第3話 毒を吐き、毒を飲む
列車が静かに走り続ける。
ゆあの降りた空席が、車内にぽっかりと残っている。
霧が窓から薄く入り込み、車内をぼんやりと白く染めていた。
佐藤はぼんやりと空席を見つめていた。
遥はひなを抱きしめ、ひなは遥の袖を握ったまま、 小さな声で「チョコ……」と呟いている。
突然、列車がキーッとブレーキをかけた。
扉が開く。
霧の中から、足音が近づいてくる。
黒いコートを羽織った女性が、無言で入ってきた。美咲。32歳。
鋭い目つきで車内を一瞥し、 誰とも目を合わせず、 一番端の空席に腰を下ろす。乱れた長い黒髪。足を組む音だけが、静寂を破る。
誰も挨拶しない。
美咲も、何も言わない。
やつれた、疲れたような表情。
ただ、視線を窓の霧に固定し、指先で膝をトントンと叩いている。
そのリズムが、車内に不気味な緊張を広げる。
佐藤は、なんとなく彼女から目を逸らす。
ひなちゃんは遥の袖を強く握り、 小さく震える。
再び列車が停車した。
扉が開く。
今度は、軽い足音と、明るい声が霧の中から聞こえてくる。
「ん、みんなも死んだ人たち?俺、亮っていうんだけど。飛び降りて死んだらここにいてね。なあ、どうなってんだ?」
亮。37歳。
金髪に肌が色黒。柄シャツにデニムのズボン。
手には沢山のブレスレットがジャラジャラと付いている。
理想の世界へのアナウンスが車内に流れる。
「理想の世界?いけんの?」
亮は笑った。
「ほう、面白いな。さーて何がいいか。」
亮は遥と目が合う。
亮は彼女に近づく。
「もしかして、お嬢さんも死んだのか?若いのに勿体無いなあ。」
遥は苦笑いを返した。
ひなは袖を掴み引っ張って顔を隠した。
「その歳じゃ遊びも知らんだろ。あ、いや麻雀とかカジノの話な。」
遥は警戒するようにひなの頭を抱えた。
亮はそれを見ると次は佐藤に近づく。
「兄ちゃん、そんな顔してどーした。笑おうぜ。亮ってんだ。借金追われて死んだクズだけど、宜しくな。」
「うるせえ!」
皆声の方を見ると、髪の乱れた美咲だった。
亮を睨みつけ、目に皺寄せ怒りで顔がビリビリ痙攣する。
「どーした姉さん。」
「うるせぇってんだ黙れよ。」
美咲は強い口調で言う。
「いやいや、皆んな暗い雰囲気だからさ、ほら、和ませようと………」
「はあ!?」
美咲は亮の言葉に声を荒げる。
「お前、それ思いやりだと思ってんの?お節介だって分かんねえのかよ。しょーもねえ死因の奴ってしょーもねえんだな。」
亮はあ、いや、え、と声に出そうとしたが何も言葉が出なかった。
席に座り、軽く謝罪して縮こまる。
「無理矢理な思いやりなんてゴミなんだよ。ここにいる奴ら全員、しょーもねえ死に方なんだろ。こんな所にくる奴ら。笑えないだろ。」
美咲の言葉に、遥は珍しく目が揺れた。
腕にしがみつく震えたひなの頭を撫でながら、美咲を見る。美咲はそれに気づく。
「なに、制服のくせえガキがなんか用?」
遥は視線を落とす。
美咲は頭を描き再び車窓に目を戻した。
列車は沈黙に戻る。
それを切り開いたのは亮だった。
「なあ、皆んな。悪かったよ。俺の話を聞いてからないか?勝手に喋るけど。」
亮は高校卒業後、職を転々としてきた。
ホスト、施工管理、イベントスタッフ……
貯金を貯めて、30歳になった頃ギャンブルにハマる。
競馬、パチンコパチスロ、遂には裏カジノに通い始める。
女と遊び、借金に追われる日々。
亮は人生は一度っきり、楽しまなきゃ損と考えた。
しかしある日、手を出してはいけない金融から金を借りた。法外な利子が払えず、逃げ出し隠れる日々。
夜。
買い物帰りに突然、銃声が響く。
亮の脇腹から血が流れた。
やつら、こんなとこまで追いかけてくるのか。
近くのビルに逃げ込むも追手が来る。
「待て!」
屋上。これまでかと悟り、亮は11階から飛び降りた。
「薄っ。」
美咲が吐き捨てるように言った。
亮も思わず苦笑いした。
「ああ。語ってみると俺の人生、こうも薄っぺらいんだな。……あんなに楽しかったのにな。好きな事をして、一度の選択ミスでこうもダメになるなんてよ。」
亮の目は遠くを見ていた。
そこにはただ一面の霧しかない。
「でも、女も金も、遊びも。俺全部やってきたけど、あれ、なんなんだろな。人生に息抜きも必要だけど、朝になったら何も残らないようなあの感覚。」
「それがお前のクズな所。そういう男が一番嫌い。ほんと……」
美咲は相変わらず強めに食いつく。
佐藤は亮を静かにみていた。
「ねえ、私も、話していい?」
遥が言った。
亮は座席の上で正座をした。
「実は私も、クズなんだよね。」
遥は引きつった笑顔で言う。
ポニーテールが列車に揺れる。
腕にしがみつくひなの肩に手を添えた。
遥。歳は15歳。
地元の高校に通う、ごく普通の学生、ではなかった。
幼い頃から父からのDV、性暴力。母親はそんな父を恐れて強い睡眠薬を日々服用し、廃人と化していた。
遥のクラスメイトは、彼女のアザに気づいていた。
「転んだんだよね。階段で。」そういうと彼女は左腕のアザを隠した。
そんな対応だからかクラスメイト達はごく普通に振る舞うも、あまり近づかないようにしていた。
最初は気を遣ってくれてると思ったが、関わりたくないって事なの?
孤独感はますます彼女に募る。
いつしか教室に顔を出さなくなった。
平日の昼間は外へ出て、公園で過ごし、寒い日はコンビニのイートスペースで時間を過ごした。
夜、親が寝静まる頃を見計らい家に帰る。
ベッドに入るも、廊下の足音に怯えて眠れない。部屋の扉が開き、罵声を浴びせられ、服を脱がされる。
痛みと恐怖が、体を貫く。
「悪いのは私だから」
何度も繰り返し、自分を責める。
遥には付き合っている彼氏がいた。
名前は翔。一つ上の先輩で、中学生からの付き合い。
優しい彼は遥の悩み、相談を聞いてくれる唯一の存在。
高校は違うが家族には内緒で泊めて匿ってくれる日もあった。
翔の部屋で、布団を別に敷いて、
「ここなら安心して寝られるだろ?」と気遣ってくれる。 手を握って「俺が守るよ」と言ってくれる声に、遥は初めて、温かさを感じた。
でも、遥のストレスは日々積もり、
翔に対しても、支離滅裂に怒りをぶつけるようになった。
翔が「明日学校来れる?」と聞くと、
「来れるわけないでしょ! あんたにはわからないの!?」
返事が少し遅れると、
「どうせ私なんかほっとくんでしょ! みんな同じ!」
翔は最初、優しく受け止めてくれた。
でも、繰り返される怒りに、翔の目が少しずつ冷たくなっていった。
ある夜、翔は静かに言った。
「……もう、無理かも。」
遥はハッと我に返った。
今、自分が父と同じことをしていることに気づいた。 優しい人を、理由もなく傷つける。
怪物になっていた私。
体も心も、全て穢れていた。
遥は翔の部屋を出て、夜の道を歩いた。
冷たい風が、頰を刺す。
足音が、自分の心臓の音と重なる。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
翔の最後の言葉が、繰り返し響く。
「……もう、無理かも。」
家に着いたのは、深夜を過ぎた頃。
玄関の鍵を開けると、静かだった。
母はもう寝ているはず。
父は……。
リビングの明かりがついていた。
遥は息を止めた。
ドアの隙間から、父の背中が見える。
ソファに座り、テレビの音を消したまま、ぼんやりと壁を見つめている。テーブルの上には、空のビール缶がいくつも転がっている。
遥は、そっと靴を脱ごうとした。
でも、足が動かない。
父が、ゆっくり振り返った。
「……遅かったな。」
声は低く、抑揚がない。
遥は体を硬直させた。
父の目が、彼女の顔を、首を、腕を、ゆっくりと這う。
アザを探すような、冷たい視線。
「どこ行ってたんだ。」
遥は唇を噛む。
「…友達の家。」
「嘘つけ!」
父は立ち上がった。
遥の体が、反射的に後ずさる。
父はゆっくり近づき、
テーブルの上の薬瓶を手に取る。
母の睡眠薬。
強いやつ。
「母さん、また飲んで寝ちまったよ。
お前がいないと、怖いんだろうな。」
父は瓶を振る。
カタカタと音がする。
遥は喉が詰まる。
「…ごめんなさい。」
「謝るな。」
父の声が、急に低くなる。
遥は壁に背中を押しつけた。
「ごめんなさいごめんなさい!」
父は瓶をテーブルに置き、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。
「今日は、特別に優しくしてやるよ」
遥は目を閉じた。
体が震える。
父の指が、首筋に触れる。
冷たい。
重い。
「悪いのはお前だろ。」
父の息が、耳にかかる。
遥は、ただ耐える。
痛みも、恐怖も、怒りも、全部飲み込む。
でも、胸の奥で、何かが壊れる音がした。
「悪いのは、私……」
母の薬瓶が、テーブルの上で静かに転がる。
カタン、と小さな音。
遥は、目を開けた。
父の顔が、ぼんやりと見える。
霧の中のように、輪郭が溶けていく。
「…もう、いい。」
遥は、父の手を振り払った。
初めての反抗。
父の目が、驚きに変わる。
遥は、母の寝室へ逃げ込んだ。枕元の棚の上の薬瓶を掴んだ。
蓋を開け、中身を一気に口に放り込む。
扉を背中で押し、大量の薬を飲み込んだ。
扉を叩き父が叫ぶ。
「何やってんだ!」
遥は、笑った。
涙がこぼれる。
「悪いのは、私だよね。
だから、もう、誰も傷つけないから。じゃあね。」
薬の苦味が、喉を焼く。
体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
父の叫び声が、遠くなる。
遥は、口から泡を吹き出し目を閉じた。
最後に思ったのは、
翔の温かい手と、
「ごめんね。」
という言葉だった。
沈黙の中、列車は走り続ける。
ガタイの良い金髪の男は、涙を流した。
「お嬢さん、辛かったろうに。」
「死人の言葉に、同情なんかすんなよ。」
美咲はそう吐き捨てるが、はるかを哀れんだ目で見た。
「あー、俺。本当に薄っぺらいな。」
亮は涙を拭き、いやーっと顔を隠した。
「沢山の大人がいてもなお、こういう子どもに何もしてやれないんだぜ。気づくどころか、見放されてくなんてさ、俺、俺自身何かできたか………」
亮は床へ崩れ込んだ。
赤い目をしたはるかは彼をささえる。
「なんてゆーかさー。」
美咲が言う。
「はるか?だっけ。あんた、そんな自分を責めんなよ。子は親を選べねえっていうだろ。あんたの失敗って言ったら、そうだな。逃げる場所を知らなかった、それだけ。」
遥は「ごめんなさい。」と謝る。
美咲は爪を齧り何か言いたいが抑えているようだ。
「私は人生を諦めた。でも、私、何処かで探していたの。ずっと。温かい自分の居場所を。唯一の逃げ場も自分自身で壊してしまった。被害者面なんかできません。ただ、私は幸せになりたかった……」
遥は声をあげて泣き出した。
ひなは「お姉ちゃん、」と言い、小さな体ではるかに寄り添う。
「ここは慰めの会かよ。くだらねえ。」
美咲の言葉は当たりが強いが、無理矢理出しているように震えていた。
佐藤は静かにその様子を眺めていた。
初めて本音を出した遥。やり場のない怒りや悲しみ、佐藤の心にもひしひしと伝わってくる。
窓の向こうの霧が濃くなり、列車はブレーキをかけ始める。
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