第4話
朝起きると、クニはダイニングテーブルの椅子に座り、テーブルの上に置きっぱなしにしてあるデスクトップパソコンを動かしていた。
「まだいたんですか? というか、何してるの?」
「おはよう。早いな。ネットサーフィンだ」
振り返りもせずに言われて、思わず言葉を失う。
「それ、人間用だけど」
「知ってる。便利だな、人間の縁の大半はここで繋がってる」
マウスを操作する手つきが、やけに慣れている。画面には、動画サイトとニュース記事、なぜか恋愛相談掲示板が同時に開かれていた。
「……何見てるの」
「縁の絡まり具合」
そう言って、クニは画面を指でなぞる。指先が触れたわけでもないのに、カーソルがふっと揺れた気がした。
ベッドから起き上がり、髪をかき乱しながらキッチンへ向かう。背中に視線を感じるのが、どうにも落ち着かない。
「コーヒーいりますか?」
「飲む」
即答だったので、少し驚く。
「神様なのに?」
「神でも、寝るのと食べるのは楽しい」
椅子を引き、マグカップを受け取る仕草があまりにも自然で、可笑しくなる。それと同時に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「ずっといるつもり? ここ、単身者向けのアパートなんだけど」
クニは、コーヒーを一口飲んでから言った。
「ああ。お前が縁を諦めるまで」
「諦めません」
「知ってる。お前、ずっと祈りに来てたしな」
その言葉から、縁結びを祈るために吐き出していた心の内全てが知られているのかと思い、どきりとした。しかし、クニはそんな僕の様子には気づかず、自然に話しを切り出した。
「じゃあ、行くか」
「どこに?」
「通勤」
当然のように立ち上がるクニを見て、思わず声を荒げる。
「来なくていいです!」
「姿は消してやる」
そう言うと、クニの輪郭が一瞬だけ揺らいだ。
朝の改札は、いつも通り地獄だった。ホームへ流れ込むスーツの波に押されながら、僕は吊り革を掴む。
「……多いな」
耳元で、低い声がした。
「当たり前ですよ、朝のラッシュですから」
そう返しながら、心の中でため息をつく。僕の隣には、当然の顔でクニが立っていた。服装は僕の部屋にいた時のままだが、クニの身体は透けていた。サラリーマンの肩がクニの身体をすり抜けるたび、背筋がぞわりとする。
「人間界ってのは、縁が絡まりやすいな」
クニは、つり革に掴まらず、微動だにせず立っている。
「無駄に近い。無駄に触れる」
「それが通勤です……」
電車が急に揺れ、バランスを崩した僕の身体が、前の誰かの胸元にぶつかる。
「す、すみません!」
咄嗟に顔を上げて、ぶつかった他人の方を見る。
「大丈夫ですか?」
低くて落ち着いた声のスーツ姿の男性だった。三十代前半くらいだろうか。短く整えられた髪、眠そうなのに優しい目。
満員電車のせいだと分かっているのに、胸が変にざわつく。
「すみません、急に止まって……」
「いえ、こちらこそ」
笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが鳴った
だめだ。頭では分かっているのに、視線が離れない。
好き、かも。
ほんの一瞬そう思ったら、すぐ隣で舌打ちが聞こえた
「やめとけ」
クニの声だった。低く、苛立ちを含んでいる。
「まだお前の準備が出来てない」
電車が揺れ、さらに距離が詰まる。彼の手が、咄嗟に僕の肩を支えた。
「危ないですよ」
その仕草が、自然で優しくて、藤堂先輩で出来た失恋の傷がかすかに反応する。早く治りたいと叫んでいるかのようだ。
しかし、視界の端で、クニが何かを見ている。その視線を辿ると僕には見えないはずの“糸”が、彼と僕の間に、かすかに伸びかけていた。
「やめとけ。こいつは何かを抱えてる。相当重い」
クニの視線が鋭くなる。クニは、指を動かすと、絡み合いそうになっていた糸が急に動きを止めた。
「お前が好きになったら、そいつは一気に崩れる」
次の駅で、ドアが開いた。僕は一歩後ろに下がり、軽く会釈する。
「すみませんでした。ここで降ります」
「……いえ」
相手が小さく会釈して、ドアが閉まり、電車が再び走り出す。糸は見えなくなっていた。
「……今の」
思わず声が、震える。
「好きになりかけました」
クニは、しばらく黙っていた。
「……“かけた”だけで済んだな。糸は結ばれてない」
僕はやはりあの時見えた糸は、俗にいう"赤い糸"だったのだと分かった。あのまま僕が電車を降りなければどうなっていたのだろうか。そんな僕を見て、クニは呆れたような声を出した。
「というか、お前、惚れやすすぎるだろうが」
「……うるさい」
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