第7.5話「スプーン一杯の勇気」

カフェ『トワイライト・スプーン』のドアの前で、一人の女性が立ち尽くしていた。

名前は、西野リオ。二十歳。

彼女の手はハンドバッグのストラップを強く握りしめ、指先が白くなっている。

(……怒られるかな。もう二度と来るなって、言われるかも)

数日前、彼女はこの店にいた。

派手な友人たちに囲まれて。「映え」のためだけに注文し、一口も手を付けずに立ち去ったグループの一員として。

『えー、リオ食べるの? もう溶けて汚いし、行こうよ』

『そっか、だよね。アハハ……』

あの日、友人たちの「空気」を壊すのが怖くて、彼女は笑って同調した。

けれど、帰り道も、家に帰ってからも、ずっと胸の奥に棘が刺さっていた。

あの時、カウンターの奥で悲しそうに俯いていたシェフの顔が、忘れられなかったのだ。

「……謝らなきゃ」

リオは深呼吸を一つして、重たいドアを押し開けた。

カランコロン、とベルが鳴る。

平日の午後。店内は穏やかな空気に包まれていた。

「いらっしゃいませ!」

元気な声で迎えたのは、ホールを手伝っていた桃子だ。

そしてカウンターの奥には、仕込みをしているパティシエの坂本がいる。

リオは一番奥の席に座ると、震える声で注文した。

「……トワイライト・ジャンボパフェを、一つ」

数分後。

運ばれてきたのは、宝石のように輝くフルーツとジェラートの塔。

あの日、写真の中にしか残らなかった「ごちそう」だ。

(綺麗……)

リオはスプーンを手に取った。

あの日、一度も持ち上げることのできなかった銀色のスプーン。

彼女は、まるで贖罪の儀式のように、丁寧に最初の一口をすくい、口へ運んだ。

――冷たい。そして、甘い。

自家製ジェラートの滑らかな口溶け。ベリーソースの酸味。

食べ進めるごとに、体の芯が震えた。

こんなに美味しいものを、私は「ゴミ」として扱ってしまったのか。

リオは食べるのを止めなかった。

友人たちの視線も、同調圧力もない。今はただ、このパフェと、作ってくれた人と、自分自身に向き合う時間だった。

カチャン。

最後のソースまですくい取り、スプーンが空のグラスの底を叩いた。

完食。

「……お客様、お下げしますね」

坂本が、水を注ぎ足しにやってきた。

リオは顔を上げた。今言わなければ、一生後悔する。

「あのっ……!」

「はい?」

「……ごめんなさい!!」

リオは頭を下げた。勢いあまって、おでこがテーブルにつきそうになるほどに。

「私……先週の日曜日に、友達と来て……パフェを一口も食べずに残して帰った者です」

店内の空気が止まった。

坂本の目が少しだけ見開かれる。

「ずっと……申し訳なくて。友達の手前、言い出せなくて……でも、どうしても、このパフェの本当の味を知りたくて……謝りたくて……!」

言葉が涙声になる。

自分勝手な言い分だとはわかっている。それでも、伝えずにはいられなかった。

怖くて顔を上げられないリオの耳に、優しい声が届いた。

「……ありがとうございます」

え? とリオが顔を上げる。

坂本は、怒ってはいなかった。

その顔には、穏やかな、救われたような微笑みが浮かんでいた。

「綺麗に食べてくれて……ありがとうございます。作り手として、こんなに嬉しいことはありません」

坂本は、ピカピカになった空のグラスを愛おしそうに見つめた。

言葉よりも何よりも、その「完食された器」こそが、彼女からの最大の謝罪であり、敬意だったからだ。

「とっても……美味しかったです。ごちそうさまでした」

「はい。また、食べに来てくださいね」

リオは涙を拭いて、久しぶりに心からの笑顔を見せた。

リオが店を出て行った後。

カウンターの隅で、箱座りをしていた白い猫――ミャスターが、ふむと鼻を鳴らした。

「人間というのは面倒な生き物だニャ。群れて自分を見失ったり、こうして一人で頭を下げに来たり」

「でも……素敵でしたね」

桃子が、洗い終わったグラスを拭きながら微笑む。

「『美味しかった』の一言だけで、過去の失敗も全部、エネルギーに変えられる気がします」

「フン。まあ、あの娘の心のつかえも『消化』されたようだし、良しとするかニャ」

ミャスターはあくびをした。

食卓には、色々なドラマがある。

甘いだけじゃない。苦い後悔を飲み込んで、人はまた「いただきます」を言えるようになるのだ。

夕暮れのカフェには、今日も甘く優しい香りが漂っていた。


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