第6話 灯る名前

 配信から数日が経った。


 部屋の空気は静かだが、以前の静けさとはまるで違っていた。

 止まっていた部屋ではない。積み上がり、動き続けている部屋だ。


 朝、遮光カーテンの隙間から光が差し込むより先に、聖士は目を覚ます。ノートPCを開き、録画した配信ログを再生する。声、間、テンポ、呼吸。ひとつひとつを止め、巻き戻し、また再生する。


「サ行が少し甘いな……息が抜けてる」


 独り言が落ちる。波形の山がかすかに揺れる。


 その日の昼、彼は新宿の雑居ビルにいた。古いエレベーターを上がった先、ドアに貼られた小さなプレートには「ボイストレーニングスタジオ」と書かれている。


「では、今日は腹式呼吸と、響きの位置を確認していきましょう」


 トレーナーの女性は穏やかな笑みで言った。

 鏡の前に立つ聖士は、胸ではなく腹に息を満たす。

 喉に力を入れない。声を前へ押し出す。


「あー……あー……」


 低く、短い声が室内に落ちる。

 次第に響きが変わり、音が柔らかく伸び始める。


「いいですね。声を作るんじゃなく、見つけるんです。あなたの中に、もともとある声を」


 言葉が胸に沁みた。


 配信のための声。

 役割の声ではない。

 生きるために必要になった、新しい声。


 レッスンは一時間で終わった。だが身体の奥では、まだ声が響き続けていた。


 帰り道、彼はスマホを握りしめながら地下街を歩く。

 通知がひとつ、またひとつ光る。


〈昨日の配信、泣きました〉

〈みことちゃんの声、落ち着く〉

〈次はいつ配信?〉


 胸の奥が、静かに熱を帯びる。


 夜。

 タワーマンションの防音室の中で、機材の光が青白く瞬く。


 新たに導入したスタジオ用マイクプリアンプ。

 遅延を限界まで切り詰めたオーディオ設定。

 トラッキング精度を高めるための追加センサー。


 ケーブルは整然と束ねられ、無駄がない。

 机の上には、手書きのメモがいくつも並んでいる。


 ・息を短く切らない

 ・語尾を甘くしすぎない

 ・感情は声だけで表現しすぎない

 ・笑うとき、必ず間を作る


 聖士は小さく息を吐いた。


「よし……」


 深夜一時。

 都市の灯が遠くで瞬き、窓の向こうの世界は静かに沈んでいる。


 配信通知は出さない。

 ゲリラでもなく、ただ「やりたいから」始める配信だ。


「こんばんは、姫宮みことです。もう夜中だから、静かに……」


 BGMは低く抑えたピアノ。

 囁くような声。

 画面の少女は、月明かりのように微笑んでいる。


 コメント欄が少しずつ灯る。


〈お、偶然来た〉

〈深夜配信うれしい〉

〈眠れなかったから助かる〉


 人数は多くない。

 だが、その少なさが愛おしかった。


「今日は少しだけ練習配信。声の調整と、みんなとお話したくて」


 話題は静かな雑談から始まり、短い朗読へと移る。

 低く、柔らかな声が、防音室の奥にしっとりと響く。


 視聴者のひとりが、こんなコメントを残した。


〈最初の配信から見てます〉


 聖士の心臓が小さく跳ねる。


〈もしよければ…いつかサムネ描かせてください〉


 配信終了後、同じ名前のアカウントからDMが届いていた。


 メッセージは丁寧で、拙さが混じっている。

 だが、そこに込められた熱量は真っ直ぐだった。


〈まだ勉強中のイラストレーター志望ですが、最初に来た配信で、初めて“推したい”と思いました。もし嫌でなければ、成長途中でもいいなら、サムネイルを描かせてください〉


 スクロールすると、数点のラフが添付されていた。

 線はぎこちない。色も荒い。

 だが――


 どの一枚も、温かかった。


「……最初に来てくれた人、か」


 思い返す。

 視聴者ゼロから、わずかに灯った最初のコメント。

 寂しさと救いが同時に胸へ落ちた夜。


 今度は、自分が救われている。


 聖士はキーボードの上で指を止めたまま、ゆっくり息を吸う。


 返信の言葉を慎重に並べていく。


〈ありがとうございます。あなたが最初の視聴者のひとりで、本当にうれしいです。未完成でも、成長途中でも、ぜひ描いてください。僕もまだ成長途中なので〉


 送信ボタンを押す瞬間、

 胸の奥で何かが確かに結びついた気がした。


 配信者と視聴者。

 憧れと努力。

 孤独と灯り。


 静かな夜の防音室で、

 新しい縁が、静かに息をし始めていた。


 ◇◇


 ボイストレーニングを終え、スタジオの階段を降りたとき、外の空気は夕焼けの色に染まっていた。通りの人影が長く伸び、街のざわめきがゆっくりと夜へ移ろい始める。


 駅までの道を歩きながら、聖士は今日のレッスンを反芻する。腹に息を落とす感覚。声を響かせる位置。意識しただけで、喉の奥がわずかに軽くなる。


「……次の配信で試してみるか」


 小さく呟いたときだった。


 前方の歩道に、小柄な女の子の姿が見えた。肩までの髪。学校帰りのリュック。

 一瞬で胸の奥が強く締めつけられる。


 娘――彩音。


 立ち止まるべきか迷い、足だけが勝手に歩みを続けてしまう。距離が縮まり、すれ違いざま、呼びかける言葉が喉まで込み上げる。


「あ――」


 声にならない音が喉で途切れた。


 彩音は、視線を横に振ることなく通り過ぎた。

 聖士の存在など、そこに最初からなかったかのように。


 空気が一瞬、ひどく冷たくなる。

 背中に残るのは、無言という名の拒絶。


 振り返ることはできなかった。

 ただ、硬く握った拳だけがポケットの中で震えていた。


「……ごめん」


 誰にも届かない言葉が、夕闇に溶けて消えていった。


 電車に揺られながら、聖士はスマホを開く。

 DMの通知がひとつ、またひとつ光る。


 あの、最初の視聴者――絵師志望の若者からだった。


〈昨日送ったラフ、少し修正しました。影の入れ方を勉強してます〉

〈まだ未熟ですが、成長の過程ごと見てほしくて〉


 添付された新しいラフには、線の迷いが少し減っていた。

 色はまだ粗い。それでも、確かに前へ進んでいる。


〈すごい。前より柔らかい表情になってます〉

〈ありがとうございます。みことさんの雰囲気、少しだけ掴めてきた気がします〉


 メッセージの行間から、必死に食らいつく姿が伝わってくる。


 きっと、この子も戦っている。

 自分の足で何かを掴もうとしている。


〈今度の配信のサムネ、使わせてもらっていいかな〉


 送る指先が、自然と軽くなっていた。


〈はい。全力で描きます〉


 スマホの画面が、静かに温かく光った。


 夜。

 防音室のドアを閉め、照明を落とす。

 モニタの光だけが、部屋の空気を淡く染める。


 新しいサムネイルが、待機画面に表示されていた。

 線はまだ粗い。陰影も甘い。

 だが、そこには確かな「温度」があった。


「こんばんは、姫宮みことです。今日は少しだけ……挑戦してみます」


 声は以前より落ち着いていた。

 腹で支え、喉を締めつけない。


 コメント欄が静かに流れ始める。


〈新サムネかわいい〉

〈誰が描いたの?〉

〈雰囲気すごく合ってる〉


「今日のサムネはね、最初期から来てくれてる視聴者さんが描いてくれました。まだ勉強中って言ってたけど……私は、とても好きです」


 画面の少女が、柔らかく微笑む。


〈いい話〉

〈成長してく絵っていいよな〉

〈人の縁って尊い〉


 胸の奥に、少しだけ熱が灯る。

 さっきの、歩道の冷たさとは違う温度だ。


 配信は、雑談から小さな朗読へと進む。

 声を落とし、感情を削り、言葉の余韻だけを残す。


 視聴者数は多くない。

 だが、離れる者もいない。


 終盤、聖士は少しだけ真面目な話を切り出す。


「最近、配信のことをいろいろ勉強してます。伸ばすための方法とか、SNSの使い方とか」


 コメントがわずかに活気づく。


〈宣伝は大事〉

〈クリップ切り抜きとか?〉

〈Xアカウント作ろう〉


「うん。配信の切り抜きを短くまとめて、毎日一つだけSNSに投稿しようと思ってる。派手じゃなくていいから、コツコツ積み重ねたい」


 机の上のノートには、びっしりと書き込まれた計画がある。


 ・毎日一投稿

 ・固定リプに配信スケジュール

 ・ファンアート用タグ

 ・引用リツイートは必ず反応

 ・「ありがとう」を惜しまない


 誰にも評価されなかった仕事のメモではない。

 いまは、未来へ向けて刻む線だ。


「焦らないで、でも止まらないで。そんな進み方が、いまの私には合ってる気がします」


〈好きな進み方〉

〈ゆっくりでいい〉

〈一緒に成長しよ〉


 モニタの向こうに、確かな温度が広がっていく。


 配信を締めくくる前、聖士はふと呟いた。


「……いつか、今日描いてくれたサムネを、“最初の一歩”って笑って振り返れる日が来たらいいね」


 画面の少女が、静かに微笑む。


〈その日まで推す〉

〈一緒に行こう〉

〈成長記録、見届けたい〉


 配信終了ボタンを押したあとも、胸の奥に温かさが残っていた。


 外の夜景は冷たい光を放っているのに、

 部屋の空気は、不思議と優しかった。


 そして、聖士は静かに誓う。


 誰かに無視される人生のままでは終わらない。

 見つめ返してくれる人たちと、前へ進む。


 たとえ、まだ影の中にいたとしても――

 その名を呼んでくれる声が、ここにある限り。

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