05


 


 私は急いでクリーナーの中をあけた。



 床に転がってるボールペンを持って、コックピットから乗組員を救出する気持ちで、ダストカップのホコリやゴミをボールペンでかきわける。でもどこを探しても、孤独な寂しさを紛らわしてくれた同居人は見当たらない。



 頭の中でなにかがプツンと切れた音がする。私は床にぺたんと座り込んだ。



 カーテンレールの隅を見上げると、細い糸を綺麗に紡いだ巣がかかってる。たった一匹、小さな体で孤独に巣を作り続けるのはどんなに大変だったろう?



 私よりよっぽど頑張り屋さんで働き者だ。蜘蛛はきっと「どうして自分はこんなにダメなんだろう?」なんて泣き言もいわず毎日を一生懸命生きていた。


 それを、掃除機で吸い込むなんて。



 そのとき、カーテンの向こうに、ぼんやりと薄暗いシルエットが浮かび上がったのに気づいた。立ち上がり、カーテンのを開けてみると、なぜか志麻先輩が家の外に立っていた。


 私の家の庭に、見慣れない自転車が横倒しになっている。



 志麻先輩の唇の動きを読む。多分、こう言ってたと思う。



『陽ちゃん、どうした?』



 いつも余裕ぶっている志麻先輩の表情が、緊張と不安でいっぱいになっている。その顔を見ていると、遥か昔にあったピアノの発表会を思い出した。




 沢村ピアノ教室で年二回ある、レッスン生だけで行う発表会。小さいホールを借りて行うステージではあるけど、生徒はもちろん、生徒の家族や近所の人も観客で座席は全て埋まっていた。



 ピアノ歴半年になった志麻先輩はその日、緊張のあまりピアノの椅子に座った瞬間、硬直してしまった。



 私はステージ袖ではらはらしながらその小さな後ろ姿に『頑張れ、弾ける、大丈夫だよ志麻君』と心の中でエールを送っていた。




「……どうしよう志麻先輩」



 リビングの窓を開けた私は、外にいる志麻先輩に告げた。



「殺しちゃった」


「は? なにが。誰を?」


「蜘蛛を殺しちゃったんです、掃除機で」



 本当は『どうして私の家の前にいるんですか?』って言おうとしたのに、懐かしいピアノ教室の日々を思い出したらダメだった。


 志麻先輩は、はぁ? 蜘蛛? って顔してる。


 私はリビングを指さした。



「掃除機で吸っちゃったんです。ずっといっしょに暮らしてたのに」



 皮膚の上にすべる涙の触感が気持ち悪い。なのに、拭っても拭っても溢れてくる。志麻先輩は背伸びして家の中を覗き込み、荒れ放題のリビングに顔をしかめた。



「親父さんは?」


「彗星探しに行ってます」


「中に入っていい?」



 私は窓から離れた。志麻先輩はきょとんとしたけど「はいはい、玄関じゃなくて窓からすぐ入ってこいってことね」と笑って、自分のカバンを中に入れてから窓の淵をつかんでリビングに乗り込んだ。


 スニーカーを脱いで、そこらへんにあった新聞紙の上にのせる。


 解体途中の掃除機の前にしゃがみこんだ志麻先輩は、ダストカップの中を探り、掃除機の吸い込み口を覗いたり揺すったりしてる。すると乳歯が抜けたように、吸い込み口から蜘蛛がぽろんと出てきた。



 私は、あっと声をあげた。



「入口の隅に絡まってた。生きてるじゃん」



 数分ぶりに見る蜘蛛は、細い足を懸命に動かしてゴミ箱と段ボールの隙間にカサカサと逃げていった。



「……死んでなかったんだ。生きてたんだ」



 あの蜘蛛はすごく、しぶとかったんだ。

 ほっとして、私は床にぺたんと座り込んだ。



「立てよ、ダメ後輩」



 でも立ち上がった志麻先輩に鋭く睨まれてびくっとした。怒ったときの沢村先生みたいなスパルタな口調だ。私は制服のスカートのひだを直しながら立ち上がった。


 志麻先輩は私が壁に投げつけたいくつかのクッションの側に行くと、つるつるしたサテン生地のクッションを拾い上げるなり、私の顔めがげて投げた。クリーンヒットして、私は顔を抑えて唸る。



「なにするんですか急に、痛いじゃないですか」


「この部屋の有り様はなんだよ汚えな。こんな汚ねえ部屋にいるから卑屈でうじうじした性格に変わるんだよ。昔はもっと明るかっただろ」



 昔と今を比べる男はサイテー、マジでデリカシーないんだから。――一週間前にテレビ出演していた恋多き女性タレントが憤慨しながらそうコメントしてた。志麻先輩、ドンピシャだ。



「む、昔の私と比べないでくださいよ。大体、どうして家の前にいたんですか」


「今日中までだから申込用紙に名前もらいにきたんだよ。ま、俺に誘われるのは迷惑みたいですけど?」


「ストーカーみたいですよ、志麻先輩」


「誰が卑屈な後輩なんか好きになるか」



 志麻先輩は文句を言いながら、床に散乱したものを片付け始めた。クッションをソファに綺麗に並べて、学校カバンの中に私の教科書を詰め込む。キーホルダー、ピルケース、ペン、ハサミをテーブルの上に並べて、ペットボトルやゴミは、落ちていたビニール袋数枚に分別して入れていく。私はさっきの仕返しにクッションを志麻先輩に投げた。ノールックでキャッチされる。



 たった一年しか違わないのに、この人間に勝てない。



「やめてください掃除なんて。先輩にさせることじゃありません」


「うだうだ言ってないで君も早く手伝ってくれませんかね?」


 志麻先輩が掃除機を指差した。



 いくら小さい頃からの知り合いだからって、学校の先輩がすることじゃないし、させることじゃない。でも一ヶ月以上散らかっていたうえに、私の八つ当たりを受けた家の中を母親みたいに手際よく志麻先輩が片付けていくのを見てると言えなかった。



 私は鼻をすすって、掃除機の電源をやけくそに入れた。足の踏み場がどんどんできていくフローリングに落ちているホコリやゴミを吸っていく。



 どこから発掘してきたのか、フローリングワイパーに専用のシートをちまちまはめていた志麻先輩に「角の隅までちゃんとかけろよ」と指示された。



 同じ言葉を優里やクラスメイトに言われたら「わかった」と笑顔で返すのに、志麻先輩には気持ちがむき出しになってしまい、私はあからさまにむっとした。



 どうして先輩に命令されなきゃいけないんですか? と、最初は反論していた。

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