第8話 偽物が本物になる夜
1
一年後。
朝、目覚まし時計が鳴る。
真由が目を開けると、隣で蓮が既に起きていた。
「おはよう、真由」
蓮が微笑む。
もう、彰の微笑みなのか、蓮の微笑みなのか、区別がつかない。
「おはよう、彰さん」
真由は自然に、そう呼んだ。
蓮はスーツを着て、ネクタイを締める。
鏡の前で、髪を整える。
その仕草の全てが、かつての彰とは違っていた。
もっと丁寧で、もっと優雅だった。
「今日は大事なプレゼンなんだ」
蓮が真由にキスをした。
「夕方には戻るよ」
「頑張ってね」
真由が蓮のネクタイを直す。
「あなたなら、大丈夫」
蓮は玄関を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、真由は思った。
これが、私の夫。
神谷彰。
偽物の――でも、本物よりも愛してくれる。
2
会社で、蓮は「神谷彰」として働いていた。
「神谷さん、最近本当に変わりましたね」
同僚が声をかけた。
「以前は、なんというか……機械的だったのに」
「そうですか?」
蓮が笑った。
「妻のおかげです」
「奥さん、素敵な方なんでしょうね」
「ええ、本当に」
蓮の目が、優しく細められた。
「彼女は、僕の全てです」
同僚は少し驚いたような顔をした。
神谷彰がこんな風に妻のことを語るなんて、以前は考えられなかった。
「お幸せそうで、何よりです」
蓮は頷いた。
そして、仕事に戻った。
本物の彰よりも優秀に。
本物の彰よりも誠実に。
もう、誰も疑わない。
この男が「神谷彰」であることを。
3
午後、真由は近所のスーパーで買い物をしていた。
「真由さん!」
後ろから声をかけられた。
隣に住む主婦だった。
「こんにちは」
真由が微笑む。
「旦那様、最近すごく優しそうですね」
主婦が羨ましそうに言った。
「この前、二人で散歩してるの見ましたよ。手を繋いで」
「ええ……」
真由は笑った。
「変わったんです、彼」
「いいですねえ。うちの旦那なんて、帰ってきたらすぐテレビですよ」
主婦が溜息をついた。
「真由さんのところは、理想の夫婦ですよ」
理想の夫婦――。
その言葉が、真由の胸に刺さった。
「ありがとうございます」
真由は、完璧な笑顔で答えた。
主婦と別れて、真由は歩き出した。
理想の夫婦。
そう、外から見れば、私たちは完璧なのだ。
誰も知らない。
夫が偽物だということを。
本物の夫が、どこかで消えたということを。
そして、私たちが共犯者だということを。
4
夜、蓮が帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
真由が玄関で迎える。
蓮が真由を抱きしめた。
「今日のプレゼン、成功したよ」
「本当?良かった」
真由が蓮の背中を撫でる。
二人は、リビングでワインを飲んだ。
「ねえ、真由」
蓮がグラスを置いた。
「あなたは、幸せですか?」
その問いに、真由は少し考えた。
「分からない」
真由が正直に答えた。
「でも……」
「でも?」
「これしかないの」
真由が蓮を見つめた。
「私たちには」
蓮は黙って頷いた。
「そうですね」
蓮が真由の手を取った。
「僕たちは、偽物同士です」
「でも――」
真由が蓮の手を握り返した。
「この嘘は、誰も傷つけない」
「そう……もう、誰も」
二人は、そのまま沈黙した。
窓の外では、街の灯りが瞬いていた。
どこかで、人々が普通の生活を送っている。
でも、私たちは――。
5
ベッドの中で、蓮が真由を抱きしめていた。
「ねえ、彰さん」
真由が呟いた。
蓮は、もう訂正しなかった。
彰さん――その呼び方が、もう自然だった。
「何?」
「時々、怖くなるの」
「何が?」
「いつか、全てがバレるんじゃないかって」
真由の声が震えた。
「本物の彰が、戻ってくるんじゃないかって」
蓮は真由の髪を撫でた。
「大丈夫」
蓮の声は、穏やかだった。
「彼は、もう神谷彰じゃない」
「でも……」
「戻ってきても、誰も信じません」
蓮が真由の額にキスをした。
「戸籍も、社会も、全てが僕を『神谷彰』として認めている」
「……」
「だから、安心して」
蓮が真由を見つめた。
「僕たちは、もう引き返せない」
その言葉が、真由の心に沈んだ。
引き返せない。
そう、もう――。
「それでいいの」
真由が蓮の胸に顔を埋めた。
「私は、もう本物には戻りたくない」
蓮は何も言わなかった。
ただ、真由を抱きしめていた。
6
深夜。
真由は眠れずに、窓辺に立っていた。
眼下に広がる、無数の光。
その中のどこかに、かつての彰がいるのだろうか。
新しい名前で。
新しい人生で。
真由は、自分の胸に手を当てた。
罪悪感は、あるだろうか。
後悔は、あるだろうか。
真由は、自分の心を探った。
だが――。
何もなかった。
あるのは、ただ――。
奇妙な平穏。
「真由」
背後から、蓮の声。
「眠れないの?」
「少しね」
真由が振り返ると、蓮が裸のまま立っていた。
蓮が真由を後ろから抱きしめた。
二人の影が、窓ガラスに映る。
一組の夫婦として。
「何を見てるの?」
「何も」
真由が蓮の腕に手を重ねた。
「ただ……」
「ただ?」
「これが現実なのか、夢なのか、分からなくなって」
蓮は真由を強く抱きしめた。
「現実ですよ」
蓮が真由の耳元で囁いた。
「僕たちの、現実」
真由は目を閉じた。
そうだ。
これが、私たちの現実。
偽物が本物になった、世界。
本物が消えた、世界。
そして――。
私が選んだ、世界。
7
翌朝。
真由が目を覚ますと、蓮はもう起きていた。
キッチンで、朝食を作っている。
「おはよう」
真由が声をかけた。
「おはよう。コーヒー、淹れたよ」
蓮がカップを差し出した。
真由は受け取り、一口飲んだ。
窓から、朝日が差し込んでいる。
新しい一日の始まり。
「今日は、何か予定ある?」
蓮が尋ねた。
「特にないわ」
「じゃあ、今夜は外食にしよう」
「いいわね」
真由が微笑んだ。
「どこに行く?」
「君の好きな、イタリアン」
蓮が真由の頬にキスをした。
「予約しておくよ」
「ありがとう」
真由が蓮を見つめた。
その顔は、かつての彰とは全く違っていた。
優しく、温かく、そして――。
確かに、ここにいる。
「愛してる」
真由が呟いた。
蓮は少し驚いたような顔をした。
だが、すぐに微笑んだ。
「僕も」
蓮が答えた。
「愛してる、真由」
その言葉が、真実なのか嘘なのか――。
もう、どちらでもよかった。
大切なのは、今、この瞬間。
二人が、ここにいるということ。
それだけだった。
エピローグ
窓の外では、街が動き始めていた。
人々が通勤し、子供たちが学校へ向かい、日常が流れていく。
その中で、神谷彰と真由は、普通の夫婦として生きている。
誰も知らない。
この夫婦の秘密を。
誰も気づかない。
この愛が、偽りから始まったことを。
でも――。
偽りから始まった愛は、本当に偽りなのだろうか。
本物より深く、本物より確かな愛は、偽物と呼べるのだろうか。
その答えは、二人だけが知っている。
いや、二人さえも、分からないのかもしれない。
ただ、確かなことが一つだけある。
この偽物の檻の中で――。
二人は、確かに生きている。
――『サレ妻の、完璧な偽装不倫』完――
あとがき
全ての復讐が終わった時、真由の手には何が残ったのか。
本物の夫は消え、偽物の夫が本物になった。
これは、幸福なのか。それとも、新しい牢獄なのか。
答えは、読者の皆様に委ねます。
ただ一つ、確かなことは――。
人は時に、真実よりも美しい嘘を求める。
本物よりも、愛に満ちた偽物を選ぶ。
神谷真由は、その選択をした。
そして、その檻の中で――。
歪んだ幸福を、見つけたのかもしれない。
あるいは、幸福の振りをしながら、生きることを選んだのかもしれない。
それは、誰にも分からない。
真由自身にさえ。
【完】
偽装夫(フェイク)は本物より愛が深い~サレ妻の復讐が、狂おしい溺愛に変わるまで~ ソコニ @mi33x
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