サイドストーリー 悲劇のヒロインになりたかった私と、泥沼に沈んだ王子様の末路

鏡に映る自分は、世界で一番不幸で、そして誰よりも愛されるべき女に見えた。

頬に塗ったファンデーションは、いつもよりワントーン暗いものを選んだ。目の下には、クマに見えるように薄くシャドウを入れる。

完璧だ。これなら誰が見ても、「夫のモラハラに耐えかねてやつれてしまった可哀想な妻」に見えるはずだ。


「……美咲、準備できた?」


背後から伸びてきた腕が、私の腰を抱きしめる。新堂裕也くん。高校時代の同級生で、今は私の唯一の理解者であり、私を地獄から救い出してくれた王子様。

首筋に触れる唇の熱さに、私はとろけるような甘いため息を漏らした。


「うん、できたよ。どうかな? ちゃんと『被害者』に見える?」


私が振り返って尋ねると、裕也くんは満足そうに目を細めた。


「最高だよ。儚げで、守ってあげたくなる。これなら今日のパーティで、あの堅物の元旦那を完全に悪役にできる」

「ふふ、聡くん、どんな顔するかな。みんなの前で謝罪させられるなんて、きっと真っ青になるよね」


想像するだけで胸がすくような思いがした。

高村聡。私の夫。真面目で、仕事熱心で、浮気もしない。世間的に見れば「優良物件」なのかもしれない。

でも、彼は私を見ていなかった。

結婚してからというもの、会話は業務連絡ばかり。「飯は?」「風呂は?」「今月も忙しいから」。私の新しい髪型にも、ネイルにも気付かない。誕生日にくれたのは、私が欲しがっていたブランドのバッグではなく、ルンバだった。「家事が楽になるだろ?」なんて得意げな顔をして。

私は家政婦じゃない。私は、お姫様になりたかったのだ。もっと愛されたい、もっとチヤホヤされたい。そんな当たり前の願望が、あの無機質な生活の中でどんどん干からびていくのを感じていた。


そんな時に再会したのが、裕也くんだった。

彼は違った。私の変化にすぐに気付き、甘い言葉を囁いてくれた。「美咲はもっと輝くべきだ」「あんな男、美咲の価値を分かってない」。

彼との密会は、砂漠に水が染み渡るような快感だった。そしていつしか、私たちは「障害のある恋」に燃え上がり、聡くんという邪魔者を排除する計画を立て始めたのだ。


「DV夫」というレッテル。

最初は少し罪悪感があったけれど、一度嘘をついてみたら、それは麻薬のように私を中毒にした。

「夫が怖いの」と涙ぐむだけで、友人も親も、みんなが私に優しくしてくれる。同情してくれる。世界の中心が私になったみたいで、たまらなく心地よかった。

聡くんが困惑し、否定すればするほど、周囲は彼を「反省しない最低な男」とみなした。

ざまぁみろ、と思った。私を無視し続けた罰だ。


「さあ、行こうか美咲。今日は僕たちの門出の日だ」


裕也くんが差し出した手を、私は強く握り返した。

この手が私を幸せの国へ連れて行ってくれる。そう信じて疑わなかった。

あの瞬間までは。


***


パーティ会場の控室で、私は最後のメイク直しをしていた。

純白のドレス。ウェディングドレスではないけれど、それに近い清楚なデザインを選んだ。

「再出発」にふさわしい衣装だ。

会場からは、招待客たちのざわめきが聞こえてくる。私の両親、親戚、高校時代の友人たち。そして裕也くんの会社の人たち。

みんな、私たちが「苦難を乗り越えて結ばれた真実の愛」の体現者だと思ってくれている。

聡くんも、ノコノコと来ているはずだ。裕也くんが「最後のケジメ」として呼び出したのだから。


「美咲ちゃん、そろそろ時間よ」


母が顔を出した。その目は少し赤くなっている。


「本当に……よく頑張ったわね。あんな酷い男から逃げられて、本当によかった」


母の手を握り、「ありがとう、お母さん」と涙ぐんで見せる。これも演技プラン通り。

私は深呼吸をして、光あふれるステージへと向かった。

扉が開く。まばゆいスポットライト。割れんばかりの拍手。

その中心に立っている私は、間違いなくこの物語のヒロインだった。


裕也くんのスピーチは完璧だった。聡くんを糾弾し、私を守ると宣言する姿に、会場中の女性がうっとりとし、男性が頷いている。

そして、ついにその時が来た。

裕也くんが聡くんをステージに呼び出したのだ。

会場の隅から、猫背気味に歩いてくる聡くん。以前より少し痩せたように見える。きっと、私が出て行ってから食事もろくに取れていないのだろう。

みっともない。そんな冴えない男に、私は今まで人生を費やしていたのか。


「……ご紹介にあずかりました、高村です」


マイクを持つ聡くんの声は、意外なほど落ち着いていた。もっと取り乱して、「やってない!」と叫ぶかと思っていたのに。

彼は淡々と謝罪の言葉を口にした。そうよ、それでいいの。あなたは敗北者として、私たちの幸せを引き立てるための踏み台になればいい。

私は裕也くんの背中に隠れながら、心の中で舌を出した。


「……君たち自身の声で語ってもらう」


聡くんがそう言った時、私は「え?」と小さく声を漏らした。

自身の声? 何の話?

次の瞬間、会場の照明が落ち、背後のスクリーンに巨大な映像が映し出された。


『ギャハハ! 見てよこれ、マジでアザに見える!』


耳をつんざくような大音量。聞き覚えのある声。

それは、私自身の声だった。

スクリーンには、リビングでワインを片手に大笑いしている私が映っていた。腕には、裕也くんがメイクで描いてくれた偽のアザ。

「突き飛ばされた設定でいこう」と楽しそうに話す裕也くんの姿も、バッチリ映っている。


「うそ……」


血の気が引く音が聞こえた。

なんで? どうしてこんな映像が?

あの部屋には私たちしかいなかったはずだ。カーテンも閉めていたし、盗撮なんてされるはずがない。

思考が真っ白になる中で、映像は次々と切り替わっていく。

『慰謝料ガッポリ取るから大丈夫だって』

『あんなつまんない男、早く社会的に殺して』

私たちが二人きりで交わしていた、最低で、醜悪で、でも最高に楽しかった会話の数々。

それが今、何十人もの前で、大画面で晒されている。


会場の空気が変わった。

さっきまでの温かい同情の空気は一瞬で消え去り、氷のような冷たさと、刺すような敵意が渦巻き始めた。

「なにこれ……」

「全部嘘だったの?」

「信じられない……」

友人の軽蔑の眼差し。母の絶望した顔。父の怒りに震える拳。

やめて。見ないで。そんな目で見ないで。

私は被害者なの。可哀想な美咲なの。

みんな私を愛してくれるはずでしょう?


「違うの! これは偽物よ! AIで作ったの!」


私は必死に叫んだ。でも、自分の声がひどく甲高く、滑稽に響くだけだった。

さらに、会場中のスマホが一斉に鳴り響く。

送られてきたのは、私たちのLINEの履歴。

『今日は聡が残業だから、家に来ていいよ』

『早く死んでくれないかな、あのATM』

そんな言葉の羅列が、決定的な証拠として突きつけられる。


隣を見ると、裕也くんがへたり込んでいた。

彼の上司である部長に胸倉を掴まれ、「横領」がどうとか怒鳴られている。

王子様?

私の王子様は、どこへ行ったの?

そこにいるのは、青ざめて脂汗を流し、「違うんです」と見苦しく言い訳をする、ただの情けない男だった。


聡くんが、冷たい目で見下ろしている。

その目は、かつて私に向けられていた、不器用だけど温かい眼差しとは似ても似つかない。

まるでゴミを見るような、無機質な瞳。

「婚約、おめでとう。お似合いだよ、君たちは」

捨て台詞を残して去っていく彼の背中は、今まで見たどの瞬間よりも大きく、そして遠かった。


「待って! 聡くん!」


私は反射的に叫んでいた。

裕也くんじゃない。この泥舟から私を救い上げてくれるのは、やっぱり聡くんしかいない。

だって彼は私の夫でしょう? 私が泣いて謝れば、きっと許してくれるはず。

「私が悪かったの。全部裕也くんにそそのかされたの。愛してるのは聡くんだけなの」

必死にすがろうとしたけれど、彼は一度も振り返らなかった。

その冷たい拒絶が、私の心の息の根を止めた。


***


あれから、私の人生は色を失った。

真っ白だったり、真っ黒だったりするわけじゃない。ただひたすらに、薄汚れた灰色だ。


北関東の、名前もよく知らない街。

壁の薄いボロアパートの一室が、今の私の世界の全てだ。

実家からは絶縁された。荷物をまとめて叩き出され、「二度と敷居を跨ぐな」「お前のような娘はいない」と父に怒鳴られた時の恐怖は、今でも夢に見る。

友人たちは全員、私をブロックした。SNSのアカウントは炎上し、見ず知らずの人たちから「死ね」「詐欺師」と罵倒され続けたため、消すしかなかった。


そして、隣には裕也がいる。

かつて「王子様」だった男は、今ではただの同居人、あるいは敵だ。

仕事も失い、借金を抱え、酒に溺れる毎日。

私たちがここに来たのは、聡くんからの慰謝料請求と、借金取りから逃げるためだった。

でも、逃げきれるわけがない。給料のほとんどは差し押さえられ、手元に残るのはわずかな小銭だけ。


「おい、飯はまだかよ」


昼過ぎに起きてきた裕也が、不機嫌そうに言った。


「……カップラーメンしかないわよ。あなたが昨日、生活費をパチンコに使ったんでしょう」

「チッ、使えねえ女だな。お前がもっと稼げばいいだろ。体でも売ってこいよ」

「最低……!」


言い返す気力も湧かない。毎日これの繰り返しだ。

「お前のせいだ」「お前がそそのかしたんだ」と責任を押し付け合うだけの会話。

愛なんてものは、最初からなかったのかもしれない。あったのは、共犯者としての連帯感と、聡くんを騙すスリルだけ。それがなくなれば、後に残るのは醜いエゴの塊だけだった。


夕方、私は逃げるようにアパートを出て、近くのディスカウントストアへ向かった。

半額シールが貼られる時間を狙っての買い出しだ。

かつてはデパ地下の惣菜しか買わなかった私が、今は数十円の違いに目を光らせている。

カゴに安い野菜と割引の弁当を入れ、ふと雑誌コーナーの前を通った時、心臓が止まりそうになった。

週刊誌の見出し。

『ネットで話題! あのDV捏造カップルの転落人生』

興味本位でページをめくると、モザイク越しの私たちの写真が載っていた。

記事には、あることないこと書かれている。「女は昔から虚言癖があった」「男は女を金づるにしていた」。

吐き気がした。


その時だった。

「ねえ、あれ」

「うそ、マジ?」

制服姿の高校生たちの声が聞こえた。

彼らはスマホを見ながら、私の方を見てクスクス笑っている。


「あの『嘘泣き女』じゃん!」

「本物だ! すげー、こんなとこにいたんだ」

「動画と一緒の服着てね? ウケるー!」


向けられるスマホのカメラレンズ。

それはまるで銃口のようだった。

あの日、パーティ会場で浴びた視線と同じ。軽蔑と、嘲笑と、好奇の目。

私は買い物カゴを放り出し、悲鳴を上げて店を飛び出した。


「撮らないで! やめて!」


背後から追いかけてくる笑い声。

息が切れるまで走り続け、アパートに逃げ帰った。

玄関にへたり込み、震える手で膝を抱える。

終わらない。どこまで逃げても、あの日の私が追いかけてくる。

ネットの海に放たれた「証拠」は、デジタルタトゥーとなって、一生私の肌に焼き付いて離れないのだ。


ふと、暗い部屋の中で、昔の記憶が蘇った。

仕事から帰ってきた聡くんが、「ただいま」と言って微笑む顔。

休日に二人で並んでテレビを見ていた時間。

私が風邪を引いた時、不器用な手つきでお粥を作ってくれたこと。

あれは、退屈なんかじゃなかった。

あれこそが、何にも代えがたい幸福だったんだ。

私はその温かさを、自分の手で粉々に砕いて、ドブに捨ててしまった。


「聡くん……」


名前を呼んでも、誰も答えない。

聞こえるのは、隣の部屋で裕也がテレビに向かって悪態をついている声と、遠くから聞こえるサイレンの音だけ。

涙すら出なかった。涙を流す資格なんて、私にはもうないのだから。

私は「悲劇のヒロイン」になりたかった。

そして望み通り、私は悲劇の主人公になった。ただし、誰からも愛されず、誰からも同情されず、ただ嘲笑されるだけの、惨めな道化師として。


スマートフォンの画面が光る。

弁護士からの督促メールだ。

現実が、冷たく重くのしかかってくる。

私は膝に顔を埋め、闇の中に溶けていくことを願った。

でも、朝は必ず来る。

私にとっての朝は、希望の光ではなく、ただ残酷な現実を照らすだけのスポットライトだった。

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「夫にDVされてます」と嘘を吐き私を悪者に仕立て上げた妻と間男が、被害者面で婚約発表した瞬間に全ての証拠をバラ撒いてみた結果 @flameflame

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