第4話 Vtuber『姫宮みこと』
配信開始のボタンを押した瞬間、胸の奥で小さく爆発が起きたようだった。無音の部屋に、PCのファンの回転音だけがかすかに響く。配信用モニタには、誰もいないチャット欄と、アバターの自分――いや、「姫宮みこと」が静かに微笑んでいた。
喉が乾く。息を吸い込む。
「こ、こんばんは……いえ、初めまして。姫宮みこと、です……」
自分の声が、ボイスチェンジャーを通って画面の向こうへ流れていく。思っていたより高く、澄んだ声だった。だが、それが本当に「可愛い」のか、自分では判別できない。胸の奥で、何かが軋む。
視聴者数──0。
秒針のように流れていく数字のない時間が、やけに長く感じられた。手のひらに汗が滲み、マウスを握る指先がきゅっと固まる。
「えっと……今日はテスト配信ということで……マイクと音声、それから……モデルの動作確認を兼ねて、少しだけお喋りしようと思います」
自分で用意した原稿をなぞるように言葉を並べる。だが、空虚な返答のない空間に話しかけるのは、思った以上に心を削る行為だった。沈黙が一瞬伸びるたび、胸の奥に暗い影が広がっていく。
そのとき、小さく音が鳴った。
視聴者数──1。
「……!」
喉の奥で、声にならない息が跳ねた。チャット欄に、ぽつんと文字が浮かぶ。
〈はじめまして〉
それだけの短い言葉が、心臓を拳で叩かれたように響いた。見知らぬ誰かが、いま、この瞬間、自分の声を聞いている。世界のどこかで、自分に時間を割いている。
それは、驚くほど重い事実だった。
「は、はじめまして……!来てくれて、ありがとうございます……!」
声が震えないよう必死に抑えながら返す。モニタの端に映るアバターが、わずかに口元を緩める。自分の感情が、そのまま映像へ変換されていく。
〈声かわいいですね〉
その一行で、胸の奥に溜まっていた黒い重りが、少しだけ軽くなった気がした。
「本当ですか……?まだ不慣れで、音量とかバランスとか、変なところがあったら遠慮なく言ってくださいね」
〈少しマイク小さいかも〉
「了解です……少し上げますね」
設定画面を開き、マイク入力を五パーセントほど引き上げる。手元でカチカチと音が鳴り、そのたびに、過去の会議室で響いた上司の舌打ちの記憶が遠ざかっていく。
テスト用に決めていた話題を、ひとつ、またひとつと口にする。今日買ったマグカップの話。新しい部屋の防音の話。少しだけ、ゲーム配信への憧れの話。
〈初配信?〉
「はい。まだ、今日が……本当に最初の日です」
〈緊張してるの伝わるw〉
「で、ですよね……!」
自嘲混じりに笑う声が、ヘッドセット越しに自分の耳へ返ってくる。その往復が妙に愛おしい。
〈でも真面目そうで好き〉
わずか十数文字のコメントが、胸の中心で静かに灯りをともす。自分という存在を、まだ何も知らない誰かが「好き」と書いている。それは、救済にも似た感覚だった。
気づけば、視聴者数は3に増えていた。誰もいなかった部屋に、人の気配が満ちる。見えない観客たちが、画面の向こうで息をしている。
だが、その温度に甘えかけた瞬間、別のコメントが落ちてきた。
〈BGMないと寂しいかも〉
〈表情ちょっと固い〉
胸が小さく痛む。だが、同時に、ありがたいと思った。
「ご指摘ありがとうございます……!BGM、仮のものを入れてみますね」
著作権フリーの軽いピアノ曲を再生する。アバターの笑顔を少し大きめに調整し、瞬きの頻度を微妙に上げる。指先は忙しく動くのに、心は不思議と落ち着いていた。
〈いい感じになった〉
「本当によかった……助かります」
短いテスト配信は、三十分ほどで終えた。最後の挨拶をすると、チャット欄にいくつかの「おつ」の文字が流れ、やがて画面は静寂を取り戻す。
配信停止のボタンを押した瞬間、背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。
「……はあ……」
孤独に慣れていたはずの部屋が、もう以前と同じ空間には見えなかった。さっきまでここには誰かの声があった。誰かの言葉が飛び交い、自分の声が届いていた。
その余韻が、まだ空気の中に残っている。
すぐに録画データを開き、最初から見直す。自分の声の震え。言葉の間延び。視線の泳ぎ。アバターの口の動きがわずかに遅れる瞬間。気になる箇所に付箋アプリでメモを重ねていく。
「挨拶、長すぎる……導入をもっと短く……」
今まで、他人から一方的に評価されるばかりだった人生だった。上司の声、元妻の舌打ち、同僚の視線。だがいま、初めて「自分で自分を評価する」という作業をしている気がした。
改善点を洗い出し、設定をいじり、ライティングを微調整する。BGMの音量を少し下げ、挨拶文を半分に削る。笑顔のトラッキングを滑らかにするため、カメラ位置を三センチだけ変える。
机の上にメモ帳を広げる。
・開幕10秒で自己紹介
・感謝→本題の順
・質問を投げる頻度を増やす
・沈黙は3秒以内で回収
書き込むペン先が止まらない。
かつての仕事では、努力は当然、成果は他人のものだった。だが今は違う。改善すれば、そのまま「姫宮みこと」の成長になる。積み重ねたすべてが、自分へ返ってくる。
胸の奥で、静かに熱が灯る。
「次は……もっと、ちゃんとやれる」
小さく呟いた声は、不思議と震えていなかった。
夜は更け、窓の外に街の灯りが溶けていく。それでも、モニタの光だけは消えず、画面の中の少女はいつまでもこちらに微笑み続けていた。
そして、その笑顔はもう、単なる映像ではなかった。自分の第二の顔。自分がようやく見つけた、新しい呼吸だった。
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