第2話「白い都市は、何も失っていない」
白い都市は、翌日も変わらず機能していた。
光の道は定刻通りに流れ、防衛層は一定の明度を保ち、研究区画の時計は一秒の狂いもなく進んでいる。
――まるで、昨日など存在しなかったかのように。
「……おはようございます」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
研究区画の入口で、俺は身分証をかざす。
認証音は正常。拒否も、警告もない。
「入室を許可します」
その一言で、胸の奥が少しだけ痛んだ。
本当は、ここに来る資格なんて、もうないはずだった。セツナの作業台は、片付けられていた。昨日まで、確かに彼女が立っていた場所。
工具の位置も、端末の角度も、
すべて“正しい配置”に戻されている。
「早いな……」
誰かが、そう言った。
「片付けが終わらないと、次の調整に入れないからな」
淡々とした声。悪意はない。ただ、効率の話だ。俺は何も言えず、空になった調整台を見つめていた。そこに立っていたはずの存在が、
最初からいなかったように。
「君は、下がっていていい」
研究責任者が、俺にそう告げた。
「昨日の件で、精神的負荷が大きいだろう」
配慮。
正しい判断。それが、ひどく腹立たしかった。
「……俺は、大丈夫です」
声が震えないようにする。
「作業は続けられます」
責任者は一瞬だけ、俺を見る。
そして、目を逸らした。
「無理はするな」
それで、終わりだ。区画を出ると、
都市の音が一気に押し寄せてきた。
人の声。機構音。
遠くで鳴る輸送翼の風切り音。
セツナは、この音が好きだと言っていた。
「生きてる感じがするから」
その言葉が、今になって胸を締めつける。
展望区画へ続く通路の前で、
俺は足を止めた。
昨日、行く約束をした場所。
結局、行けなかった場所。
その日の夕刻、正式な通達が下りた。
【研究区画襲撃事件・最終報告】
・カラス陣営による侵入を確認
・遺物付近で戦闘発生
・鷺側作業員一名、行方不明
・死亡の可能性が極めて高い
・遺体未確認
「……行方不明、か」
誰かがそう呟いた。
「実質、死亡だろ」
別の誰かが、当然のように言う。
俺は、その言葉に反論できなかった。
できなかったが――
胸の奥に、小さな違和感が残った。
遺体未確認。
だがその違和感は、
怒りと悲しみにすぐ押し潰された。
夜、居住区画の部屋に戻る。
二人分だった部屋は、一人には少し広い。
セツナの私物は、
まだ片付けられていなかった。
羽の手入れ道具。
読みかけの資料端末。
作業服。
ベッドの端に座り、俺はそれらを見つめる。
「……なんで」
答えはない。
昨日の光景が、何度も脳裏をよぎる。
黒い影。振り下ろされた腕。
そして――
その先が、どうしても思い出せない。
「……カラスが」
拳を、握る。
「カラスが、奪ったんだ」
そう言葉にすると、
世界が少しだけ、分かりやすくなった。
憎む相手が、定まる。
翌朝、俺は志願書を提出した。
前線配属申請。
研究区画ではなく、防衛・迎撃部隊へ。
受付の係が、一瞬だけ目を見開いた。
「……理由は?」
「昨日の件です」
それ以上は、聞かれなかった。
白い都市は、今日も変わらず稼働している。
何も失っていないかのように。
けれど俺だけが、確かに何かを失っていた。
そしてその喪失は、
やがて憎しみに形を変える。
――この時の俺は、
まだ知らなかった。
本当に向けるべき怒りが、
別の場所にあるかもしれないことを。
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