06
でもフローリングをぴかぴかに掃除して、
雪崩を起こしていた本を元通りに積み上げて、
一ヶ月一度も使わなかったキッチンで、志麻先輩が作った作った焼きそばを食べてる頃には、胸が少しだけすぅっとなっていた。
「あれだけ散らかった部屋で暮らしてたら、鬱屈してムカムカするに決まってるだろ。自然で当然なことだよ」
ダイニングテーブルの向かいで、焼きそばを食べる志麻先輩が言った。どこから見つけたのか、星型のピン止めで前髪をとめている。
一ヶ月ぶりに見たダイニングテーブルの表面は、電球に照らされてつやつやしていた。
空気の入れ替えのために開けた窓からは、微かに虫の鳴き声が聞こえてくる。外はすっかり暮れていた。
「片付ける気力がわかなかったんです」
少しピリ辛で、目玉焼きの乗った焼きそばを静かに食べた。空腹のお腹に、濃いソースが絡んだ太い麺がどかどか溜まっていく。
炒め過ぎた野菜はくたくただけど、奥歯で噛めば噛むほどじゅわっと旨味が出て美味しい。目玉焼きはお月さまみたいに黄色く丸い。
一方の志麻先輩の焼きそばの上の目玉焼きは、焦げてぐちゃぐちゃだった。失敗したほうを自分に、成功した目玉焼きを私に譲ってくれたことぐらい、卑屈な私にもわかる。
胸が詰まって私は箸を置いた。
「陽ちゃんってそんなに涙もろかったっけ?」
志麻先輩がティッシュの箱をテーブルの上にすべらせる。私はキャッチして、目元をティッシュで短く拭って首を横に振った。
「最近、感情のコントロールがうまくいかなくて……」
「癇癪起こすの初めてだったから、疲れたんだろ。普段はおとなしいから、まわりが知ったらびっくりするな」
「……絶対誰にも言わないでくださいね」
「俺の口は堅いよ」
そのとき、窓の外から美しいピアノの旋律が流れてきた。私と志麻先輩は同時に窓の外を見た。
「リストの愛の夢第3番か。秋澤が好んで弾く選曲じゃないな」
志麻先輩のいうとおり、秋澤理香子はロマンチックな曲より物悲しく激しさに振り切った曲を好む。
「でも上手です」
「そりゃ、うちの高校のピアノコースで一番うまい奴だしな」
『愛の夢第3番』はフランツ・リストの有名な曲だ。穏やかとロマンチックをゆったりと語るならこの曲をBGMに選べば間違いないと思う。
原曲は歌曲で、タイトル訳は確か――。
「“おお愛せよ、お前が愛しうる限り”だっけ。タイトル訳」
あいた食器を流しに下げて、戻ってきた志麻先輩が椅子につくなり言った。私はぷっと吹き出した。志麻先輩の口がへの字になる。
「なんだよ」
「だせえタイトルとか言いそうなのに、先輩うっとりした顔で言うから」
「言ったろ。俺はロマンチストでフェミニストな珍しい男子高校生なの」
ダイニングテーブルに寝かせた肘に頬を預けて、志麻先輩が少しの照れも出さずに言った。本当にロマンチックな歌が好きなんだろう。そういえば虹を近くで見るためだけに学校をサボったって、月島先輩が今日言ってたっけ?
私はぽつぽつと喋った。
「志麻先輩、秋澤理香子と真逆で小さい頃からロマンチックっていうか、明るい曲好きでしたよね。ピアノ教室に通い始めたのも“パッヘルベルのカノン”が弾きたいからだったでしょ」
『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』の前半、『パッヘルベルのカノン』もまた穏やかで、結婚式や卒業式、門出によく使われる明るい曲だ。
同じ旋律をずらして重ねていくことで、透明感のあるハーモニーが生まれる。
心が荒んでいるときには決して上手に弾けないと思うほど、希望と温かさを持つ名曲だ。
「よく覚えてるな。陽ちゃんそのとき小二じゃん」
「男の子でカノンを弾きたいからピアノを習うってきっぱり言った子初めてだったから。みんなだいたい、親とか兄弟の影響で習いにきてましたし。どうしてカノンを弾きたかったんですか?」
「それは陽ちゃんが学校の音楽室で弾いてるの見たからですよ。あれを聴かなかったら、俺は絶対ピアノやってなかったね」
茶色い前髪の隙間から、志麻先輩が私を見つめる。【だから、俺をピアノの世界に引きずり込んだ責任をきちんととれ流太陽。目の前のことから逃げるな】と、訴えかけられてる気がして目が離せない。
「今後どうなるとか関係なくさ。とりあえす陽ちゃんは今、ピアノをすごく弾きたい。ピアノが弾きたくない。どっち?」
今更聞いたって、ペアコンサートの申込み時間は過ぎてることは、掃除機をかけている時点で気づいていた。参加はもうできないのに、志麻先輩はしつこく引き下がらない。
「……弾きたいけど」
緊張して声が震える。
「けど?」
「やっぱり怖いんです。昨日、今日だって人前で弾こうとしたら弾けなかった。今でこうなのに、志麻先輩とペアコンサートなんて出てたら足引っ張るに決まってました。それならまだ、一人でピアノ弾いてたほうがいいと思いません? そうすれば指が苦しくなっても曲の途中でリタイアできます。今更ピアノを初めて、誰かと一緒に弾いて、迷惑をかける人生を送りたくないんです」
なにより、
「大好きなピアノを通して、先輩に恥をかかせたくなんです」
仮に志麻先輩とペアコンサートに出て、ステージ上で失敗したら? 今日みたいに指が動かなくなったらどうするの?
「なら俺に恥かかせないように死ぬほど練習しろよ。陽ちゃん。俺は一緒にピアノが弾きたかったよ」
立ち上がった志麻先輩がリビングの隣の部屋に移動する。掃除の手がまわってない、アップライトのピアノがある部屋だ。
「志麻先輩、そっちは無視していいです」
立ち上がった私は追いかける。志麻先輩はすでにピアノの前に立ち、椅子の高さを軽く調節して鍵盤蓋を開けて、音を鳴らした。
数年ぶりに聴いた元相棒の調律がずれていなくて驚いた。きっとお父さんが私に内緒で、調律師を呼んでいてくれたんだ。
ドアの前で立ちすくむ私を、志麻先輩が振り返った。
「俺だってペアコンサートなんて緊張するよ。でも、陽ちゃんはいつも俺を助けてくれただろ。初めての発表会のときだって、陽ちゃんだけが走って隣にきてくれたじゃん」
私は志麻先輩の初発表会の日を再び思い出した。
あの日――ステージの上で硬直した志麻先輩が、泣きそうな顔で舞台袖を振り返る。沢村先生やレッスン生に「たすけて、忘れた」と呟く。
でも誰一人、「頑張れ」「志麻くんなら大丈夫」と腕を振り上げるだけで助けにいかなかった。楽譜台には志麻先輩が弾く初心者用の“パッヘルベルのカノン”の楽譜が置いてあるから、音符を忘れるなんてことはないと全員が思ってた。
でも、忘れちゃうのだ。
そういうときって誰しもある。
緊張すると、楽譜があっても音符を読めないことがある。
ステージの上でその現象に陥ると、演奏者はパニックになって、もう、ピアノなんてやめたいと思う。
私もはじめの頃は、そうだった。
「志麻君!」
ステージ袖から駆け出した小学二年生の私は、目に涙をためる志麻先輩の隣に並んだ。ステージ袖の沢村先生が「こら、戻っておいで」と私に手招きしてるけど無視して、観客のみなさんにお辞儀する。
こわばった声で「流太……」と言う志麻先輩の隣に立ち、つとめて明るい声で言った。
「助けにきたよ。落ち着いて、志麻君なら弾けるよ。右手はシャープのファで、左手は普通のレからはじまるよ。ゆっくり弾けば、最後まで絶対きれいなカノンになるよ。沢村先生が志麻君だけのために編曲してくれたカノンだよ、頑張ろう」
指を置く鍵盤を指さして「曲が終わるまで、私ずっと隣にいるね」と励ます。
小学三年生の志麻先輩は涙を拭い、鍵盤に指を置いた。
――そして今、現実の志麻先輩は鍵盤に右手だけを置いて、ファのシャープから始まるメロディを弾きはじめた。初めての発表会の日に弾いた初級のパッヘルベルのカノンだ。
左手は、鍵盤にのってない。
「……私、出場してもどうせ足引っ張ってましたよ。昔みたいに純粋に楽しく弾けるなんて思えないし」
「昔の陽ちゃんだって純粋に無邪気に楽しいって感じで弾いてなかったけどな。早く練習したいのに指の居心地が悪くて休憩せざるをえないときの顔、怖かった」
「久しぶりに会った後輩にそこまで無神経になれるなんて、志麻先輩すごいですね」
「当ててやろっか? 陽ちゃん、ピアノだけじゃなく、なんでもいいから頑張ってる奴にもイライラすることあるだろ?」
「ないですよ」
「テレビで自分と同世代の子どもが音楽で賞をとったり、スポーツで活躍してインタビューを受けてるとき、歌番組でライトが当たってるとき、ざわっとするだろ」
「しないですよ」
「その理由教えてやろうか?」
「教えなくていいです、やめてください」
「陽ちゃんは情熱を持って活躍できる同世代の子どもが羨ましいんだよ。昔は自分も“そっち側”にいたけど、今は違う。いつまでたってもうじうじ尻込みしてっから、君は自分にむかついてんの」
くすぶっていた心に薪がどかどかくべられて、胸の中で炎が吹き上がった感じがする。志麻先輩の左側に私は立った。左手をそっと、鍵盤の上に浮かせる。
「葛藤はしていいけど卑屈にはなるなよ。ハンデもってるならなおさら」
志麻先輩の右手のメロディが、わずかにゆっくりになる。私が追いかけやすいようにテンポをおとしてくれたんだ。
私は意を決して、五年ぶりに鍵盤をひとつだけ押した。指に刺激が襲ってきたけど、それでも音はちゃんと響いた。
押したら勝手に鳴るから当たり前なんだけど、世界中で私一人だけ、ピアノに嫌われるみたいな気持ちでずっと生活してたから目頭が熱くなる。
感動してる私をよそに、志麻先輩はずっとメロディを引き続けている。私は今度、左手の指をすべて鍵盤の上に置いた。五本指同時に鍵盤に触れると刺激がより強く伝わってきて、すぐに鍵盤から指を放した。
深呼吸してもう一度、鍵盤を押す。志麻先輩が右手で弾くメロディを、私は左手で追いかける。きれいなハーモニーが部屋中に響いて「うわ……」と声が漏れた。
なんてきれいな音だろう。
しかも、楽譜がなくても指がちゃんと覚えてる。
不快感は拭えないけど、凍結していた指が暖炉の火でほぐれたように柔らかくなっていく。興奮して思わず志麻先輩を見ると、先輩の唇の端もあがっていた。
どうしよう。楽しくて気持ちがいい。
あぁ、今までどうして弾かなかったんだろう?
一年でも、一ヶ月でも、一週間でも一日でも一秒でもいいから、もっと早く弾けばよかった。
……そうだ。志麻先輩のいうとおり私は悔しかった。ハンデを持った私が唯一褒められて、普通の子みたいに成績を残せたのがピアノだった。それを挫折した自分に腹がたったし、同世代の子に抜かされたのが悔しかった。なにより私は、ピアノが好きな子どもだった。
踏み出せばこんなにも簡単だったのに。
気づけば十五分、パッヘルベルのカノンを先輩と一緒に弾いていた。その時間が一旦の、今の私の指の限界だった。
「全然弾けるじゃん。まぁ、下手ではあったけど」
「おかわりしていいですか」
「もう残ってねえよ」
志麻先輩はキッチンのある方向を指さした。
私は首を横に振る。焼きそばじゃなくて。
「休憩したら、もう一回ピアノをおかわりしていいですか」
志麻先輩は面食らったように目を丸くしてから、「いくらでも」と嬉しそうに頷いた。
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