第42話:漆黒の結晶に映る影


 湖の果てに、黒々とした巨大な壁がそびえ立っていた。空を覆うほどのその壁は、まるで世界の終焉を告げるかのような威圧感を放っている。壁の中央に、ぽつんとひとつの扉があった。だが「ぽつり」という表現が滑稽に思えるほど、それは巨人のために造られたかのように巨大で、見る者の心を圧倒した。


「ここから先は魔力圏外だ。メグーよ、お主は迂闊に魔法を使うな。よいか?」


 ミリアリアの声は、静かにして重く、まるで時を超えて響く鐘の音のようだった。


「ええ、分かっているわ」


 メグーは無表情のまま頷いた。銀の髪が揺れ、蒼白の光を反射する。幼い顔立ちに似合わぬ冷静さが、その言葉に確かな重みを与えていた。


「うむ」


 ミリアリアは満足げに頷き、視線を前方の扉へと戻す。その背中には、嵐をも制する海賊の威厳が宿っていた。


 本来、魔力圏外を進むには、マナステーションを設置しながら徐々に領域を広げていくのが常道だ。しかし、彼らの目的は違う。人類の領域を広げることではなく、遥か彼方、最深部に眠るとされる“七十二体目の龍”の存在を確かめること——それがこの旅の真の目的だった。


 そのための切り札が、コンテクストマジックの使い手・メグー。彼女は食事によって魔力を摂取し、自らがマナステーションの代替となる稀有な存在だった。


「メグーさんが魔法を使うとどうなるんですか?」


 ケビンの声は震えていた。彼の細い肩がわずかに揺れ、視線はメグーの背中に釘付けになっている。


「多少は問題なかろう」

「そうなんですね」

「なぁに、ホッとしてんだァ、メグーの魔力が尽きれば、俺達がカラッカラになって死ぬぜェ」


 オーグが豪快に笑いながら言い放つと、ケビンの顔が青ざめた。


「えぇぇぇ!!」


「ここから先は魔力圏外だ」


 ミリアリアの静かな言葉が、ケビンの胸に重くのしかかる。喉が渇き、無意識に唾を飲み込む音が響いた。


 船が黒い扉をくぐると、周囲の空気が一変する。淡い赤の光が水面に反射し、洞窟の壁を妖しく照らしていた。まるで夢と現実の狭間に迷い込んだかのような幻想的な空間。


 陸地に着くと、アニーはその美しさに目を奪われながらも、そっと口を開いた。


「…スイスイ、ありがとう」


 その声はかすかに震えていたが、確かな感謝が込められていた。水龍は名残惜しそうに「シュルルルル!」と鳴き、静かに水中へと姿を消した。


「行くぞ…いよいよ、第2層だ」


 ミリアリアの声に、一行の緊張が高まる。


「第2層ってどんなところなんですか?」


 ケビンの問いに、オーグがニヤリと笑う。


「おう。人の心を惑わせてくるらしいぜェ」

「うむ。心してかかるぞ」


 洞窟の先に、かすかな光が見え始める。やがて一行は外へと踏み出し、目の前に広がる光景に息を呑んだ。


 天井から地面にかけて、無数の黒い結晶が生い茂っている。まるで漆黒の森。結晶のひとつに顔を近づけると、そこには自分自身の姿が映っていた。だが、その瞳と目が合った瞬間、胸の奥が締めつけられる。まるで魂が引きずり出されるような感覚。心の奥底を覗かれているような錯覚に、背筋が凍りつく。


「迂闊に覗くな」

「は、はひ!」


 ミリアリアの手がアニーの肩に触れた瞬間、アニーはビクリと震え、小さく声を漏らした。彼女の前髪の奥で、瞳が怯えに揺れていた。


「こりゃ、すげェ密度の黒鏡石だな」


 オーグが腕を組み、唸るように言った。


「黒鏡石ですか?」


 ケビンが恐る恐る問い返す。


「おう。こいつがマナステーションの原材料だ。だが、こいつは周囲にマナを散布する性質があるんだがァ」

「こ、これが…マナステーションになるんですね」


 ケビンは目を見開き、周囲の結晶を見渡した。彼の胸には、故郷の村の姿が浮かんでいた。マナステーションがあれば、あの村も救えるかもしれない——その希望が、彼の心に小さな炎を灯していた。


「ここ、魔力圏外だよなァ?」


 オーグの視線がミリアリアに向けられる。彼女は静かに頷いた。


「ああ。確かに…メグーがいるからわかりにくいが、魔力圏外で間違いない」

「じゃぁ、こいつらァは、黒鏡石じゃねェってことか?」


 オーグの眉間に皺が寄る。常識が通じないこの空間に、彼の本能が警鐘を鳴らしていた。


「ねぇ、立ち話している時間あるの?」


 メグーが苛立ちを隠さずに言い放つ。銀の瞳が冷たく光り、空気が一瞬、張り詰めた。


「黒鏡石かどうかなんて、重要かしら?」


「メグーよ、お主の言葉にも一理あるが、どうやら天使の零落の2層では、こやつらが自然と言えるだろう。海では水、森では動植物のことを考えるように、ここでは黒鏡石のことを考える必要があるのではないか?」


「ふーん。でも、考えてわかることなのかしらね」


「ふむ」


 ミリアリアは静かに頷いた。彼女の蒼い瞳は、結晶の奥に潜む何かを見据えているようだった。


「ケ、ケビンさん」

「は、はい!?」


 アニーに名前を呼ばれたケビンは、驚きのあまり跳ねるように返事をした。彼女の声は小さく、震えていたが、確かな意志が感じられた。


「あの、黒鏡石にスキル、使えます、か?」

「えっと、ごめんなさい。ダメそうです」


 ケビンは申し訳なさそうに眉を下げ、黒鏡石に視線を落とした。彼の手はわずかに震えている。スキルを試そうとしたが、まるで石が彼の魔力を拒んでいるかのように、何の反応も返ってこなかった。


「ねぇ、お母さん」


 メグーが、無垢な声でアニーに問いかける。その声音には、子供らしい無邪気さと、どこか冷ややかな皮肉が混じっていた。


「メグーちゃん?」

「こんな石を私に食べさせるつもり?」


 その言葉に、アニーは顔を真っ赤にして、慌てて手を振った。前髪の奥の目元が、狼狽と戸惑いで揺れている。


「そ、そ、そんな意味じゃなくて…えっと…そうなるけど、でも、ケビンさんのスキルが使えれば、これが黒鏡石かわかりやすいでしょ?」

「そういうことね」


 メグーは小さく頷いた。アニーにとっては、石も食材も等しく“資源”でしかないため、食べられるかどうかの視点では区別ができない。メグーと他のメンバーで感じ方が大きくことなるのは、その区別ができるかどうかだろう。


 そんな葛藤をよそに、ミリアリアが一歩前に出る。蒼い瞳が周囲を鋭く見渡し、静かに口を開いた。


「…黒鏡石に触れぬように進むぞ。先を急ごう。異変を感じた者はすぐに知らせることだ。それが気のせいかどうかは後で考えれば良い。異変を知らせることに気おくれするな」


「はい!」


 一行の声が重なり、結晶の森に反響する。だが、その声すらも、どこか吸い込まれていくような錯覚を覚える。まるでこの地そのものが、生きているかのように。


 アニーはそっと胸元を押さえた。鼓動が速い。けれど、誰にも気づかれないように、そっと息を整える。彼女の中で、恐怖と、それでも進もうとする小さな勇気がせめぎ合っていた。

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