由香の怪談――度胸試し

天狗の里に伝わる『度胸試し』は、かつて誕生日の夜に行われた成人の通過儀礼だった。

今では、挑戦したい者が自己責任で臨む儀式となっている。そして、万が一に備えて必ず見届け役がつく決まりだ。


 


真夜中。由香は見届け人と共に度胸試しの場に立っていた。

昼のうちに準備は済んでいる。やることは簡単だった。


いわく付きの岩が祀られている区画――御霊座みたまざに散らばる石の中から一つを拾い、名前を書く。

それを岩の前の供物台に置く。ただ、それだけ。


本番では、明かりを使わず、石を持ち帰る。

ただ、それだけのはずだった。


深く息を吸って、由香は見届け人に「行ってくるよ」とだけ告げ、四本柱の鳥居をくぐる。

その先で、御霊座みたまざがひっそりと待っていた。


 


一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

肌にまとわりつく湿気。重くなる足取り。


月は出ているのに、やけに暗い。

それでも笑みを浮かべ、一直線に伸びた石畳を歩く。

鳥居から供物台までは、およそ二十メートル。


自分の名を記した石を手に取って、ふぅと息を吐いた。


「よし、あとは帰るだけだね」


そのときだった。風が、動いたような気がした。

見上げると、岩の上に黒々とした大蛇がとぐろを巻いていた。

鎌首をもたげ、じっと見下ろしてくる。


――逃げなきゃ。


とっさに踵を返すと、そこにあったはずの石畳は消え、深い森の小道へと変わっていた。

迷っている暇などなかった。ただ走るしかない。


どれだけ走ったか分からない。木々の切れ間を抜けた先には――崖があった。


崖の縁まで来たところで、由香は振り返った。

そこには、大蛇が静かに現れていた。森の出口を塞ぐようにとぐろを巻き、冷たい視線で睨んでくる。


――行き止まり。


背筋が凍るその瞬間、耳元で声がした。


「落ちれば助かるかもしれないわよ」


気づけば、由香と大蛇の間に母が立っていた。

その隣には、いつの間にか父と妹もいる。


そして口々に囁く。


「落ちろ」「落ちてしまえ」「いらない子」


足がすくみ、後ずさる。崖の縁。背後には何もない。

前には呪詛を吐く家族。その背後から、大蛇の視線が突き刺さる。


由香の頬を、涙が伝った。


思い出す。妹ばかりを可愛がった両親。

些細なことで責め立てる妹。

そして、あの日――すべてが壊れた。


家を飛び出した夜から、自分の帰る場所はなくなった。


「あーしなんて……いなくなればいいんでしょ……」


涙が止まらない。

目を閉じ、石を強く握りしめる。


そして――身を投げた。


 


気がつくと、柔らかな布団の上にいた。

額には冷たい布。傍らには、見届け人の女天狗が静かに座っていた。


「……あーし、崖から……飛び降りて……?」


「ええ。よく戻ってこられました。石を持ち帰ったのですから、立派に成功です」

微笑みながら、女天狗は続ける。


「『度胸試し』は、自分が見たくないものを見せてきます。

怖いもの、嫌いなもの、過去の傷……でも、ちゃんと超えられましたね」


由香はなんとなく尋ねてみた。

「あーし、大蛇と家族に追い詰められて崖から飛び降りたんだけど……あれ、飛び降りなかったらどうなってたのかな?」


「それは誰にも分かりません。ただ――下手をすれば命を失っていたかもしれません」


『成功して良かったですね』

彼女の穏やかな笑顔が、そう語っていた。

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