第5話 告白

「逃げるなよ、俺。ここで逃げたら、一生だ」


 その言葉を口の中で噛み殺した瞬間、胸の奥が熱く跳ねた。モニタの前に座ったまま、両手を握りしめる。指先がわずかに震えている。それでも目だけは、画面の少女――姫宮みことを真正面から捉えて離さなかった。


 昨夜のテスト配信のログを再生する。笑顔は固い。声は震えている。間は長く、言葉はぎこちない。だが、そこには確かに視聴者のコメントが重なっていた。


〈声かわいい〉

〈BGMあるといい〉

〈真面目で好き〉


 あのわずかな言葉たちが、いまも胸の内側で小さく灯り続けている。


「……もっと良くできる。絶対に」


 独り言が、静かな部屋に落ちる。椅子から立ち上がり、防音カーテンを閉じ直す。照明の角度を数センチずらし、リングライトを顔ではなく壁に向ける。柔らかい反射光が、アバターの輪郭をふんわりと包む。


 マイクの角度を変え、ポップガードを近づける。息のノイズが減る。チェック用の録音をいくつも残し、波形を見比べる。音は正直だ。誤魔化しは利かない。


「挨拶、十秒以内。迷わない。噛まない」


 メモ帳の上でペン先が走る。


 ・開幕で名前と目的

 ・質問を一つ

 ・沈黙は三秒以内

 ・リアクションを大きく


 声に出して読み上げ、鏡の前の自分に向かって頭を下げる。滑稽だと一瞬思う。だが同時に、その滑稽さが妙に誇らしかった。


 かつては、どれだけ準備しても結果は誰かの手柄だった。失敗だけが自分の責任だった。

 いまは違う。努力はそのまま「姫宮みこと」の強さに変わる。積み上げたものが確実に自分へ戻ってくる。


 胸の奥に、小さな炎が宿る。


 録画テストを重ねるうち、感覚が少しずつ掴めてくる。顎を引くと表情が柔らかくなる。瞬きを意識すると、アバターの目が生きる。微笑む角度を一度だけ大きくすると、画面の空気が温かくなる。


「……よし。次は台本だ」


 机の上に、白紙のノートを広げる。


『第二回テスト配信・構成案』


 1. 開幕挨拶(10秒)

 2. 前回のお礼と学び

 3. 自己紹介を短く

 4. 質問コーナー案

 5. 雑談1本

 6. まとめ→挨拶


 書きながら、ふと笑みがこぼれる。まるで新人研修の資料を作っているみたいだ。だがそこに上司はいない。評価するのは視聴者と、自分自身だけだ。


「……怖いけど、楽しみだな」


 呟いた瞬間、胸の奥が不意に締めつけられた。

 怖い――その感情は確かにある。だが昨日までの「逃げたい恐怖」ではなかった。

 それは「失いたくない期待」だった。


 失敗したら終わり、ではない。

 だが、ここで諦めたら、きっと一生後悔する。


 スマホが震える。通知が一件。配信サイトからのメッセージだ。


〈昨日の配信、面白かったです。次も楽しみにしてます〉


 短い文が、心臓に静かに沈んでいく。

 誰かが覚えている。

 誰かが待っている。


「……ありがとう」


 誰に向けての言葉かわからないまま、声がこぼれた。


 椅子に座り直し、配信画面を立ち上げる。テストモード。BGMを微かに流し、マイクを通した声をイヤホンで確認する。


「こんばんは、姫宮みことです。今日はテスト配信二回目。前回の反省を踏まえて、少しだけ……」


 口が自然に動く。

 言葉が流れる。

 震えは、ほとんどない。


 数度リハーサルを繰り返すうち、時間の感覚が消えていく。

 気づけば、外の空は薄い群青色に変わっていた。


 ふと、画面の少女と視線が重なる。

 微笑みが返ってくる。


「……行けるか」


 胸の奥で、小さく火が爆ぜる。


 右手が、配信開始ボタンの上で止まる。

 昨日よりも、指先の震えは少ない。

 だが、鼓動は昨日より速い。


 この一歩の先に、何が待っているのか。

 成功か、失敗か、嘲笑か、歓声か――


 分からない。


 だが、たった一つだけ、確かなことがある。


「ここからが、本当の始まりだ」


 指が、静かにボタンを押し込んだ。


 ――配信が始まった。



 ◇◇


 配信開始と同時に、画面に広がったのは新しい待機画面だった。淡い桜色を基調に、姫宮みことの微笑むイラストが中央に浮かぶ。角度をつけた立体的なタイトルロゴ。下部には控えめに流れる光のライン。自作サムネイルは、前回の簡素な黒背景とは比べ物にならなかった。


 コメント欄が、静かに、しかし確実に動き始める。


〈サムネ進化してる〉

〈おしゃれになってる!〉

〈待機〜〉


 モニタの横で、ミキサーのランプが規則正しく点滅している。音量は一定、ノイズは限りなく少ない。新調したコンデンサマイクが、息遣いまで澄んだまま拾ってくれる。ポップノイズは皆無。BGMはプロ仕様のフリー音源を調整し、−18dBで薄く敷いた。


「こんばんは、姫宮みことです。来てくれて、ありがとうございます」


 声が流れる瞬間、画面の少女が自然に瞬きをする。表情トラッキングも昨日とは別物だ。頬の動き、口角の微妙な揺れまで滑らかに反映されている。照明は二灯から三灯へ。影は柔らかく散り、白飛びもない。


〈音めっちゃ綺麗〉

〈今日クオリティ高くない?〉

〈プロ!?〉


 聖士は胸の奥で静かに息を吸い込み、予定どおりに進行を始める。


「まずは、前回のテスト配信を見てくれたみんな、本当にありがとう。今日は少しだけ環境を整えてみました。音と光、それからカメラの追従……どうかな、見やすい?」


 コメント欄の速度が、じわりと上がる。


〈かなり見やすい!〉

〈表情自然になってる!〉

〈配信機材どこの使ってるの?〉


 数日前まで、配線一つで手こずっていた男の部屋だった。

 今日は、防音壁に囲まれたミニスタジオだ。


 ミラーレスカメラ、強化されたトラッキングスーツ、オーディオインターフェース、デュアルPC配信。設定は深夜まで試行錯誤し、最終的に全てのレイテンシを抑え込んだ。


 モニタの隅で、同接数の数字が静かに跳ね上がる。


 578 → 942 → 1203


「今日は雑談と、ちょっとだけ歌……の前に、まずは自己紹介を短くやり直します」


 声色は柔らかく、それでいて芯があった。

 前回の震えは、もうどこにもない。


「姫宮みこと。趣味はゲームと創作、それから――まだ秘密だけど、頑張ってる夢があります。ここから、一緒に歩いてくれると嬉しいな」


〈かわいい〉

〈語尾好き〉

〈前より堂々としてる〉

〈推す〉


 呼吸の間すら計算されている。

 沈黙が三秒を超えることはない。


 話題は軽妙に移り変わる。過去のゲームの思い出。好きな食べ物。小さな失敗談。適度に自虐を混ぜ、笑いを誘う。コメントを拾いながら、テンポは崩さない。


 同接数がさらに跳ねる。


 1489 → 2031 → 2678


〈伸びてるw〉

〈通知で来たけど何この完成度〉

〈新人じゃなくて実はベテランでは?〉


「今日はテストだから、短め……のつもりだったんだけど、楽しくてね。ありがとう。来てくれる人が増えて、少しだけ勇気を出そうと思います」


 声のトーンが、ほんの少しだけ落ちる。

 背景のBGMがフェードダウンする。


 画面の少女が、どこか切なさを帯びた微笑みを浮かべた。


「一つ、大事なお話をしてもいいかな」


 コメントが一気に走る。


〈え〉

〈重大発表?〉

〈なに?〉


 胸の奥で鼓動が鳴る。

 息を吸い、吐く。


 この瞬間のために、覚悟を積み重ねてきた。


「……私はね」


 一拍、間を置く。


「中身は、おっさんです」


 静寂。

 コメント欄が一瞬止まる。


 すぐに、爆発するように文字が流れた。


〈!?〉

〈バ美肉!?〉

〈まさかの告白〉

〈でも声かわいいから問題なし〉

〈逆に推せる〉


「正確に言うと、男として生きてきた人間が、女の子の姿で配信しています。嫌だったら、ごめんなさい。でも――この姿が、いまの自分の“本気”なんです」


 声は震えていなかった。

 視線は逃げていなかった。


「だから、正直に言いました。隠したまま、みんなと進みたくなかったから」


 同接数が跳ね上がる。


 3402 → 4711 → 5290


〈正直者すぎて逆に信用できる〉

〈応援する〉

〈それでも好き〉

〈むしろ好感度爆上がり〉

〈バ美肉最高〉


 胸の奥に熱が灯る。


 誰もいなかったはずの場所に、

 今は、確かに人がいる。


「ありがとう。……本当に、ありがとう」


 姫宮みことが笑う。


 画面の少女は、誰よりも柔らかく輝いていた。


 配信終了ボタンへ伸ばした指先が、静かに握りしめられる。


 ここから先は、もう後戻りできない。

 だがその道は、孤独ではなかった。


 夜の東京の光が、窓の向こうで瞬く。

 新しい人生の灯火のように。


 ――配信は、静かに幕を閉じた。

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