第2話 現れた光

列車の中。

あきとしはぼんやりと記憶が蘇る。


「そうだった、絵を描くんだったね。しかし、描くものが………」


あきとしは筆も紙も持っていない。

辺りを見回すと、車窓に目がいった。

結露で窓の表面に僅かな水分が着いている。

体を捻り、背後の窓に指を当てた。


彼の指が震える。

大きく深呼吸し、そっと窓をなぞり犬を描いた。手には冷たく堅い感触。


仕上がった絵は小さな犬がベロを出し笑ってる。その犬は生き生きとして、今にも飛び出しそうであった。


「ありがとう……」


ひなは小さな声でお礼を言う。

あきとしは笑顔で答える。


「やっぱり、そうか。いや、本当にチョコが好きなんだね。」


あきとしは独り言を訂正する。

あきとしの目が輝き始めたことを、佐藤は静かに見ていた。


列車は霧の中走り続ける。

再び理想の世界へのアナウンスが流れる。


「よし、俺、降りるよ。」


あきとしは呟いた。

皆の視線が集まる中、よっこいしょと立ち上がる。


「おじさんはね、絵を描くことが好きなんだ。ひなちゃんに会うまで、実は忘れようとしていた。公園のベンチにかかる木陰、あれが一番好きでね。私は描き続けようと思う。自分自身の為に。」


永遠に描き続けるアトリエ。

それがあきとしの理想の世界。

評価に囚われることなく、ただ、描き続ける。


列車が停まり、扉が開く。

外は相変わらず霧に包まれた中だが、ぼんやりと光る。


「好きな事を好きなだけ。誰も見てなくていい。大切なのは何に熱中して、囚われず、自分が本当に納得できるか。皆との別れは寂しいが、じじい最後のわがままさ。」


おじさんは手摺を離し、霧の中へと歩いていった。彼の窓の絵は消えていた。だがあきとしの心には、小さな茶色の犬がふわふわしている。


あきとしが降りた後、再び列車が走りだす。


「良い人だったし寂しいけれど、おじさん、理想の世界を見つけられたんだね。ひなちゃんのお陰だって。ありがとね。」


はるかが呟いた。

ひなは袖を掴みくっ付きながら車窓を眺めていた。


佐藤は目の前の空席をじっと見つめていた。

隣に座るゆあは物珍しそうに彼を見た。


「佐藤さん。何かに熱中した経験ってあるの?」


佐藤は車窓に目を移す。


「理想の世界、探しましょう。おじさんみたいに。おじさん、いい事言ってたね。自分自身の為に、て。」


佐藤は彼女を見た。

ゆあはクシャッと笑っていた。色白で細身で、歳が近く親近感からか自然と彼女の話に耳を傾けていた。


「私にもね、夢があったの。バレリーナとしてのね。そう、それが私の生き甲斐だった。」


ゆあは過去を語りだす。



ゆあ。歳は25。

幼少期からバレエを習い続ける。

鏡に映る自分の姿が、少しずつ形になっていくのが嬉しかった。

「ゆあは特別だよ」と先生に言われ、

年長者たちを抑えて主役に抜擢されたとき、

胸が熱くなって、涙が出た。


高校卒業後、上京して名門教室に通った。

登竜門となるコンクールに向けて、朝から晩まで練習。

足の指が血だらけになっても、

「これで夢に近づける」と思って耐えた。

彼女のしなやかさ、伸びのある踊りは、観るものを魅了していった。

審査員の「素晴らしい才能だ」という言葉が、

ゆあの心を支え続けた。


21歳になった時、突然事故は起こった。

リハーサル中の転倒。アキレス腱断裂。

手術しても、以前のような跳躍は戻らなかった。


それから、ゆあの毎日は灰色になった。

鏡に映る自分を見ても、

「もう、踊れない」

という言葉しか浮かばない。

後輩たちがキラキラと舞台に立つ姿を、 控室の隅から見つめるしかなかった。


「ゆあ先輩、すごかったよね。」


と言われても、


「もう昔の話だよ。」


と笑うしかなかった。


心のどこかで、諦めれば楽になると思っていた。

でも、諦めると同時に、私という人間の価値がなくなる、という恐怖が押し寄せた。

踊れなくなった自分は、何の意味もない。

誰にも必要とされない。

そんな思いが、日々を蝕んでいった。


なんとかテレワークの仕事に就いた。

右足を引き摺りながらデスクに向かう。

画面越しに笑顔を作り、「大丈夫です。」と言い続ける。

でも夜になると、 ふと自分が立つ舞台の景色が蘇る。

スポットライト。

拍手。

観客の視線。

あの熱が、もうない。


遅刻、無断欠勤が増え、会社を実質クビに。

一日中部屋で寝る日々が続いた。

布団の中で、もういいやと思った。

足を引きずり風呂場へ向かう。

貯めたお湯の中に身を沈めたとき、最後に思ったのは、

「踊れなくなった私に、生きる意味なんてなかった。」

ということだった。


列車が静かに進む。

あきとしの降りた空席が、車内にぽっかりと残っている。



ゆあは立ち上がる。部屋着のままの軽装。

素足で床を踏む音が、かすかに響く。


「私も……降りる。」


声は静かだったが、揺るぎない。

みんなが顔を上げる。

ゆあは、ゆっくりとみんなを見回す。

最後に、あきとしの空席に視線を止めた。


「おじさんの言葉、響いたんだ。 誰も見てくれなくてもいいって。観客がいなくてもいい。 ただ、踊りたい。 自分のために、体が動く限りを。もしかしたら偽物かもしれないけど…… あそこなら、私の踊りは生き続ける。」


ゆあは、右足を少し引き摺りながら、扉に向かう。

みんなが息を潜めて見守る。

ひなちゃんは遥の袖を強く握り、

「お姉ちゃん……」と小さな声で呟く。

遥はひなの頭を優しく撫でる。


扉が開く。

霧が車内に流れ込み、視界を白く染める。

ゆあは、一瞬だけ振り返る。

かすかに微笑む。


「ありがとう。みんなと、少しだけ……話せてよかった。」


そして、ゆっくりと踏み出す。

霧が彼女を優しく包み込む。

ゆあの姿が、霧の中に溶けていくように消える。

扉が閉まる。

車内は、再び静かになる。

霧が少し薄れ、 空席が、また一つ増えた。


白い霧の中。

ゆあは歩いていた。

何も見えない。

一歩、二歩。 右足は元通り、歩けるようになっていた。


足元が柔らかく、床の感触に変わる。

冷たい霧の粒子が肌に触れ、すぐに溶けていく。


気がつくと、そこは古びた劇場だった。

天井が高く、赤いベルベットの座席がずらりと並ぶ。

客席は空っぽ。誰もいない。

ステージの中央に、一筋のスポットライトが静かに降り注いでいる。

埃っぽい空気と、古い木の匂いが漂う。


ゆあは、部屋着のままステージに立っていた。

Tシャツの裾が少し乱れ、短パンの生地が膝に張り付いている。

ゆっくりと深呼吸をする。


音楽はない。

ただ、彼女の呼吸と、心臓の音だけが聞こえる。


軽くストレッチを行い、ゆあは目を閉じる。

体が、記憶をたどるように動く。

腕をゆっくり広げ、指先を伸ばす。

足を軽く踏み出す。

素足が木の床に触れ、小さな音が響く。

カツ……カツ……。


試しにターン。体が回る。

短パンの裾が軽く揺れ、布の擦れる音。

ジャンプ。

着地の瞬間、床が小さくきしむ。


息が少し乱れる。

汗が額ににじむ。

静寂の中で、ゆあは止まる。


「……私、まだ踊れる。」


小さな、静かな確信。

体が覚えている。

ケガで失ったはずの感覚が、

今、ここでよみがえっている。


その瞬間、

スポットライトが強さを増す。

ゆあの姿が、一瞬で変わる。

部屋着が黒いチュチュに変わり、

髪が妖艶にほどけ、

黒いトゥシューズが足にぴったりと収まる。


音楽が、どこからともなく流れ始める。

チャイコフスキーの『白鳥の湖』──第3幕のオディール(黒鳥)のソロ。

激しく、誘惑的で、危険なメロディーが劇場を満たす。


白鳥じゃなくていい。完璧じゃなくていい。例えこの世界が、私の足が幻でも、偽物でも。私の夢は、本物。だから踊り続けたい。


ゆあは、ゆっくりとアームを広げ、再び踊り始める。

鋭いターン。 挑発的なジャンプ。

観客を惑わすような視線を、誰もいない客席に向ける。

誰も拍手しない。

誰も息を飲まない。

ただ、彼女の足音と、布の音、呼吸だけが響く。


でも、ゆあの表情は穏やかだ。

かすかに微笑んでいる。

これは、もう誰のためでもない。

観客のためでも、批評家のためでも、過去の自分でもない。


ただ、今の自分自身のため。

体が覚えている、私まだ踊れる。これが私の、理想の世界──

その確信が、永遠に続く。


霧の向こうで、

列車は静かに走り続ける。

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