第三十二話 結果
診療所の扉が叩かれたのは、昼前だった。
強くもなく、弱くもない。
急いでいるようで、切迫してはいない音。
ミアが先に立ち上がる。
「はい」
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
外に立っていたのは、村の男だった。息が少し上がっている。額に汗が浮いているが、顔色は悪くない。
「先生……」
男は中を覗き込み、言葉を探すように一瞬止まった。
「倒れました」
その一言で、ミアの背中が強張る。
「誰が」
レオンが聞く。
「……昨日、来てた子です」
名前は出なかった。
それでも、誰のことかは分かった。
「どこで」
「村の外れです。走ってる途中で、急に」
ミアは何も言わず、すでに外套に手を伸ばしていた。考える前に体が動いている。
「運べますか」
「今、二人で支えてます」
「分かりました」
レオンはそう言って、最低限の道具を取る。迷いはない。声も変わらない。
診療所を出ると、空が少し高く見えた。昼の光が強い。
村外れに着いたとき、ルネは地面に横になっていた。目は閉じているが、呼吸はある。荒くはない。ただ、浅い。
ミアは膝をつき、無意識に手を伸ばしかけて、止めた。
レオンが先に脈を取る。
「……生きています」
それだけで、周囲の空気がわずかに緩む。
「意識は」
「ありません」
レオンは瞳孔を確認し、胸の動きを見る。しばらくして、静かに言った。
「今すぐ、動かします」
運ぶ途中、ルネは一度だけ小さく息を吸った。その音が、妙にはっきり聞こえた。
診療所に戻り、寝かせる。包帯を外し、状態を確認する。
ミアは道具を渡しながら、昨日の言葉を思い出していた。
――条件付きで、続けられる。
条件は、守られていたはずだ。
頻度も、距離も。
「……先生」
ミアが声をかける。
「はい」
「これは」
言葉が続かない。
レオンは答えなかった。代わりに、処置を続ける。
「意識が戻るまで、時間がかかります」
「助かりますか」
「分かりません」
その言葉は、昨日とは違う重さを持っていた。
しばらくして、ルネの指がわずかに動く。
「……」
喉が鳴る音がする。
レオンは顔を近づける。
「聞こえますか」
返事はない。
だが、その瞬間だった。
外から、別の足音が聞こえた。
村の男とは違う、整った足取り。
「医師はここか」
低い声。
扉が開き、数人の男が入ってくる。服装が違った。村の者ではない。腰の紋章を見て、ミアは息をのむ。
「王都から来た」
男が続ける。
「伝令が倒れたと聞いた」
レオンは手を止めない。
「今は診療中です」
「分かっている」
男は一歩下がる。
「だが、彼女はただの伝令ではない」
その言葉に、ミアの心臓が跳ねた。
「……何の話ですか」
レオンが問う。
「英雄部隊所属。戦場を走っていた者だ」
ミアは、無意識にルネを見る。
体の線。
重心。
間合い。
全部が、急に一つにつながる。
「医師殿」
男は続ける。
「王都へ運ぶ必要がある」
レオンは、ようやく顔を上げた。
「今の状態では、長距離移動は危険です」
「それでもだ」
「ここで安静にすれば」
「それでは足りない」
短い沈黙。
ミアは、二人の間に立つ言葉を探せなかった。
「……本人は」
レオンが言う。
「本人は、自分を伝令だと言っていました」
男は一瞬、視線を逸らす。
「そう言うでしょう」
レオンは、それ以上言わなかった。
やがて、ルネが小さく息を吸う。
「……」
目が、わずかに開く。
ミアが顔を近づける。
「ルネさん」
声は、かすれていた。
「……戻れますか」
昨日と同じ問い。
レオンは、答えなかった。
代わりに、男が言った。
「戻る必要はない。王都へ行く」
ルネの視線が、ゆっくり動く。
そして、レオンを見る。
何かを言おうとして、言葉にならない。
レオンは、短く言った。
「今は、動かないでください」
それだけだった。
判断は、変わらない。
正しかった判断も、消えない。
だが、現実は、次の場所を指していた。
王都行きの準備が始まる。
診療所は、静かに空になる。
ミアは外に出て、空を見る。
風が、少し強くなっていた。
レオンは、道具を一つ、鞄に入れた。
その手が、ほんの一瞬だけ止まる。
誰にも見えないほどの、短い間だった。
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