04
志麻先輩が沢村ピアノ教室に初めてきた日のこと、一応は覚えてる。
第一レッスン室で休憩している私のところに、ソバージュヘアの沢村先生が突然「ご紹介ターイム」と言って、ガチガチに肩を張って緊張してる志麻先輩をつれてきた。
「今日からうちのレッスン生になる志麻慧悟くん。弾きたい曲があるからうちに入ってくれたんだって。こっちは二歳の頃からうちに通ってる流太陽さん。慧悟君の一つ下だから小学校二年生ね。慧悟君と同じ小学校だから、どこかですれ違ってるかもしれないわね」
「二歳からってすげー……」
志麻先輩が、驚いた顔をする。
この頃の私は今より明るい性格で、褒められても「ありがとう」とはにかむ余裕があった。そのとき、ドアの隙間から眉をハの字にした秋澤理香子がそろっと顔を覗かせた。
「沢村先生ちょっといいですか。わからないところがあって」
「あら大変。すぐ行くわね……。そうだ陽ちゃん、うちの教室のこと慧悟君に説明しててもらえる?」
沢村先生は私達にウインクして、片っぽずつ柄の違うスリッパをぺたぺた鳴らして陽気に出ていった。
沢村先生にはブラジルの血が入ってて、このピアノ教室はブラジル出身のピアニストであるひいおじいさんの遺産らしい。驚くことに四つあるレッスン室全部にグランドピアノが一台ずつ置いてあって、強い色彩で派手な柄のファブリックがあちこちに主張強めに置いてある。
私の説明が終わると、志麻先輩は両手で目をこすった。
「部屋の中見てると目がチカチカする。派手すぎね?」
「すぐ慣れるよ」
「さっきの先生さ、どうしてスリッパ右と左で別の履いてんの?」
先生用の椅子に座って、志麻先輩が足をぶらぶら揺らした。幼い私は身振り手振りで説明する。
「あれはね、ラッキースポット……りろん? っていうんだよ」
「なにそれ。算数の話?」
「ううん、先生がおじいちゃんから教えてもらったおまじないなんだって。右と左が全部同じになっちゃうとね、運命っていうのがコテイされて動かなくなっちゃうんだって」
志麻先輩が首を傾げる。ピンときてない証拠だ。
「運命が動かないってどういうこと?」
「えっと……ラッキーがやってこなくなるんだって」
四苦八苦しながら、私は続けた。
「でも左右がちがってると、かたびっこになって“ズレ”ができるでしょ。そうすると、その隙間からラッキーがたくさん入ってきて、キセキ? っていうのが起きるんだって」
「つまり……こういうのをしてると、幸運があるってこと?」
志麻先輩は左右の靴下を脱いで、それぞれ逆に履き直した。私は頷く。
「女子ってこういうの好きだよな。クラスでも流行ってた」
――この頃の志麻先輩はやっぱり、奇跡も虹も四葉のクローバーもおまじないも全く興味なかったと思う。まぁ、小学生にロマンチストもないんだけど。
学校から家に帰ってきて、汚いリビングのソファに寝転がる私は右足のつま先をつまんで、紺色のソックスをびろんと脱いだ。左足も同じように脱いで、まとめて壁に投げた。
昔から私は、早寝早起きの子どもだった。
歯磨きも朝晩ちゃんとするし、好き嫌いもない。お茶碗にご飯粒を残して食器を下げたことはないし、道に迷ってるお年寄りがいればすぐ駆け寄った。宿題をさぼったことはない。
小四のとき『お母さんじゃきっと、陽を幸せにできないよ。ごめんね』と新しい家族を作って出ていくお母さんを『行かないで』と泣いて引き止めたこともない。
いいことを心がけてるはずなのに、どうして自分はこんなにダメなんだろう?
どうして過敏なんだろう?
どうして継続力や忍耐力がないんだろう?
自業自得だけど、やるせない。
あのとき、挫折さえしていなければ。
……考えるとムカムカしてきて、リビングに転がってる物を感情にまかせて壁や床に投げつけた。
学校カバン、教科書、クッション、キーホルダー、ピルケース、ペン、ハサミ、ブランケット、ペットボトル。オルゴールを投げたときは壁に斜めの傷がついた。癇癪を起こす自分が嫌になるのに、手は新たに投げつけるものを探してる。このままじゃ家が壊れる。わかってるのに、八つ当たりが止まらない。
コントロール不足で投げたリモコンが、テレビボードの上に飾ってあったガラス玉のオブジェに当たる。ごとんと鈍い音がしてガラス玉が床に落ちたとき、さすがに駆け寄った。
それは、お父さんがガラス職人に作ってもらった特注品だ。
ガラス玊の中には神秘的な夜空が閉じ込めてあって、青い彗星が真横に走ってる。私が中二のときにお父さんが発見して名付けた“ルピナス彗星”だ。
幸い割れてはなかったけど、リビングを見渡してようやく我に返った。怪物に踏み鳴らされたあとみたいに、部屋中めちゃめちゃになってる。
情けなくて涙がにじんだ。八つ当たりでなにが解決するっていうの? ピアノを辞めたのも、踏み出せないままでいるのも自分一人のせいなのに。
目元を袖で拭って立ち上がり、充電中の掃除機にのろのろと手をかけて電源をオンにした。こぼれる涙をいちいち拭いながら、目に見える場所だけでもキレイにしなきゃとフローリングに掃除機をかけていると、まるで私に駆け寄ってくるみたいに、倒れたゴミ箱の横から黒い塊が飛び出してきた。
「待ったダメこないで!」
叫んだときはもう遅く、蜘蛛は掃除機の中にズボッと吸い込まれた。
あっ、と喉から声が出る。あんなに小さいのに、あんなに勢いよく吸い込まれた!
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