第三十三話 戻すという判断

 馬車は、ほとんど揺れなかった。


 王都へ続く街道はよく整えられている。石畳は均され、車輪の溝も深くない。護送用としては最上の道だ。速度を落とさずとも、荷は安定する。


 レオンは向かいの座席に腰を下ろし、背を板に預けていた。背筋は伸ばしていない。だが崩れてもいない。長く移動する者の姿勢だった。


 膝の上で両手を重ねる。力は入っていないはずなのに、指の節にわずかな硬さがある。無意識に噛み合っている。


 向かいのルネは、窓の外を見ていた。


 視線は遠い。だが焦点は合っている。目に入る景色を流してはいない。意識は外に向いているが、注意は内側に残っている。戦場に長くいた者の目だ、とレオンは思った。


 顔立ちは整っている。骨格に無駄がなく、目鼻の配置が均等だ。傷はない。化粧もない。年齢は申告通り十七だが、その数字がそのまま当てはまる感じはしない。若さよりも、抑制が先に立つ。


 呼吸は安定している。浅くはないが深すぎもしない。揺れに合わせて体幹が自然に調整されている。痛みを抱えた身体の使い方だが、限界はまだ越えていない。


 レオンは、ルネの手元に目を落とした。


 指は細い。だが皮膚が硬い。刃物を握り続けた者の硬さだ。剣か、双剣か、あるいは別の武器か。特定する必要はない。ただ、身体が役割を覚えている。


 馬車の外に、ミアの気配がある。


 幌の縁に腰を下ろし、御者の横に位置している。中に入らないのは、意図的だ。沈黙が続く空間を、彼女は選ばない。必要な距離を取ることを知っている。


 風の向きを測るように、ミアが一度だけ顔を上げた。街道の先を見ている。視線がわずかに硬くなる。王都が近い。


 護衛は前後に二人。馬車との距離を一定に保ち、余計な会話はしない。軍の者だ。役割を心得ている。


 レオンは、胸の奥にある重さを意識した。


 痛みではない。息苦しさでもない。ただ、沈殿物のようなものが、そこに溜まっている。動こうとしない。


 この感覚は、久しぶりだった。


 馬車が減速する。


「この先で水を補給します」


 護衛の声は簡潔だった。


「五分」


 レオンは頷いた。


 馬車が止まり、地面に足を下ろす。石の感触が靴底から伝わる。桶に汲まれた水に手を入れると、冷たさが一気に広がった。


 その冷たさが、別の場所を呼び起こす。


 王都の医務棟も、いつも冷えていた。

 そして、常に動いていた。

 昼夜の区別は曖昧で、時間は担架の出入りで測られる。夜明け前に運び込まれることもあれば、真昼に血塗れのまま入ってくることもある。鐘の音よりも、靴音と命令の声の方が時刻を知らせた。


 レオンは、その中央にいた。


 宮廷英雄最高判断医として、彼は処置を行う医師ではなかった。縫合や止血は他の医師が行う。彼の仕事は、もっと前段にある。


 診る。

 判断する。

 戻せるかどうかを決める。


 それだけだ。


 英雄が運び込まれると、まず彼の元に情報が集まった。部隊名、受傷の状況、現在の戦線。報告は短く、装飾はない。必要なのは事実だけだった。


 レオンは担架の横に立ち、視線を落とす。


 英雄たちは、こちらを見た。


 その視線には共通点があった。期待でも恐怖でもない。ただ、結果を待つ目だ。自分が次にどこへ行くのかを、知りたがっている。


 レオンは声を荒げない。慰めない。励まさない。


 質問は最低限だった。


「痛みは」

「どこが一番つらい」

「息はできるか」


 英雄たちは、短く答えた。戦場では、長い説明は生き残らない。


 レオンは触れる。


 脈を取る。

 呼吸を見る。

 皮膚の温度を確かめる。

 視線の揺れを観察する。


 数を数えているわけではない。だが、判断は常に比較だった。昨日と比べてどうか。先月の似た症例と比べてどうか。戻した英雄と、戻さなかった英雄との差はどこにあったか。


 それらはすべて、レオンの中に蓄積されていた。


 判断が下ると、書記がそれを記録する。


「戻れる」

「条件付き」

「七日後」

「高負荷は禁止」


 その数行で、命の進路が決まる。


 英雄たちは、頷いた。


 誰一人として、「戻りたくない」と言う者はいなかった。言えなかったのではない。そういう選択肢が存在しないことを、全員が知っていた。


 戻れると言われれば戻る。

 戻れないと言われれば、その場に留まる。


 それが制度だった。


 レオンは、その制度の中で働いていた。


 戻した英雄が戦線に復帰し、成果を上げた報告が入ることもあった。街が守られ、住民が避難できたという知らせも届いた。


 そのたびに、周囲はレオンを評価した。


 正確だ。

 冷静だ。

 英雄を生かす医師だ。


 だが、レオン自身は、それを評価とは受け取っていなかった。医師として当然の仕事をしているだけだと考えていた。


 間違えないこと。


 それが最も重要だった。


 感情は排除すべきものだった。情に流されれば、判断が鈍る。判断が鈍れば、英雄が死ぬ。英雄が死ねば、戦線が崩れる。


 だから、感情を挟まない。


 それが正しさだと信じていた。


 医務棟の一日は、そうして積み重なっていった。


 担架が来て、判断が下り、担架が去る。


 その合間に、別の担架が来る。


 夜が明けても、流れは変わらない。蝋燭が減り、補充されるだけだ。


 レオンは休息を取ったが、眠りは浅かった。呼び出しがあれば、すぐに立ち上がった。判断を求められれば、迷わず応じた。


 その日々の中で、彼は数え切れない英雄を戻した。


 誰一人として、恨みの言葉を向ける者はいなかった。


 皆、同じように礼を言い、戦場へ戻っていった。


 その積み重ねが、彼を宮廷英雄最高判断医にした。


 そして、その積み重ねこそが、後に彼を壊すことになるとは、当時の彼は知らなかった。


 厚い石壁に囲まれ、外光は高窓からわずかに入るだけ。白く塗られた床と壁は、血を拭き取るための色だ。清潔さのためではない。痕跡を残さないための白。


 担架が運び込まれる。報告が続く。戦況、受傷部位、負傷時刻。簡潔で、感情のない言葉が並ぶ。


 レオンは診た。


 触れる。脈を取る。呼吸を見る。皮膚の温度と色を確かめる。瞳孔の反応を見る。返ってくる反応の速さと遅さを比べる。


 道具は最低限だった。器具よりも、指先の感覚の方が信頼できた。


 戻れるか。


 その判断だけが求められた。


 英雄が一人いるかいないかで、戦況は変わる。前線が持つか、崩れるか。撤退の判断が間に合うかどうか。英雄がいる側は踏みとどまる。いない側は、数字で負ける。


 英雄は、人である前に戦力だった。


 その戦力を再び投入できるかどうか。それを決めるのが、宮廷英雄最高判断医の役目だった。


 レオンの判断は、軍議に先立って提出された。


 戻れる。

 条件付き。

 何日後。

 何を避けるべきか。


 その一行で、部隊が動き、街が守られ、別の街が捨てられることもあった。


 国を動かす役職だった。


 だが、レオンはそれを特別だとは思っていなかった。医師として、正しいことをしているだけだと信じていた。


 英雄を救う。


 その言葉に、疑いはなかった。


 彼女も、その一人だった。


 若く、強く、静かな目をしていた。診察台の上でも落ち着いていた。自分の身体の状態を理解しようとする目だった。


「戻れますか」


 聞き方は簡潔だった。覚悟があった。


 レオンは、いつも通りに説明した。


「戻れる。だが、条件がある」


 彼女は頷き、礼を言った。


 戻った。


 また戻ってきた。


 同じように診て、同じように説明し、同じように戻した。


 その間にも、別の英雄が運び込まれ、別の判断が下された。


 それが日常だった。


 最後に彼女が運び込まれたとき、レオンは指先で理解した。


 脈が弱い。

 呼吸が持たない。

 末端の温度が戻らない。


 戻れない。


 事実だった。


 レオンはそう告げた。いつもと同じ声で、同じ速さで。


 彼女は取り乱さなかった。怒りもしなかった。恨みの言葉もなかった。


 ただ、少し考えるように目を伏せてから、言った。


「―――先生、いつも戻してくれてありがとう。」


 それだけだった。


 感謝だった。


 だから、消えなかった。


 彼女は静かに死んだ。

 医務棟は止まらなかった。

 次の担架が来て、床は拭かれた。


 書類には戦死、あるいは負傷後の衰弱死と記された。


 その言葉は、どこにも残らなかった。


 残ったのは、あの一言だけだった。


 戻す。


 その言葉の意味が、その瞬間に変わった。


 戻すとは、治療の結果を伝えることではない。回復の程度を示すことでもない。


 役割へ戻すということだった。


 英雄は、役割の中で生きている。戻れると言われた瞬間に、道は一本になる。戻らない未来は、制度の中に用意されていない。


 医師の言葉は、選択肢ではなく合図になる。


 自分は、その合図を鳴らし続けていた。


 判断は間違っていなかった。

 だが、言葉が人を役割へ押し戻していた。


 役割まで考えなければ、医師ではないのではないか。


 その問いに答えられないまま、判断を続けることはできなかった。


 だから、辞めた。


 宮廷英雄最高判断医を辞めた。


 馬車の揺れが、現在を引き戻す。


 ルネが小さく咳をした。ミアが即座に距離を詰める。言葉は出さない。


 レオンは言った。


「痛みは」


「あります。でも、言えます」


 それで十分だった。


 可能性と条件だけを示す。

 生き方の選択は、患者に返す。


 それが、今の自分の医療だ。


 馬車は進む。

 道は続く。


 胸の奥の重さは消えない。

 だが、形は定まっていた。


 それでいい。

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