第43話:赤き終焉と蒼の誓い

 

 私は契約を交わした。

 その詳細は、まるで霧の中に消えたように思い出せない。だが、あの瞬間の光景だけは、今もまぶたの裏に焼きついて離れない。


 ――赤

 それは、ただの存在ではなかった。

 空を引き裂き、大地を焼き尽くす、終焉の色。

 燃え盛る炎の中から現れたその巨体は、まるで世界そのものが怒りを具現化したかのようだった。

 黄金の瞳が、私を射抜く。逃げ場など、どこにもなかった。あの視線の前では、どんな言葉も、どんな祈りも無力だった。


 思いあがっていたのだ。

 人間ごときが、神罰の象徴たる龍に力を乞うなど――


 その傲慢さが、胸の奥で後悔となって膨れ上がり、願いの強さをかき消そうとしていた、その時だった。


 黒曜石のように艶やかな髪をなびかせ、彼が私の前に立ちはだかった。


 その背は、まるで天をも支える盾。

 龍の咆哮が空を震わせる中、彼は一歩も退かず、私を守るように立ち続けた。


 だが、あの赤は容赦なかった。

 炎が彼を包み、黒が赤に染まっていく。

 血が舞い、熱が空気を裂き、世界が紅蓮に染まる。

 耳をつんざく轟音の中、私はただ立ち尽くしていた。


 私は――

 あの瞬間、何を思ったのだろう。

 何を叫び、何を願ったのか。

 今となっては、もう思い出せない。

 ただ、胸の奥に残るのは、焼けつくような痛みと、彼の温もりだけだった。




「案ずるな、契約は果たす…」


 私は低く呟きながら、重たいまぶたを開けた。

 まだ、あの龍の視線が、心の奥底に巣食っている。

 あの契約――それが私の願いに繋がっていたことだけは、確かに覚えている。


 冷たい空気が肌を刺す。

 私は海賊帽を被り、金の髪を整え、蒼い瞳にいつもの光を宿すように意識を集中させた。


 テントの布を押しのけて外に出ると、黒鏡石が一面に広がる荒野が、朝の光を鈍く反射していた。


 その中で、真っ先に目に飛び込んできたのは、赤い肌の巨体――オーグだった。



「おう、姉御ォ、起きたのか?」


 彼の声は、まるで岩を砕くような重低音。

 だが、その瞳には、仲間を気遣う優しさが宿っていた。


 彼の背後では、テントの布が風に揺れ、焚き火の残り火がかすかに煙を上げている。


「っ…」


 突如、胸の奥が締めつけられる。

 あの夢の残滓が、再び私を襲った。

 赤い炎、焼けただれた空気、龍の視線、そして――彼の背中。


「ん?どうしたァ、姉御ォ?」

「いや、何でもない…少し寝ざめの悪い夢を見ていた」


「ミリアリアさん、大丈夫ですか?顔色が優れないようですが…」


 ケビンの声は、どこかおずおずとしていたが、真剣な眼差しが私を見つめていた。


 私は軽く頷き、深く息を吸い込む。

 心の奥にある恐怖を押し込み、いつもの“私”を装う。


「いや、少し寝不足なだけだ。心配はいらん」


 声に威厳を込めたつもりだった。

 だが、震える指先が、私の内心を裏切っていた。


「そうですか…よかった…」


 ケビンはほっとしたように微笑んだ。

 その表情に、私はかすかに救われる。

 私はまだ、ミリアリアでいられる。

 威風堂々とした、仲間を導く者として。


 だが、心の奥では、あの龍の瞳が今も私を見つめている。


 膝が崩れそうになる。

 それでも、私は立ち続ける。

 引き返すことなど、もうできない。

 引き返したくもない。


「ミリアリアさん!」


 振り返ると、茶髪の前髪で顔を隠したアニーと、銀の髪を風に揺らすメグーが駆け寄ってきた。


 アニーは視線を合わせるのもやっとの様子で、メグーは相変わらず無表情ながらも、どこか安心したような気配を纏っていた。


「アニー、それとメグーか」

「はい。少し先まで2人で様子を見てきました」

「大丈夫ね。全然、魔物の気配がしないわ」

「ここ、魔物がいないのかも」

「お母さん。油断はダメよ」


メグーの声は澄んでいて、まるで氷のように冷静だった。

だが、その奥にある微かな温もりを、私は知っている。


「ふむ。メグーの言う通りだな。だが、その前に、こんな時間まで寝ていて、すまないな」

「い、いえ!そ、そんな!」


 アニーは慌てて首を振り、顔を赤らめながらも懸命に否定する。

 その仕草が、どこか微笑ましい。


「ミリアリアが最後の見張り当番だったもの、それは仕方ないでしょ」


 メグーの言葉は、まるで事実を淡々と述べるだけのようでいて、私を気遣う優しさが滲んでいた。


「ふ、そう言ってもらえると助かる。さぁ、準備が出来たら出発だ!」


 私は声を張り上げ、仲間たちに背を向ける。

 その背中に、誰にも見せられぬ震えを隠しながら――。


 天使の零落を進めば進むほど、その震えが強まっていくことに気付かぬ振りをしながら――。

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