第36話 それでも線を引く癖


夜。

都心から少し外れた、

小さなダイニングバー。

照明は暗めで、

BGMは控えめ。

仕事帰りの客が、

静かに酒を飲んでいる。

佐伯ミナは、

カウンター席に座っていた。

向かいには、

大学時代の友人・真希。

数年ぶりに会う。

真希

「久しぶりだね」

佐伯

「はい」

真希

「相変わらず、

 淡々としてる」

佐伯

「変わっていません」

グラスが触れ合う音。

短い沈黙。

真希

「ねえ」

佐伯

「はい」

真希

「ちょっと、

 聞いてほしいことが

 あるんだけど」

佐伯は、

一瞬だけ

視線を上げる。

佐伯

「内容によります」

真希

「……そこ、

 変わらないよね」

真希は苦笑する。

真希

「仕事の話」

佐伯

「助言を

 求めていますか」

真希

「うーん……」

真希

「ただ、

 聞いてほしい」

佐伯

「承知しました」

真希は、

少し安心したように

息を吐く。

真希

「今の職場さ」

真希

「上司が、

 ちょっと

 おかしくて」

佐伯

「具体的には」

真希

「いや……」

真希

「細かいことは

 いいんだけど」

真希

「雰囲気が

 悪いっていうか」

佐伯

「パワーハラスメントに

 該当しますか」

真希

「……え?」

真希

「そんな大げさな

 話じゃないよ」

佐伯

「では、

 業務上の不利益は」

真希

「……そこまでじゃ

 ないけど」

佐伯

「記録は

 残っていますか」

真希

「……ミナ」

真希は、

グラスを置く。

真希

「そういうの、

 やめて」

佐伯

「やめる、とは」

真希

「今はさ」

真希

「友達として

 聞いてほしいだけ」

佐伯

「はい」

佐伯

「今の時点で、

 助言は

 していません」

真希

「でも」

真希

「その聞き方が、

 もう

 仕事なんだよ」

沈黙。

店内の音が、

急に

はっきり聞こえる。

佐伯

「……確認します」

真希

「また?」

佐伯

「私の発言は、

 不快でしたか」

真希

「……少し」

即答だった。

佐伯

「理由を

 教えてください」

真希

「裁かれてる

 気がする」

真希

「正しいかどうかを

 測られてる

 感じがして」

佐伯

「裁く意図は

 ありません」

真希

「分かってる」

真希

「でもね」

真希

「“止められてる”

 感じがする」

佐伯の指が、

グラスの縁で

止まる。

佐伯

「……止めています」

真希

「……やっぱり」

佐伯

「踏み込みが

 発生したためです」

真希

「踏み込み?」

佐伯

「判断を

 求められていない

 段階で」

佐伯

「感情処理に

 介入するのは

 適切ではありません」

真希は、

しばらく黙る。

真希

「……昔さ」

真希

「ミナって、

 もっと

 適当だったよね」

佐伯

「そうでしたか」

真希

「相談すると、

 一緒に

 怒ってくれたり」

真希

「泣いてくれたり」

佐伯

「記憶に

 ありません」

真希

「……だよね」

真希は、

少しだけ

笑う。

真希

「今のミナは」

真希

「正しいけど、

 近くない」

佐伯

「距離は

 保っています」

真希

「仕事でも?」

佐伯

「はい」

真希

「……友達でも?」

佐伯

「はい」

再び沈黙。

真希

「……疲れない?」

佐伯

「疲労は

 管理しています」

真希

「そうじゃなくて」

真希

「一人で

 平気?」

佐伯は、

少しだけ

間を置く。

佐伯

「孤独は

 危険ではありません」

真希

「……そう」

真希は、

話題を変える。

真希

「ワイン、

 もう一杯

 頼む?」

佐伯

「私は

 これで」

真希

「相変わらず

 線、引くね」

佐伯

「はい」

真希

「……でも」

真希

「今日、

 会えてよかった」

佐伯

「こちらこそ」

二人は、

それ以上

踏み込まない。

店を出る。

夜風。

並んで歩くが、

腕は触れない。

別れ際。

真希

「また、

 会おうね」

佐伯

「はい」

真希

「次は、

 仕事抜きで」

佐伯

「……検討します」

真希は、

笑って手を振り、

去っていく。

佐伯は、

その背中を

追わない。

(役割は、

 外している)

(それでも)

(線を

 引いてしまう)

歩きながら、

佐伯は

理解している。

これは

職業病ではない。

癖でもない。

人格と

役割が、

すでに

分離できなくなっているだけだ。

――ナレーション

線は、

職場だけに

引かれるものではない。

正しさを

選び続けた人間は、

無意識に

距離を測る。

それは

冷たさではなく、

侵入を

拒否する技術だ。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

私生活においても

線を引いた。

誰かを

拒絶したわけではない。

ただ、

役割を

完全には

脱げなかっただけだった。

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