ける(`・ω・´)』
『正直、血が繋がってなくても関係ないって本気で思う
俺が「父親」であることには変わりないから
妻ちゃんも俺がふざけて抱き着くたびに、幸せそうに笑ってくれてる
俺の好物をよく作ってくれたり、俺が言った些細な言葉も覚えててくれたり
もう、幸せすぎて泣きそう( ;∀;)』
モクズ>
『そういえば長女が昨日、「クラスに好きな男の子できた」って言ってきた
まだ小学四年生なのに……!ちょっと泣いた( ノД`)シクシク…
でも「どんな子?」って聞いて、一緒に話聞いてやった
明るくて元気な転校生らしい。授業参観の時にガン見しようと思う(<●><●>)』
モクズ>
『みんなが言うほど連れ子と実子の「区別」なんてできないよ
俺にとっては三人とも「俺の子」。ただただ、大事にしたいだけ
まぁ長男くんには素っ気なく接されてるけどね(´;ω;`)ウッ…』
聡志は、何度も何度もその書き込みを読み返した。胸が熱くなった。
――こんなふうに……なりたい。
モクズという男は、聡志が想像する「理想の父親」のすべてだった。血の繋がりがなくても、
過去の裏切りがあっても、
それでも家族を愛して、笑って、前に進んでいる。聡志は震える指で、初めてリプライを送った。
通りすがりの名無しさん
314>
『モクズさんの書き込み、いつも読んでます。
自分も連れ子の娘(高2)と実子の息子(小3)が居ます。
モズクさんにすごく憧れます。
モクズさんみたいに、ちゃんとした、二人の父親になりたいです。』
返信はすぐに来た。
モクズ>
『>>314さん、ありがとう!
でも俺なんか全然ヘタレだよ~( ;∀;)
この前も次女が男の子連れてきて「友達です!」って言われた瞬間
頭真っ白になって「お茶……何が好き?」しか言えなかった(´・ω・`)
でもさ、完璧じゃなくていいんだよな
ただそばにいて「お前は俺の大事な娘だ」って 態度で示し続けてれば絶対伝わるから
>>314さんも大丈夫だって(∩´∀`)∩
頑張ろうぜ、父親!』
聡志は布団の中で泣いた。
了子が寝返りを打って、聡志の背中に腕を回してきた。
「……どうしたの?」
「なんでも……ない」
聡志は了子の手を握り返した。翌日から、聡志は少し変わった。理香と一緒に家を出る時、目を背けず、「一緒に駅まで走ろうぜ」と笑って誘うようになった。唯人が「お父さん大好き!」って言ってくれたとき、以前なら照れくさくてごまかしていたのに、
今はちゃんと抱きしめて「俺も大好きだよ」って言えるようになった。掲示板には、毎晩のように書き込むようになった。
314>
『今日、娘(高2)が「文化祭来て」って言ってくれた。
行ったら、クラスの出し物でギター弾いてて、すごくかっこよかった。
連れ子とかそういうのより、家族として応援したいなって思った』
モクズ>
『>>314さん、それだよそれ!それが父親ってやつだよ!
俺も負けないように頑張るわ~(゚∀゚)』
聡志はスマホを胸に抱えて、静かに呟いた。「俺は……父親だ」もう、過去の亡霊には振り向かない。今、ここにいる家族だけをただ、大事にしたい。
モクズという、見知らぬ男が教えてくれた。血なんて関係ない。
大事なのは、毎日「俺の娘だ」って言い続けることだけ。聡志はそっと理香の部屋を覗いた。寝顔の理香は、もう完全に「聡志の娘」だった。
聡志は小さく笑って、「おやすみ、理香」と心の中で呟いた。明日も、ちゃんと父親でいよう。そう誓って聡志は眠りについた。
◆
モクズはよく他の連れ子との関係に悩む人の相談に乗っていて、ある時twitterのアカウントを取得し、相談箱を開設し、掲示板にリンクを貼った。
チャンスだ、と思った。
意を決して話しかけた。
『……モクズさん、起きてますか?すみません、急に。俺、スレ3でご挨拶させていただいた314です。ちょっと相談したいことがあって……でも、もう誰にも言えなくて。』
モクズ>
『おう、起きてる起きてる!どうした? なんかあったか~?(∩´∀`)∩』
サトシ>
『俺……ダメな人間なんです。中学のときの同級生の女の子がいて、その子が、今でも頭から離れないんです。
もう何十年も経つのに、名前呼ぶだけで胸が痛くなるくらい好きで、それだけならまだ良かったんですけど、連れ子の娘があの子と似てて、重ねてしまって。
その度に罪悪感で死にそうになるんです』
モクズ>
『……うわ、重いな…正直、俺にはその気持ちはわからん…
俺は妻ちゃんに出会ったとき、もう過去の女なんて全部どうでもよくなったからなぁ( *´艸`)』
サトシ>
『ですよね…俺、頭おかしいですよね…
理香はただの娘なのに、ふとした時にあの子の面影を重ねてしまって、すぐに離れて、自分を抓って、殴って、「俺は父親だ」って何百回も言い聞かせてるのに、それでも、次の日また同じこと繰り返してる。駄目過ぎる』
モクズ>
『……正直、俺には想像もつかねえよ。でもさ、ひとつだけ言えるのは…お前が今、それを苦しんでるってことは、まだ「おかしい」って自分でわかってるってことだろ?
完全に壊れてたら、悩みもしねぇし、苦しくなんかないと思う( ゚Д゚)ゴルァ!!』
サトシ>
『そうなんです、苦しいんです。毎晩、夢の中でラトが出てきて
「聡志くん、置いてかないで」って泣かれて、目が覚めると、隣に義娘が居る生活に戻る。
俺は父親なのにこの子を汚い目で見てるって思うと、吐きそうになるんです。
モクズ>
『お前は今ちゃんと戦ってるじゃん!逃げてない(; ・`д・´)
それ、すげえことだと思うよ。
俺は妻ちゃんの過去を知ったとき「全部受け止める」って決めただけだからさ。
お前みたいに、自分の中の鬼と毎日殴り続けてるわけじゃない:;(∩´﹏`∩);:』
サトシ>
『でも……いつか壊れてしまいそうで…このままじゃ、義娘を傷つけるんじゃないかって』
モクズ>
『だったら、壊れる前に逃げ道作れよ!カウンセリング行け(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
俺も昔、掲示板で「妻ちゃんの過去が重すぎて潰れそう」って泣き言書いてたらさ、他の住人に「専門家に話せバカ」って怒られたんだ。
行ったら、だいぶ楽になったよ。お前も誰かに全部吐き出せ!俺じゃ力不足でも、プロなら違うだろ(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾』
サトシ>
『……行ってみます。モクズさんみたいな、ちゃんとした父親にはなれないかもしれないけど…せめて、義娘にとって「まともな父親」でいたい』
モクズ>
『お前はもうまともな父親だよ!だって、こんなに苦しんでるんだからさ!
俺なんか、妻ちゃんや子供に「パパ」って呼ばれただけで舞い上がってるだけのヘタレだぜ_( _´ω`)_ペショ お前はもっとちゃんとしてるよ( ´∀`)bグッ!』
サトシ>
『……ありがとうございます。ちょっとだけ、生きててよかったって思えました』
モクズは、偉い!という顔文字を送った後、少し時間をかけて返信した。
『よしよし( ´∀`)bグッ!明日も家族のために生きて、娘さんの頭撫でて、奥さんに「今日も可愛いな」って笑え。それで十分だ。お前は、もう十分やってる( ^^) _旦~~』
聡志は震える指で返信する。ぽたぽたと垂れる涙は、画面の向こうのモクズには届かない。
『……はい。モクズさん、本当にありがとうございました。おやすみなさい』
『おう、おやすみ!明日も頑張ろうぜ、親父の絆、ファイヤー!なーんてな٩( ''ω'' )و』
モクズはスマホを置いて、暗闇の中でため息をついた。
モクズには聡志の悩みは分からなかった。でも、大丈夫だと思った。
だって、ちゃんと苦しんでるのだから。
隣で寝息を立てる妻の手をそっと握りしめて、モクズは小さく呟いた。
「……俺も、もっとちゃんとしなきゃな」
◆
【モクズの独り言 深夜】
チャットは沈黙していた。返事がない。
モクズはまだ眠れなくて、布団の中で妻の手を握ったまま、ぼーっと天井を見ていた。
ずっと苦しみ続けるのは辛いだろう、とモクズは思う。ずっと自分と戦い続けるなんて、きつすぎる。モクズは聡志とは違う。苦しい過去を背負っているのはモクズじゃなくて妻の方だ。そしてモクズは単純だったから、妻の過去を知ったとき、「受け止める」って決めたら、もう苦しまなかった。
妻の過去に何があろうが、「自分が全部抱える」って覚悟したら、そこから先はただ幸せなだけだった。
でも聡志は……「受け止める」じゃなくて、「消さなきゃいけない」って思ってる。
自分の気持ちを、根こそぎ殺そうとしてる。それは……一生終わらない戦いだ。毎日、自分を殴って、毎日、自分を責めて、毎日、自分を許せなくて。
モクズにはできない、そんな生き方。
「……眠れないの…?」
妻がぼんやりと目を開けて、モクズを見ていた。寝ぼけた声。
「……なんでもないよ。大丈夫」
モクズはそっと妻の髪を撫でた。
聡志……お前、ほんとに強いよ、とモクズは思う。
「でも、ずっと戦い続けるのは、やっぱり違うだろ」
モクズはスマホを取り直して、メモ帳アプリを開いた。
『良いカウンセラー 東京 思春期性犯罪被害 加害者心理 ロリコン更生』
検索して、評判の良さそうなところを片っ端からメモしていく。…モクズにできるのは、これくらいだ。妻がまた小さく寝息を立て始めた。モクズはそっと妻の額にキスして、静かに囁いた。
「……聡志、早く楽になれよ。お前が苦しんでる限り、俺もなんか……落ち着かねえんだよ」
明日、聡志に、このリストを送ろうとモクズは決めた。
一緒には戦えないけど、せめて、戦いを終わらせる手助けくらいは、できるはずだから。
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