第三十一話 前提
レオンが扉を開ける前から、ミアは中にいた。夜明けと同時に来たわけではない。ただ、いつもより少し早かった。それだけの違いのはずなのに、診療所の中は妙に広く感じられた。
薬棚の前で立ち止まり、ミアは瓶の並びを確かめる。順番は合っている。昨日と同じ。欠けたものもない。それでも一度、一本だけ取り出し、また元に戻した。理由はない。指がそう動いただけだ。
レオンは奥で湯を沸かしている。火を起こす音が、静かな室内に小さく響く。いつもと変わらない朝の音だ。
「……今日は、来る人少なそうですね」
ミアが言うと、レオンは火から目を離さずに答えた。
「そうかもしれません」
それだけだった。
ミアは診療台の布を整えながら、視線が自然と一か所に向かっていることに気づく。昨日、ルネが座っていた椅子だ。特別な椅子ではない。診療所にある、いくつかの椅子のうちの一つ。それでも、そこだけが少しだけ空いて見えた。
布を伸ばし、端を揃える。角がわずかにずれていたのを直す。そうしている間も、頭のどこかが別のことを考えていた。
ルネの声。
倒れます、という即答。
慣れています、という言葉。
思い返そうとすると、なぜか輪郭がぼやける。はっきり覚えている部分と、抜け落ちている部分が混じっている感覚だった。
「ミア」
レオンの声で、我に返る。
「はい」
「包帯は、いつもの位置に戻しておいてください」
「……あ、はい」
慌てて棚に戻す。自分が、必要以上に同じ場所を触っていたことに気づく。ミアは小さく息を吐いた。
診療所の外から、足音が聞こえる。だが、扉は叩かれない。そのまま遠ざかっていく。通り過ぎただけらしい。
ミアは窓の外を一瞬見る。村の朝は、変わらない。畑へ向かう人、桶を抱える子ども、井戸の周りの声。いつも通りだ。
なのに、自分の中だけが、少し遅れている。
「先生」
ミアは、包帯を畳み直しながら言った。
「はい」
「……昨日の子、覚えてますか」
聞いてから、少し曖昧な言い方だったと気づく。昨日の子、という言葉が、診療所には多すぎる。
レオンは湯を注ぎ、カップを置いてから振り向いた。
「ルネさんのことですか」
名前が出たことに、ミアは一瞬だけ安心する。
「はい」
「ええ、覚えています」
それ以上は続かない。覚えている、という事実だけが置かれる。
ミアは言葉を選ぶ。選んでいるうちに、何を聞きたいのか分からなくなる。
「……あの子って、本当に」
一度、口を閉じる。
「本当に、ただの伝令なんでしょうか」
言ってから、胸の奥が少しだけ締まる。聞き方がよくなかった気がした。何を疑っているのか、自分でも説明できない。
レオンはすぐには答えなかった。棚から薬瓶を一つ取り出し、ラベルを確認する。その動作が終わってから、ようやく口を開いた。
「本人は、そう言っていました」
淡々とした声だった。
「短い距離を、日に何度か。伝令として働いている、と」
「……はい」
ミアはうなずく。
否定する材料はない。ルネ自身がそう言った。それを診療の前提にするのは、医師として当然だ。
それでも、ミアの中の違和感は消えなかった。
「座り方が……」
思わず口に出してから、慌てて言い直す。
「いえ、なんでもないです」
レオンは問い返さない。ただ、ミアの方を一度だけ見てから、作業に戻った。
ミアは診療台の端に指を置く。昨日、ルネがそこに手をついて立ち上がったときの動きが、頭から離れなかった。
力を使っていないのに、体が安定していた。
急いでいるわけでもないのに、間合いが正確だった。
伝令として走る人の体つき、と言われれば、そうなのかもしれない。そう言い聞かせようとする。自分は英雄だった。だから、何でもそう見えてしまうだけだ、と。
英雄を見誤るほど、鈍っているはずがない。
そう思う一方で、だからこそ、見逃さないはずだという感覚もあった。
「ミア」
レオンが声をかける。
「はい」
「今日は、午前中で一度閉めます」
「えっ」
「午後は、往診に出ます」
予定を聞いていなかったことに驚くが、それも特別なことではない。レオンは必要なことを、必要なタイミングで伝える人だ。
「分かりました」
ミアは答え、帳面を確認する。予定を書き込む手が、少し遅れる。
診療所の空気は、穏やかだった。患者が来なければ、それはそれで普通の時間が流れる。レオンはそれを乱さない。
ミアだけが、同じ場所を何度も見ている。
椅子。
扉。
床の、足音が残りそうな場所。
「先生」
もう一度、ミアは言った。
「はい」
「もし……」
言葉が続かない。
もし、違っていたら。
もし、あの子が申告していない何かを抱えていたら。
でも、それは診療の外だ。昨日、レオン自身が線を引いた。
「……いえ」
ミアは首を振る。
「何でもありません」
レオンはそれ以上踏み込まない。踏み込む理由がないからだ。
昼が近づく。外の音が少しだけ賑やかになる。診療所の中は、相変わらず静かだ。
ミアは布を畳み、道具を整える。手は動いている。体も、いつも通りだ。
ただ、心だけが、少しずれている。
ルネは戻れる、と言われた。
条件付きで、続けられる、と判断された。
その判断は、間違っていない。
ミアにも、それは分かる。
それでも、昨日のあの動きが、あの間が、あの沈黙が、胸に残って離れなかった。
診療所の扉は、今日も静かに閉まっている。
何も起きていない。
ただ、それだけの一日が、ゆっくりと昼へ向かって進んでいた。
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