第四話 虚飾の代償
季節が二つほど巡った。
都心の高層オフィスビルの窓から見下ろす街並みは、あの日見た景色とは違い、穏やかな陽光に包まれている。
俺、高村聡は、デスクの横に置いたコーヒーカップを手に取り、ゆっくりと香りを吸い込んだ。
「高村さん、例のプロジェクトの進捗、クライアントから絶賛でしたよ。特にセキュリティ周りの設計が完璧だって」
背後から声をかけてきたのは、転職先の同僚である若手社員だ。
あの一件の後、俺は前の会社を辞めた。噂が収束した後も、なんとなく腫れ物扱いされる空気に耐えられなかったし、何より心機一転したかったからだ。
ヘッドハンティングされた今の会社は、実力主義の外資系IT企業。過去の私生活のトラブルなど誰も気にしないし、純粋に技術力だけを評価してくれる。年収も上がった。忙しいが、充実している。
「それはよかった。苦労して組み直した甲斐があったな」
「いやあ、さすがですね。今夜、チームのみんなで飲みに行くんですけど、高村さんもどうですか?」
「ああ、行こうか。美味しい店を知ってるんだ」
以前の俺なら、「妻が待っているから」と断っていただろう。だが、今の俺は自由だ。
俺の生活から、「重石」は消え去ったのだ。
仕事の後、同僚たちと談笑しながらオフィスを出る。スマートフォンを取り出すと、弁護士から一通のメールが届いていた。件名は『最終報告および送金のご案内』。
その無機質な文字列を見た瞬間、俺の脳裏に、かつて俺を地獄の淵まで追い詰めた二人の顔が浮かんだ。
だが、そこに憎しみや怒りの感情はもう湧いてこない。あるのは、遠い国の悲惨なニュースを見るような、冷ややかな無関心だけだった。
「……終わったんだな、完全に」
俺は夜風に当たりながら、弁護士からの報告書に目を通した。そこには、俺を罠に嵌めようとした愚かな男女の、あまりにも無様で、当然すぎる末路が記されていた。
***
「おい、金ねえのかよ。酒が切れたんだよ」
安普請のアパートの壁が薄いせいで、隣の部屋のテレビの音が漏れ聞こえてくる。北関東の、駅からバスで三十分以上かかる寂れた住宅街。築四十年を超える木造アパートの一室は、カビと湿気、そして安酒の臭いが充満していた。
畳の上でジャージ姿のまま寝転がっている男――新堂裕也は、かつてのエリート営業マンの面影など見る影もなく、無精髭を生やし、充血した目で虚空を睨んでいた。
「……ないわよ、そんなもの。昨日、あなたがパチンコで擦ったんじゃない」
台所のシンクで洗い物をしていた女――高村、いや、旧姓に戻った松本美咲が、疲れ切った声で答えた。
彼女もまた、かつての華やかさは微塵もない。ブランド物の服はすべて売り払い、スーパーの安売りワゴンで買ったヨレヨレのTシャツを着ている。髪は手入れが行き届かずパサつき、根本からは黒い地毛が伸びてプリン状態になっている。
「あ? 俺のせいだってのか? お前がもっと稼いでくりゃいいだろ。コンビニの夜勤増やせよ」
「ふざけないでよ! 私は昼も工場で働いてるのよ! あなたこそ、いつになったら働くの!?」
「うるせえ! 誰のせいでこんなことになったと思ってんだ!」
新堂が飲み干したワンカップの空き瓶を壁に投げつけた。ガシャ、という破砕音と共にガラス片が散らばる。美咲は悲鳴を上げて肩をすくめた。
あの日、あのパーティ会場での断罪劇から、二人の人生は坂道を転げ落ちるように崩壊した。
新堂は即日、懲戒解雇となった。
それだけではない。会社からは業務上横領で刑事告訴され、同時に多額の損害賠償を請求された。示談にするために親族が泣きながら金をかき集めたが、それでも足りず、彼は膨大な借金を背負うことになった。
当然、不動産業界での再就職など不可能だ。彼の名前と顔は、「不倫と横領で人生詰んだ男」としてネット上に永遠に刻まれてしまったからだ。どの会社の面接に行っても、人事担当者は検索一発で彼の正体を知り、冷ややかな目で履歴書を返してくる。
日雇いの現場仕事も続かない。プライドだけ高い彼は、年下の現場監督に指図されることに耐えられず、すぐにトラブルを起こして辞めてしまうのだ。
一方の美咲もまた、地獄を見ていた。
実家からは勘当された。厳格だった父は「家の恥だ」と激怒し、二度と敷居を跨ぐなと絶縁を宣言した。母はショックで寝込み、親戚中から白い目で見られているという。
友人たちも潮が引くように去っていった。SNSのアカウントは炎上し、誹謗中傷の嵐に耐えきれずに削除した。承認欲求の塊だった彼女にとって、社会からの断絶は死に等しい苦痛だった。
そして、俺――高村聡からの慰謝料請求。
不貞行為、名誉毀損、精神的苦痛。弁護士が容赦なく積み上げた請求額は、二人合わせて五百万円を超えた。
金のない二人は、逃げるようにこの街へ流れ着いた。だが、借金取りと俺の弁護士からの督促は、どこへ行っても影のように付きまとってくる。
「……ねえ、もう別れようよ。こんな生活、無理だよ」
美咲が泣き崩れながら言った。
「別れる? ハッ、笑わせんな。今さらお前一人で生きていけると思ってんのか?」
新堂が嘲笑う。
「お前の実家、もうお前のこと死んだものとして扱ってるらしいぜ。風の噂で聞いたけど、妹さんが結婚したんだってな。お前の名前は式でも一切出なかったそうだ」
「やめて……言わないで……」
「俺もお前も、もうゴミなんだよ。社会の掃き溜めで、二人で腐っていくしかねえんだよ」
新堂は美咲の心の傷を抉ることでしか、自分の優位性を保てなくなっていた。
「DVから彼女を救う騎士」を気取っていた男が、今では言葉の暴力で彼女を支配し、共依存の泥沼に引きずり込んでいる。皮肉なことに、彼らが俺に被せようとした「DV夫」という役割を、新堂自身が体現しているのだ。
「……買い物、行ってくる」
美咲は逃げるように財布を掴み、サンダルを突っかけて外に出た。
外は薄暗くなり始めていた。近所のディスカウントストアへ向かう道中、彼女は常に下を向いて歩く。誰かと目が合うのが怖いからだ。
店に入り、半額シールの貼られた惣菜をカゴに入れる。ふと、雑誌コーナーの前を通った時、週刊誌の見出しが目に入った。
『ネットで話題の因果応報! ざまぁ動画特集』
心臓が跳ね上がった。震える手でそのページをめくると、モザイクこそかかっているものの、明らかにあのパーティ会場での自分たちの写真が掲載されていた。
記事には、「悲劇のヒロインを演じた悪女の末路」「自業自得の転落人生」といった扇情的な言葉が並んでいる。
「うっ……」
吐き気を催し、その場を離れようとした時だった。
制服姿の高校生グループが、スマホを見ながらゲラゲラと笑っているのが聞こえた。
「ねえ見てこれ、この動画マジウケるんだけど」
「うわ、出た! 『DVされてます』の人じゃん!」
「この顔芸すごくね? 嘘泣き下手すぎ!」
彼らが見ている画面から、あの日の自分の声が聞こえてくる。
『私は被害者なの……』
美咲は全身の血の気が引くのを感じた。
高校生の一人が、ふと顔を上げて美咲の方を見た。そして、目を見開き、隣の友人の袖を引いた。
「え、ちょ、待って。あのおばさん、似てね?」
「は? マジで? ……うわ、本人じゃん!」
「すげー! 本物の『嘘つき美咲』だ!」
高校生たちがスマホのカメラを向けてくる。
シャッター音が、銃声のように響いた。
「や、やめて! 撮らないで!」
美咲は買い物カゴを放り出し、悲鳴を上げて店を飛び出した。
背後から「逃げたぞ!」「SNSに上げようぜ!」という笑い声が追いかけてくる。
息が切れるまで走り続け、アパートに逃げ帰った。
玄関のドアを背にして座り込み、膝を抱える。心臓の音がうるさい。
「……どうした、幽霊でも見たか」
新堂が不機嫌そうに声をかけてくるが、答える気力もなかった。
逃げられない。
どこへ行っても、あの動画が、あの日の恥辱が、呪いのように追いかけてくる。
デジタルタトゥーという名の烙印は、死ぬまで消えることはないのだ。
ふと、美咲の脳裏に、かつての生活がよぎった。
清潔なリビング。温かい食事。そして、不器用だが優しく微笑んでくれた聡の顔。
仕事で遅くなっても、「ごめん、寂しかった?」と気遣ってくれた。記念日には、決して高価ではないけれど、美咲が欲しがっていたものを一生懸命選んでプレゼントしてくれた。
あの穏やかな日常こそが、本当の幸せだったのだ。
それを自ら踏みにじり、壊し、捨て去った。
「寂しい」という安っぽい感情と、承認欲求に負けて。
「……聡くん」
美咲は涙を流しながら、元夫の名前を呼んだ。
だが、その声が彼に届くことは、もう二度とない。
彼女にあるのは、憎しみ合う男との窒息しそうな生活と、終わりのない後悔だけだった。
***
「……自業自得、か」
弁護士からの報告書を読み終え、俺はスマートフォンの画面を閉じた。
報告書には、彼らの現在の住所や勤務状況、そして生活困窮により慰謝料の分割払いが滞り始めていることが事務的に記されていた。
弁護士は給与の差し押さえ手続きに入るという。俺は「法的にできる限りのことを」とだけ返信した。
彼らが飢えようが、野垂れ死のうが、俺の知ったことではない。それが彼らの選んだ道であり、彼らが支払うべき「代償」なのだから。
「お待たせしました、こちら今月のオススメの白ワインです」
店員がグラスをテーブルに置いた。
俺は今の同僚たちとの飲み会に参加していた。洒落たビストロの個室は、笑い声と活気に満ちている。
「高村さん、何ニヤニヤしてるんですか?」
「いや、なんでもない。ただ、酒が美味いなと思って」
俺はグラスを傾けた。冷えた白ワインが、喉を潤していく。
かつて、俺は復讐に囚われていた。彼らを破滅させることだけを考え、心を氷のように冷たくしていた。
だが今、俺の心にあるのは、春の陽だまりのような穏やかさだ。
彼らを破滅させたから幸せになったのではない。彼らというノイズを人生から完全に排除し、自分の足で未来へ歩き出したからこそ、今の幸せがあるのだ。
「そういえば高村さん、来月の連休、空いてます?」
隣に座っていた女性社員が、少し頬を赤らめて尋ねてきた。彼女は、俺が中途入社した時から何かと気にかけてくれていた、明るくて芯の強い女性だ。
「空いてるけど、どうして?」
「あの、もしよかったら……映画でもどうかなって。高村さんが見たがってたあのSF映画、まだやってますし」
周囲の同僚たちが、「おっ!」「ヒューヒュー!」と茶化す。
以前の俺なら、女性不信で身構えてしまったかもしれない。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
過去の傷は消えないかもしれない。けれど、それはもう、新しい一歩を踏み出すのを躊躇う理由にはならない。
「……そうだね。行こうか」
俺が微笑むと、彼女はパッと顔を輝かせた。
「やった! 楽しみにしてますね!」
その笑顔は、かつて美咲が作った媚びた笑顔とは違う、心からのものに見えた。
俺はもう一度ワインを口に含んだ。
フルーティーな香りと、微かな酸味。
それは、自由の味がした。
窓の外には、東京の夜景がどこまでも広がっている。
数えきれないほどの光の一つ一つに、誰かの人生がある。
その中で、俺の人生の物語は、まだ続いていく。
ページはめくられた。最悪な章は終わり、新しい、明るい章が始まったのだ。
「乾杯」
俺は誰にともなく小さくグラスを掲げ、過去の全てに別れを告げた。
グラスの中の液体が、店の照明を受けてきらりと輝いた。
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